1939年のノモンハン事件で日本はロシア(旧ソ連)に大敗したにもかかわらず、それ以降も無謀な作戦で敗戦を重ねていった。日本には何が足りなかったのか。2021年に亡くなった作家・半藤一利さんの著作『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)から、一部を紹介する――。

※本稿は、半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/TOSHIHARU ARAKAWA
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TOSHIHARU ARAKAWA

■不問にされた無謀な「戦争」

昭和十四(一九三九)年九月一日、百五十万のドイツ軍部隊が、ポーランド国境を越えて攻撃を開始する。第二次世界大戦のはじまりである。このヨーロッパ情勢の激変もあり九月十五日、ノモンハン付近の国境線をめぐる日ソ戦は早急に停戦協定が結ばれ、終結した(角川新書編集部注:昭和十四年五月に始まったノモンハン事件で、関東軍は大本営の方針に背いて戦線拡大したが、ソ連軍の優勢な火力により第二十三師団壊滅の大敗を喫した)。

歴史に「もしも」はないが、あのまま戦闘がつづけられていたならば……は、「運命の十年」を考える上で絶好の面白いテーマとなる。つまりは、日本はこの事変から何を学んだか、ということに帰結するのであるが。

ところが、組織というものは今日もまた同様で、失敗の研究を徹底的にし、その責任を明らかにしようとはしないものである。文字面としての各論は一応は残すが、頂点まで責任の及びかねないことは「そこまで」でとどめるのを常とする。この場合はまさにその典型となったのである。

■陸軍の火砲は想像を絶するほど旧式だった

翌十五年一月、陸軍中央に設けられた「ノモンハン事件研究委員会」はその結論となる報告をまとめている。それは、作戦計画や戦闘そのものの調査研究はもとより、統制・動員・資材・教育訓練・防衛および通信・ソ連軍情報など多岐にわたるものであった。それぞれの「報告」では核心をついたことがいくつも記されている。

たとえば、「……火力価値の認識いまだ十分ならざるに基因してわが火力の準備を怠り、国民性の性急なると相まち誤りたる訓練による遮二無二の突進に慣れ、ために組織ある火網により甚大なる損害を招くにいたるべきは、深憂に堪えざるところなり」とある。

これはもうそのとおり。ノモンハン戦で、もっとも勇敢に戦った第二十三師団野砲第十三連隊の実情をみれば、「火力の準備を怠り」の事実はシロウトにも納得させられる。この師団砲兵が機械化の遅れた輓馬砲兵であったことはさておいても、その火砲は想像を絶するほど旧式であった。たとえば、歩兵直接支援とはいえ近距離用の三八式七五ミリ野砲は、全陸軍中もっとも古い明治三十八(一九〇五)年制式の代物で、ほかのどこの師団も使用していなかったのである。

■途中から「白兵突撃あるのみ」と焦点がズレていく

ところが、「報告」はこのあとに「優勢なる赤軍の火力に対し勝を占める要道は一に急襲戦法にあり」という余計な文章を加え、せっかくの正しい判断をぼかしてしまう。日本陸軍の骨髄をなす白兵突撃の尊重は狂信の域に達していたらしい。

それゆえに、総判決はまことに怪しげなものとなっている。

「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛な攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢との白熱的衝突である。国軍伝統の精神威力を発揮せしが、ソ連軍もまた近代火力戦の効果を発揮せり」

そして当然のことながら、ここから導き出される結論は、

「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にあるわが火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」

■どの計画も実行不可能は目に見えていたが…

こうして根本となるべき作戦指導者の杜撰かつ独善的な作戦計画と、前後を考えぬ無謀そして泥縄的な戦争指導は不問とされ、闇に消えていってしまっている。しかも事件後に一新された参謀本部には、総判決にいう「火力戦能力を速やかに向上」というお題目を突きつけられても、どうにも施すべき妙策もなかった。せいぜい「修正軍備拡充計画」とそれに並行する「支那派遣軍の兵力整理」に着手するのがやっとで、しかも、いずれの計画も実行不可能は目に見えていたのである。

しかし、このとき、救う神があらわれた。昭和十五年五月十日、ドイツ軍は矛先を西部戦線に転じ、ベルギー、オランダを攻撃。マジノ線を突破してパリへの電撃的な進撃作戦を開始した。そして六月十四日にパリが陥落する。

焦燥と無力感にうちひしがれていた陸軍中央は生き返る。「支那の兵力を減らすことばかり算盤をはじいて支那逐次撤兵まで決めていた陸軍省軍事課が、すっかり大転回して対南方強硬論をとなえた。これからすぐシンガポール奇襲作戦をやれ、というのである」(種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房)という形容のしようもないハシャギようとなるのである。

■ノモンハン事件の責任者たちが舞い戻ってくる

すなわち、昭和十五(一九四〇)年夏ごろから、日本には奇妙なほどに「南進」の大合唱が沸き起こってくるのである。ノモンハン事件の翌年に成立した第二次近衛内閣は、七月二十七日には大本営政府連絡会議が陸軍の主導のもとに「武力を用いても南進」という重大な国策を決定する。根拠なき自己過信、驕慢な無知、底知れない無責任と評するのは容易である。が、いまの日本も同じようなことをやっているのじゃないかと、そんな観察ができるだけに、情けなさはいや優る。

いや、それに輪をかけて情けないことがその後につづいて起こっている。関東軍において辻政信参謀とともに、ノモンハン事件をミス・リードした最大の責任者の一人、服部卓四郎中佐がその年の十月には参謀本部作戦課へ栄転してきた。彼はただちに作戦班長となり、翌十六年には作戦課長に昇格し、八月には大佐に進級する。辻少佐はやや遅れるが、服部が課長になった少し後の十六年七月にひっぱられて参謀本部員の作戦課作戦班長として服部課長を補佐するようになる。

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■慎重派を切りすて、またもや杜撰な作戦を立てる

辻を中央へ呼び寄せることに、当時の作戦課長土居明夫大佐が猛反対した。

「絶対に駄目だ。君と辻を一緒にしたら、またノモンハンみたいなことをやる……」と。

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)

しかし、班長の服部の部内策謀のほうが上であった。作戦部長、田中新一少将は慎重派の土居を切りすてた。かわって課長に昇進した服部は、いまや南進論の第一人者になっている辻を呼び寄せる。昭和十六年七月、こうして服部・辻のコンビを中心に三宅坂上(陸軍参謀本部のあった場所)は東南アジア進攻一色にそめあげられていった。

辻はその著『ガダルカナル』に例によって得意げに書いている。昭和十七年七月に出張で台湾に飛んだときの感想である。

「台湾研究部が店開きをし、その部員に選ばれて初めて南方研究の第一歩を踏みだしてからまだ僅か一年有半、南方作戦の編制装備や訓練を真面目に考え始めたのは十六年の正月元旦からだった。わずか半年の研究で現地の作戦計画をたて、数カ月で発動したのが太平洋戦争なのだ」

またしても杜撰な、泥縄的計画で対米英戦争へ引っ張っていったのか、という批判はもうやめる。あに辻のみならず、開戦前の三宅坂上の南進論の合唱はまこと騒然たるものであった。

■ノモンハン敗戦の後遺症は政治にも影響

いや、軍部ばかりでない。第二次近衛内閣はその組閣前の首相、外相、陸相、海相の候補との会談で、日独伊三国同盟の強化とならんで、日ソ不可侵条約締結を外交方針として早々ときめている。さらに七月二十二日の大本営政府連絡会議で「速やかに独伊との政治的結束を強め、対ソ国交の飛躍的調整をはかる」ことを正式に国策とする。どちらも陸軍中央の原案にもとづく決定なのである。ソ連を主敵としてきた明治いらいの国策はどこへいったのか。

これはもうノモンハン敗戦の後遺症以外のなにものでもないのではないか。陸軍は羮(あつもの)に懲り懲りしたのである。それが政治の分野にまで大きく浸透し影を落としていた、というほかない。そこに、やがて日本の主要外交路線となった「日独伊ソ四国同盟」という夢みたようなことが主張される温床もあった。

■昔も今も変わらない日本の「情けなさ」とは

ノモンハン事件の衝撃波は、どのくらいの強度と持続性とを日本の軍政関係に与えていたことか。実のところ、ノモンハン事件の研究は、戦況についてはかなり進んできているが、その政治的な意義についてはほとんど着手されていない。そこに今後の問題があるであろう。

それにしても、日本はかつて、そしていまも、自身の構想はなく、常に外側からの圧力によって軌道を修正し、調節して、政策らしきものをつくってきたようである。情けないというのはその意でもある。

「好機南進」の戦略的政治情況は、目先のきく服部や辻が巧みに舵をとって造ったものか、あるいはその風潮に彼らが乗ったのか、それは定かではない。しかし、二人とももはや「北」には目を向けなかったのは確かである。かわりに「南」へ、対米英戦争への道を強力に切り開いていった。このコンビにとってのノモンハン事件のもっとも悲しくも情けない戦訓は、それであった。

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半藤 一利(はんどう・かずとし)
作家
1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。
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(作家 半藤 一利)