鎌倉幕府2代将軍・源頼家とはどんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「武芸達者で、政治問題にも関心を持っていた。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれているような暗愚な君主ではなかった」という――。
写真=iStock.com/Korkusung
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Korkusung

■2代将軍・源頼家は本当に暗君だったのか

源頼家は、父・頼朝の死去した後(1199年)、2代目の鎌倉将軍となった。しかし、頼家の将軍としての評価は、これまで、とても悪かった。

頼朝は「偉大な独裁者」、ところが頼家は若年であり、しかも気性の矯激な暗愚な君主というのが通説である。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、俳優の金子大地さんが、頼家を熱演している。父・頼朝を超えようとしてもがくも、その熱意は空回り。しかも父に似て無類の女好き。やはり暗愚な君主という通説を踏襲している。

■部下の愛人を奪おうとする「鎌倉殿」

女性にまつわる話は鎌倉時代後期に編纂(へんさん)された歴史書『吾妻鏡』に記されている。御家人・安達景盛の妾を奪おうとしたのだ。ドラマにおいては、景盛の妾も、頼家にゾッコンなように描かれていたが、実は、景盛の妾は、再三にわたる頼家の求愛を蹴っていた。それに業を煮やした頼家は、景盛が三河の国に旅立っていた留守中に、側近を派遣し、妾を拉致。強引に囲ってしまったのだ。

ドラマのなかで、頼家は「父も同じことをやっていたのに、なぜ自分だけが非難される!」と怒りをぶちまけていたが、頼朝は複数の妾を持つことはあっても、他人の妻や妾を強引に奪うというような分別のないことはしていない。

景盛は、三河から帰ると、すぐに妾を奪われたことを知る。そして、当然ながら、頼家に対し、恨みを募らせる。その情報は、頼家の耳にも入る。頼家は反省するどころか、恨みを持つなどけしからん、景盛を討ち取ってしまえと側近たちに命じるのだ。

一触即発の事態を収めたのは、北条政子であった。彼女は景盛の父・安達盛長の邸を訪問し、頼家の所業を非難。「景盛を強引に滅ぼそうというなら、まず私に向かって矢を当ててからにしなさい」と息子に伝えるのだ。さすがの頼家も、母のこの言葉に矛を収めるしかなかった。

頼家を弁護する声もないではなかった。「13人の御家人」のひとり、大江広元は「今回の頼家様の行い、先例がないわけではございません。白河院に寵愛された祇園女御は、源仲宗の妻でした。しかし、院は女御を召した後、仲宗を隠岐国へ配流にしてしまったのです」と述べている(『吾妻鏡』)。頼家の行動に先例ありとして、弁護する見解もあったのである。

■頼家と13人の御家人の本当の関係

頼家の暗君を象徴する話は、他にも、『吾妻鏡』に記載されている。

鎌倉幕府2代将軍 源頼家像(画像=建仁寺/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

1199年4月には、訴訟問題を頼家がじかに判決を下すことが停止され、北条時政など13人の有力御家人の合議によって決裁されることが記載されているが、これも頼家が若年で暗愚であるため、親裁が止められたと理解されてきた。

しかし、頼家はその実権を完全に剝奪されたわけではないことは、同じ『吾妻鏡』の記述からうかがうことができる。

『吾妻鏡』(国史大系本)には「諸訴論のこと、頼家が直に決断する事を停止した」とあるが、同書の吉川家本には「諸訴論のこと、頼家が直に(13人以外から)訴訟を聞き届ける事を停止した」とある(1199年4月12日)。

つまり、前者においては、頼家は訴訟について最終的な決断を下す権限が停止されたことになる。が、後者では頼家が13人の御家人以外から訴訟を聞き届けることが停止されただけであり、頼家の親裁が排除、否定されたわけではない。そして後者の事を裏付ける出来事が、これまた『吾妻鏡』に載っているのである。

■自分の判断で領地問題を解決する

1200年5月28日のこと。土地に関する訴訟問題が三善(みよし)善信(やすのぶ)から頼家に上申された。すると頼家は善信から進められた絵図を見て、墨をその絵図の中央に引き「所持する土地が広いか狭いかは、その身の運による。わざわざ訴訟対象の土地に使節を遣わす事は、無駄である。今後は、土地の境界についての訴訟は、このように決裁するべきだ。とやかく言う者があったら、訴訟として取り上げてはいけない」と言ったという。

まず、この話からは、頼家の親裁が完全に否定されていないことが分かろう。有力御家人13人のひとり・三善善信からの上申もあったことも分かる。

さらに、頼朝時代の決定を不服とする人々へ、頼家からの戒めと捉えることも可能であろう。

この時期、頼朝から頼家への代替わりに伴い、土地を巡る訴訟(土地の権利関係の改変など)が増加していた。しかし、頼家はこの動きを歓迎しなかったようだ。頼家の確たる考えを表した話とも言えよう。

以上の事を考えた時、頼家を単に無能と評価することには慎重でなければならない。(ちなみに、前述の頼家の提案は、実行されていない)

■吾妻鏡に書かれた頼家情報の真贋

『吾妻鏡』は、頼朝以降の源氏をおとしめ、北条氏を持ち上げる書き方になっている点もあるので、頼家に関する記述には注意も必要である。

同書には、頼家をおとしめるかのような記述が他にもある。例えば、建仁元年9月20日の「御所で蹴鞠があった。およそその間、頼家は政務をなげうち、連日、蹴鞠に没頭した」との文章もそうであろう。

蹴鞠に没頭した頼家の行動を非難することは、「蹴鞠を単なる遊戯とみなす現代人の先入観が潜んでいる」(坂井孝一著『源氏将軍断絶』PHP研究所)とする見解がある。

確かに、蹴鞠は単なる遊びではなく、時に重要な政治ツールとなる芸能であった。蹴鞠をする頼家をいたずらに非難することに慎重でなければいけない。

■独自の派閥を形成して権力を維持

前述したように、13人の宿老たちは、頼家の親裁を否定したわけではなかった。しかし、頼家はそれに対抗するかのように、自らの側近に力を持たせようとしていた。

13人の有力御家人以外から訴訟を聞き届けることが停止されたとの『吾妻鏡』の記事から約1週間後の4月20日には、小笠原弥太郎、比企三郎、比企弥四郎、中野五郎ら側近以外は、頼家から特別の仰せがなければ御前に参上することはならぬとの決定があったという。

7月26日、安達景盛の妾を囲っている建物には、小笠原弥太郎、比企三郎、和田朝盛、中野五郎、細野四郎以外の者は近寄ってはならないとの命令からも、独自の派閥を形成しようとした頼家の意向を見ることもできよう。

彼ら側近がやったこと(景盛の妾の拉致など)の是非はここではおくとして、宿老とは別に新たなルートを強化しようとした頼家はなかなかのしたたかものであり、単なる操り人形でなかったことは確かである。

が、最終的に頼家は、北条氏によって、鎌倉を追放され、伊豆の修善寺に幽閉。1204年7月、伊豆の修善寺で殺害される。頼家を殺害したのは、北条氏の手の者といわれている。

■北条氏が2代目将軍を殺したワケ

頼家と近い比企一族は、初代将軍・頼朝の前から源氏に仕えてきた一門だ。頼朝、頼家を育てた乳母は、比企一族の女性だった。さらに、頼家の愛妾は能員の娘で、子を産んでいる。北条時政としては、自身と対立する比企一族に結び付く頼家が邪魔だったのだろう。

さらに、時政は、まだ少年である頼家の弟・千幡(後の3代将軍・実朝、乳母は時政の娘・阿波局)を擁立することを念願し、それを実行に移した。そうなると、頼家を生かしておいては、後でどのような反撃があるか分からない。よって、頼家を殺害したと思われる。

■日本史に残るすさまじい殺され方

20代前半の頼家はまだ若く、暗殺者もなかなか殺すことができなかったようで、首に緒を巻きつけ、ふぐり(睾丸)をおさえつけ、無力化したところを押さえつけて殺したという(天台宗の僧侶・慈円が書いた『愚管抄』)。すさまじい殺し方、死に方である。

頼家の最期を見ても、彼は武勇にも優れていたと推測される。

頼家が直接誰かを倒した、殺したとする記録はないが、彼の弓の師匠は、弓の名手・下河辺行平であり、頼家自身も弓の腕前は優れたものがあったという。

『吾妻鏡』以外の頼家の評価としては「頼家は古今稀な弓の腕前を持つと聞こえていた」(『愚管抄』)、「百発百中の芸に長じていた」(鎌倉時代の歴史物語『六代勝事記』)というものがあり、とにかく、頼家は武勇、特に弓の腕前に優れていたことが分かる。武家の棟梁である「鎌倉殿」にふさわしい資質であろう。

頼家は比企氏と結び付かず、北条氏と密着していれば、非業の最期を遂げずに済んだろうが、頼家と比企氏の関係は、父・頼朝の意向によって、生まれた時から既にインプットされており、頼家の悲劇は既にそこから始まっていたと言えよう。

----------
濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
----------

(作家 濱田 浩一郎)