新濱立也インタビュー後編

今年2月の北京五輪スピードスケート男子500mで金メダル候補とされながら、スタートでバランスを崩すミスにより20位に終わった新濱立也(高崎健康福祉大学職員/25歳)。少しの時を経て、これまでのスケート人生や五輪の戦いをどう振り返り、そして未来をどう展望するのかーー。自身もスピードスケート選手として2度の五輪出場経験がある宮部保範が、新濱が働く高崎健康福祉大学を訪ねた。後編では、五輪での勝負の瞬間、直後の心情を打ち明けた。


北京五輪スピードスケート男子500mの新濱立也 photo by JMPA

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北京五輪のスタート「何ひとつ不安はなかった」

 リラックスして試合に臨めるようになった新濱立也は、次々と新たな世界を拓いていった。2019年ワールドカップ(W杯)では破竹の勢いで勝利し、2020年には日本男子選手として33年ぶりとなる、世界スプリント選手権のタイトルを獲った。1998年長野五輪金メダリストの清水宏保も手にできなかった偉業だ。タイムは33秒79の日本記録を保持し、標高を考慮した低地リンクでの世界最高記録をオランダで記録している。

 2021年、コロナ禍で国際大会への派遣が見送られるなか、粛々とトレーニングに励み、そして北京五輪シーズンを迎えた。新濱がシニアデビューした時には、ほかに世界戦上位で戦える日本選手はいなかった。しかし、新濱とともにナショナルチームで競い合った仲間たち、それを目標にした若手が、いつの間にか世界をうかがい新濱に迫る力をつけていた。

 出場する日本代表3人の持ちタイムは皆33秒台で、日本男子500mで史上最強との呼び声も高かった。布陣は盤石かに思えた。

「現地にはレース本番の2週間ほど前に入りました。1週間前のトライアルレースでは、34秒38でした。本番前のトライアルなので、気持ちも正直まったく入ってないですし、80%もいかないくらいの力の入れ具合で滑りました。それであのタイムだったので、本番に向けて、このまま調子をキープできれば問題ないという感じでした」

 新濱がトライアルで記録したタイムは、北京五輪の2位に相当するものだった。気持ちを込めていない、力を加減したにしては上々の仕上がり。チームに帯同していたスケート連盟の科学スタッフの解析によれば、バックストレートでのトップスピードは過去のレース本番で記録したものと同等だったという。加えて、新濱が前シーズンに課題としていた50〜100mの加速が劇的に伸び、続く第1カーブのスピードもかつてないほどに速かった。

 トライアル後すぐに科学スタッフからデータの説明を受けた新濱だが、本番に向けての気持ちには変化を感じなかったという。このままの調子をキープできれば問題ないと考えた。だが、振り返るうちに調子をキープすることの難しさについても触れた。

「体の調子を1週間キープすること自体を、この4年間で一度もしてこなかった。大会に対して1週間前からピークがきている状況で大会を迎えたことはなくて、逆に1週間調子をキープできるか、不安は正直ありました。やっぱり、ピークがきているということは、あとは下がるかも知れないので、維持するのは本当に難しいなと思いながら、体をどこまでケアして、どこまで練習して保っていくかというところを、トレーナーと綿密に相談しながらレースに臨みました」

 練習での体への刺激の具合に応じてケアを入れ、筋肉の張りが足りなければ強めの練習をした。レース直前1週間を丁寧に過ごしたという。

「正直、本番のスタート地点に立った時は、何ひとつ不安はなかったし、緊張もなかった。あとはもう自分の滑りをしてゴールラインを切るだけだなっていう思いでした。ただ、(同走した選手の)フライングでちょっと崩れたところはあります。そこまでのトップタイムは中国選手が出した34秒32で、低地のリンクで簡単に出せるタイムではない。低地で34秒3の前半を出されて、ワンミスすれば絶対勝てないですし、ノーミスでいかなければ勝てない場面でした」


北京五輪から数ヶ月が経ち、リラックスした表情も見せた新濱

幻となった1回目の好スタート

 本人は、終わったことなので正直どうしようもないとケリをつけているようだが、新濱の1回目のスタートはバッチリ決まっていた。号砲に吸い込まれるように飛び出し、力みなど欠片もないすばらしいスタートだった。しかし、同走の選手にスターター補助員の旗が上がり、やり直しになった。2回目のスタートは、どちらがフライングしても失格だ。惰性で50mほど進んだ新濱は、かかとを返しスタートライン後方へと戻る10数秒の間に何を思ったのか。

「2回目、もう失格覚悟でいくしかないと思っていました。自分は銀メダルや銅メダルを獲りたいという思いで4年間やってきたわけではなかった。金メダル、そこのみだって正直思っていたのでチャレンジしたい思いが強かったです。2回目は、本来だったらセーフティに出るのがセオリーではあると思うんですけど、守りに入ったら34秒32には勝てないと、あの一瞬で思ってしまった」

 新濱は4年間、金メダル、頂点を獲るためだけに、チャレンジし続けてきた。決めたら自分は獲れると公言もしてきた。それだけ金メダルへの思いは強かっただけに、冷静に攻めて勝つという新濱の真骨頂が揺らいだ。

「2回目は、崖っぷちです。その状況でスタートラインに立つのは、気持ち的に焦りもありますし、過去に舞い上がって冷静さを欠く経験もしていました。冷静かつ狙いにいかないといけないと、あの一瞬で考えてはいたんです。ただ、つまずいた。スタートして、なんでこんなに右足が刺さるんだろうという思いで滑っていました。気持ちが入りすぎたのか、冷静さに欠けたのかは、鮮明に覚えてるわけじゃないんですけど......」

 不測の事態に答えを出せないまま、レースは進んだ。ひどくつまずいた最初の3歩の代償は大きく、100mの通過でトップから0秒7遅れた。ただ、そのあとの400mのラップタイムは、上位入賞選手と互角だった。出遅れた分、最初のコーナーに入る時のスピードは上がりきってはいないなかで、である。

「(レース後半にかけて)インレーンから出たカナダの選手がグングン近づいてくる感覚がありました。もしかしたら差せると思いながら全力を出しきりました。あの時、体の調子はよかったし、最後まで諦めずに滑れて楽しかった部分もあります。チャレンジした結果がミスにつながったけれど、自分が選んだ道ではあったし、悔いなく北京五輪を終えたのかなと思っています」

「お疲れさま」の温かい言葉

 しかし、新濱は五輪後のW杯や世界選手権に出場していても、五輪での失敗を引きずっていた。

「本当にスケート人生のどん底だなって。北京五輪まで4年間やってきて、世界記録や日本記録も出したし、世界スプリントも獲って年間のワールドカップの総合優勝も。本当にとんとん拍子で多くの成績を残してきたにも関わらず、この五輪が重要なのに、4年間してこなかったミスをしてしまった。自分はついてないなというか、なんか本当に持ってないなと終わった直後は感じてしまった。これ以上は厳しいんじゃないか、限界なのかなって。世界選手権、W杯ファイナルと残ったレースすべてで、少なからず五輪のことを考えながら滑っていましたから」

 柄にもなく自身の可能性を疑った。

「五輪直後はもうやめたいな、ここから逃げたいなという自分がいたのは正直なところです。でも、やっぱりW杯ファイナルで2連勝できたことで、まだ世界で自分は戦える立場にいるし、まだまだ上にいけるなと感じられました。オフを迎えて、スケートからちょっと離れて考える時間が多くなって、ここでやめたら悔いが残るんじゃないかとも思い始めました。そういった意味ではあと4年間チャレンジして、最後、本当にいい形でスケート人生を終えられればいいなとも」

 新濱は、他人と自分を比べることなく、自分自身のスケートと向き合ってきた。五輪を目指しながらも、テレビで五輪を見ることすらしなかったという。だからなのか、思い描いていた結果を携えることなく地元の北海道別海町尾岱沼に帰って挨拶まわりをした時の周囲の反応に驚いた。

「地元に戻っていろんな方々に会えました。自分が直接関わってきた人以上に、親の仕事仲間や町の皆さんが応援してくださっているのを実感しました。親からはこの4年間ずっと、『いろんなところで、みんなが応援してくれてるよ』と聞いてはいました。メダルも獲れずに合わせる顔がないなと思いつつも地元に帰ってみると、多くの方から、『お疲れさま』と労いの言葉をいただいて、たくさん応援してもらっていたんだなって感じました。ここまでやってきてよかったし、本当に温かい町に生まれたんだと、あらためて感じました」

 周囲の温かさが、スケートをまだ続けたいという思いをあと押しした。

「これから恩返しないといけないなっていう思いがあふれてきました」


新濱(右)と、インタビュアーを務めた元スピードスケート選手の宮部保範

(終わり) インタビュー前編から読む>>

【profile】
新濱立也 しんはま・たつや 
スピードスケート選手。高崎健康福祉大学職員。1996年、北海道野付郡別海町生まれ。3歳からスケートを始め、釧路商業高校3年の時、インターハイで500mと1000mで優勝。高崎健康福祉大学進学後、2019年3月のW杯最終戦・男子500mで33秒79を出し、当時の日本記録を大幅に更新。2020年2月の世界選手権スプリント部門で優勝。2022年2月の北京五輪は男子500mで金メダル候補とされたが、20位に終わった。

宮部保範 みやべ・やすのり 
元スピードスケート選手。1966年、東京都生まれ。父親の転勤に伴い、北海道や埼玉県で学生時代を過ごす。埼玉・浦和高校、慶応義塾大学を卒業後、王子製紙に進む。1992年アルベールビル五輪に弟の宮部行範とともに出場し、男子500mで5位、1000mで19位。1994年リレハンメル五輪は500mで9位。