「過去の人になりかけていた」と語る君島十和子さんの現在とは?(撮影:今祥雄)

人生100年時代と言われますが、何度、花を咲かせるかはその人次第。ときに枯れながらも種をまき、まるで四季咲きのように、新たな花を咲かせていく人たちの人生は、私たちに自分らしく生きるヒントを与えてくれます。

今回お話を聞くのは、元女優で美容家・起業家の君島十和子さんです。

君島十和子”と聞いて世の人が抱くイメージは、それぞれだろう。美容雑誌で崇められる美容家のパイオニア、かつて連続ドラマで主人公のライバル役を演じていた女優、日本中の注目を集めたお家騒動のスキャンダルの渦中にいた人……。

「若い世代の方々は私の存在すら知らないかも。先日、デパートの化粧品売り場に新製品をチェックしに行ったんですけど、あるブランドの20代と思しき販売員の方に日焼け止めの大切さを熱心に解かれてしまいました(笑)」

約20年前、今も続く美容ブームの創世記に雑誌やテレビで紫外線予防の大切さを誰よりも熱心に訴え始めたのは、君島十和子さんその人だった。

美容家の第一人者。でも過去の人になりかけていた

表参道の交差点ほど近くに君島十和子さんのオフィスはある。化粧品会社「FTC」は、2005年にUVケアクリームを発表して以来、スプレー式の化粧液やオールインワンゲルなど、高い効果と機能性を兼ね備えた名品を生み出し、仕事に家事や育児に忙しくも美しくありたい女性たちの支持を得ている。十和子さんは、そのクリエーティブディレクターであり、夫である君島誉幸氏とともに経営も担っている。

風通しよく広々としたオフィスに入ると、10人以上の女性スタッフが顔を上げて挨拶の声をかけてくれる。PCに向かっていた十和子さんも、こちらに気づくと笑顔で軽やかに立ち上がった。色鮮やかなワンピースを纏った彼女は、大輪の花のような凛とした美しさ。

ずっと美容業界の一線で活躍してきたことは多くの人が知るところだが、本人曰く、「数年前は過去の人になりかけていた」。


君島さんのオフィス(撮影:今祥雄)

「時代は変化していますよね。特にこの10年。一瞬でも、目をつむったらあっという間に世界は別物です。それに気づいたのが2、3年前。私は、インスタグラムを始めたのが2019年と後発です。特別でもない生活を写真にしても、誰も喜ばないかなと思って躊躇していて。でも、美容の世界もどんどんSNSが中心になっていき、遅ればせながら始めて。実際にやってみたら、こんなサードワールドがあるんだと驚きました!」

SNSを駆使すれば、一般の個人がメディアにもなれる時代だ。ここ数年、インスタグラムの勢いはとどまることを知らず。美容やファッションを語るインフルエンサーたちが次々に人気を集め、雑誌やテレビの役割をも担うようになった。

「悔しさがゼロと言ったらうそになる」

「今やインフルエンサーの方々が作る化粧品の個人ブランドも無数にあって、そこに各々のファンがいる。この世界では、私の存在感なんて小さい(笑)。20年近くも美容のお仕事をしていて、美容家のパイオニアなんて言っていただくこともありますけど。SNSをやっていなかった人間は、どれだけ経験や実績があってもこの世界にいないも同然。若い世代の人には知られていなくて当たり前だなと」

まさに黒船到来、浦島太郎気分だったと明るく笑う。美容の大家として、サードワールドとはいえ、存在を見てもらえないことは悔しくなかったのだろうか。

「悔しさがゼロと言ったらうそになります。でも、これが現実。一方では、新しい世界を楽しみたいという挑戦心も湧き上がってきて。友人のイヴルルド遙華さん(フォーチューンアドバイザー)に『インスタライブをやってみよう』と誘ってもらって思い切ってやり始めました」

初めてのインスタライブは、予想以上に楽しかったという。

「本名も顔も知らない方がコメントくださったり、応援してくださったり。時にはアンチの人が来ると守ってくれたりもして(笑)。私もできる限りコメント返信しています。バーチャルでも新しい出会いや不思議な絆が生まれるんですね」

現在では、週1、2回は美容にまつわるインスタライブを行ってフォロワーと積極的に交流している。40代以降のデジタルネイティブではない世代は、SNSで自分の存在感をアピールすることやバーチャルな人間関係を構築することが難しく感じられる人も多いが、十和子さんは楽しんでいる。


FTCの化粧品(撮影:今祥雄)

「時代と同期しながら生きるのは面白いですよね。数年前も会社は成長し続けていたし、私自身も新しい挑戦をしていたつもりですけど、世の中には同期できていなかったんだろうなと。50代半ばにもなったら、少しずつ人生を仕舞う準備をする人も多いし、それも一案です。でも、美容家として、美しくなりたい女性たちに美を伝えることが私の使命ですから。終の住処に閉じこもるにはまだ早い。だからね、今後は時代の波には乗って生きて行こうと決めました」

優しく柔らかな表情、品格のある空気を纏いながらも、その言葉は、一言一句がきっぱりとして小気味よい。十和子さんの人生はいつも自らの決断で鮮やかな新章を迎える。

バブルの恩恵を受けられなかった下積み女優だった

君島十和子さんは1966年、東京都に生まれた。幼い頃、普段はお化粧をしなかった母親がある日、口紅をつけていた。その面差しの変化に驚き感動して以来、化粧品やメイクに興味を持つように。

「宝塚も大好きでした。キラキラしたものが大好きだし、憧れていたんでしょうね。あとは、ごく普通ののんびりとした子だったと思います」

そんな十和子さんに最初の大きな転機が訪れたのは、19歳の時。JALのキャンペーンガールに選ばれたのを機に芸能事務所にスカウトされ、大学進学をやめて、芸能界入りを決断したことだ。

「ずっと憧れていた宝塚歌劇団を受験する勇気が持てなかったことを心の奥で悔いていたんです。そこにチャンスが訪れて。やらない後悔より、チャレンジする後悔を選びたいなと。でも、すぐに自分はタレントには向いていないと気づきました。堺正章さんや明石家さんまさんの番組のアシスタントをやらせていただいた時も、ただ横で笑っていることしかできなかったりして。あの場はまさに戦場ですよね。特に器用でも積極的でもない私にとって、その戦場に切り込み、自己主張するタレントの仕事は難しいものでした。

芸能界で長く輝ける人って、生まれながらに、あそこで戦える性質を持っているんですよ。頑張ってやっているわけじゃない。私みたいに自分を鼓舞しないと前に出られない人間は、自然淘汰されていって当然の世界だなと」


芳麗さんによる新連載2回目です

さっぱりとした口調で語るが、当時は生真面目ゆえに上手くできない自分へのストレスで、円形脱毛症や摂食障害寸前にまで追い込まれた。それでも、覚悟を持って入った芸能界。どこかに居場所を見出したいと考えてたどり着いたのがお芝居の世界だ。自ら演劇の研究所に通い、イチから芝居の勉強を始めた。役者としての仕事は少しずつ増えていく。

「最初は2時間ドラマの端役に始まり、だんだん、NHKの連続ドラマなどのお仕事もいただけるようになりました。なぜか、主人公のライバルの意地悪な女性役が多かったです(笑)」

至極、端正な美人顔、近寄りがたいほどのオーラを放つ十和子さんは、女優時代、お高い美人の代名詞のような存在でもあり、“女性の敵”のような役柄がたしかに似合っていた。

自分の立ち位置は自分で作る

「敵役であろうと、犯人役であろうと役割が持てたことがうれしかったです。素の自分とは異なる人物を演じるのが役者ですしね。昔も今も自分の役割を理解して全うしたい気持ちが強いんです。どうすれば、私はここで役に立てるのか。与えられるのを待つのではなく、自ら探したい。求められる人間でありたいという思いが強いのかもしれません」

自分の立ち位置は自分で作り、能動的に働く。責任感が強く勤勉な十和子さんは、どの世界で何をしていても、たとえば、会社のOLでも愛され出世したに違いない。

「いえ、もし、私が一般企業に就職していたら鼻持ちならないOLになっていたと思いますよ(笑)。バブル時代でしたしね。同級生の女子は短大や大学を出て、一流商社の内定をいくつももらって。海外出張や連日銀座でお食事会して、華やかなOL生活送った末に、エリートのダンナ様と結婚して海外赴任先で優雅な生活をしたりしていました。でも私の20代は下積みだったから、そんなバブルの恩恵には一切あずかれず(笑)。もし、そこにいたら、自分は甘え切っていたと思います。今の私があるのは、最初に芸能界で揉まれたからです」

そんな下積みを経て、女優として花が咲き始めた29歳の時のこと。十和子さんの運命は大きな渦に巻き込まれていく――。

(この記事の続き:元女優・君島十和子さんの「大胆な転身」のその後

(芳麗 : 文筆家、インタビュアー)