本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【後編】

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前編のあらすじ

本能寺の変に「黒幕」はいなかった……これまで「黒幕」の動機だけが語られ、その計画などには具体性・実現性がありませんでした。

謀叛を成功させるために必要不可欠な条件が揃ったのはあくまでも偶然であり、「黒幕」がそれを事前に計画するのは不可能だったと言えるでしょう。

ともあれ、信長の油断によって生み出されてしまった千載一遇のチャンスを逃さず、光秀は信長暗殺を成功させたのでした。

前回の記事

身内にさえ事前連絡をとっていなかった光秀

かくしてルイス・フロイスが

「彼(光秀)は信長ならびに世子(信忠)が共に都に在り、兵を多く随えていないのを見て、これを殺す好機会と考え、その計画を実行せんと決心した」

とイエズス会に報告した状況になったのですが、この状況は事前に計画してつくり出せるものではないため、文中の「計画」とはほぼ思いつきに近いもの。黒幕たちと事前に練り上げていた計画ではないでしょう。

また光秀は本能寺の変を起こした後、かつて足利幕府の同僚であった細川藤孝(ほそかわ ふじたか。幽斎)を説得しようと書状を送っていますが、そこにわざわざ謀叛の動機を書いているのです。

「我等不慮の儀存じ立て候事、忠興など取り立て申すべきとての儀に候。更に別条なきに候」

【意訳】我らがこのような謀叛を起こしたのは、ご嫡男の細川忠興(ただおき)殿を立身出世させるためであり、他に理由もないのです。

信長の死を知るや、光秀に与せぬ意思を示すため出家した藤孝。「絹本着色細川幽斎像」

……そんなバカな。もちろんこんなものは藤孝を勧誘するためのご機嫌取り以外の何物でもありません。真に受けるべきではないでしょう(実際、藤孝も相手にせず、疑われぬよう信長を哀悼するため出家しています)。

ここで大事なのは、光秀は親しい藤孝にすら事前に計画を洩らしていなかったこと。娘婿である津田信澄(つだ のぶずみ)にも計画を知らせた形跡がなく、頭数を増やせば増やすほど、機密が漏洩するリスクを光秀も心得ていました。

そんな状況下にあって、秀吉でも家康でも義昭でも朝廷でもイエズス会でも何でもいいのですが、光秀が「黒幕」と連絡をとりあっていた(信長暗殺を共謀していた)と考えられるでしょうか。

では、なぜ光秀は信長を討ったのか?

本能寺の変に「黒幕」がいないとしたら、光秀は自らの意志で信長を討ったことになります。それでは、なぜ光秀は信長暗殺を考えるようになったのでしょうか。

その原因として、近年では信長の対四国政策が影響しているという説が唱えられています。

時は天正3年(1575年)、信長は土佐国(現:高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に対して「四国を手柄次第に切り取ることを認める」旨を伝えました。

四国地図

当時、讃岐国(現:香川県)と阿波国(現:徳島県)は三好(みよし)一族が占拠しており、これを本土と挟み撃ちにする意図があります。よくある遠交近攻(えんこうきんこう。遠くの国と連携して近くの国を攻める)の典型例ですね。

しかし三好康長(やすなが)が織田に寝返ると信長はこれを受け入れ、逆に勢力を伸ばす元親を警戒するようになりました。

天正9年(1581年)に入ると信長の支援を得た康長は四国で勢力を伸ばし、四国北東部を掌握。それで信長は元親に対して「領有は土佐と南阿波のみとし、それ以外の伊予国(現:愛媛県)などは返還するよう」命じます。

前には「切り取り放題」と言っていたくせに、いざ都合が悪くなって返せとは理不尽な話。しかも信長の支援によって得たならともかく、完全に実力で勝ち取った所領を手放す筋合いはありません。

もちろん元親は信長の命令を突っぱねます。織田・長宗我部の対立を懸念したのが、これまで対四国の交渉窓口となってきた光秀です。

何とか元親を説得しようと努めますが、まったく応じてくれません。そんな中、信長は天正10年(1582年)2月、四国の分割計画を示しました。

織田信孝(丹部侍従平春高)。歌川国芳筆

讃岐国:織田信孝(のぶたか。信長の三男、信長の命令により康長に養子入り)
阿波国:三好康長
伊予国:未定
土佐国:未定

これは暗に長宗我部の所領(本拠地である土佐、新たに奪った伊予)を全没収することを意味しています。もう長宗我部との交渉役は必要ない……要するに光秀はお役御免となってしまいました。

四国征伐の大将になれず……

光秀は信長の信頼を取り戻すためには、何としてでも四国征伐の指揮官を拝命し、長宗我部を織田の軍門に下すよりありません。

が、天正10年(1582年)5月。信長は三男の信孝を四国征伐の総大将、丹羽長秀を副将としました。

信長は光秀と長宗我部の関係を懸念しており、総大将にすると手を抜くリスクが高いと判断したのでしょう。

四国征伐から外されてしまった光秀は、中国方面で戦っている羽柴秀吉の援軍として向かうことになります。

落合芳幾「本應寺大合戦之図」

それにしても、信頼を回復したいなら秀吉の下で真面目に努めればよかろうに、なぜ謀叛を早まってしまったのでしょうか。

『当代記』によると光秀は当年67歳(諸説あり)。羽柴秀吉46歳、丹羽長秀48歳、滝川一益58歳、柴田勝家56〜61歳に比べて織田家中でもかなりの高齢。

さる天正8年(1580年)には、老臣の佐久間信盛(さくま のぶもり)や林秀貞(はやし ひでさだ)らが相次いで追放されています。信長の信任を失った光秀が、役立たずとして粛清されてしまうことを恐れた可能性も十分にあり得るでしょう。

もはや織田家中に希望がなくなった(と思い込んだ)光秀が、信長の油断によって生じた千載一遇の好機を逃さず謀叛に踏み切った……とする四国政策転換説。

戦前から徳富蘇峰(とくとみ そほう)らが指摘している説でしたが、近年では有力視が強まっているとか。

今も決着を見ていない「本能寺の変に黒幕はいるのか問題」。今後の研究による解明が俟たれますね!

【完】

※参考文献:

呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年3月