悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか?

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「殺生関白」というレッテル

不遇の死を遂げたことで有名な豊臣秀次。

豊臣秀次(Wikipediaより)

彼には「殺生関白」という不名誉なレッテルが貼られていますが、これは本当なのでしょうか。

そのレッテルの由来と信憑性を探ります。

豊臣秀次が「殺生関白」と呼ばれている元となっているのは、『信長公記』の著者である太田牛一が記述した「太閤さま軍記のうち」にある内容です。

「殺生関白」という悪名も、秀次切腹事件の経緯も、この記述がもとになって後世に伝わっていきました。

その悪行としては、次のような話が伝わっています。

正親町上皇が崩御して喪に服している時に、鶴を食べたり鹿狩りを行ったりしていたため、不道徳的だとして京の人たちが狂歌を街角に張り出した。

女人禁制の比叡山に女房らを連れていき夜まで遊宴し、殺生禁止の聖域で狩りをおこない、山の衆が抗議しても聞き入れなかった。

北野天神で杖をついた盲人に遭遇した際、酒を飲ませてやると騙して連れて行き右腕を斬り落とした。盲人が「これが悪名高い殺生関白の秀次か」と悟って恨み言を口にすると、滅多斬りにした。

他にも、鉄砲の稽古だと言って農民を撃ち殺しただの、弓の稽古だと言って往来の人を射っただのと、これでもかというほどの悪行三昧です。

しかし、これらの話は同時代の他の資料には載っておらず、これらは誇張・創作されたものではないかとも言われています。

では、実際の秀次はどのような人物だったのでしょうか?

極めてまともな活躍ぶり

豊臣秀次は1568年、秀吉の姉・ともの長男として生まれました。父は木下弥助(後の三好吉房)です。

数少ない秀吉の縁者だった秀次は、幼少期は人質として利用され、最初は浅井家家臣・宮部継潤の養子として、次に阿波の三好康長の養子として送り込まれています。

そんな秀次も1582年に山崎の戦いに出陣して初陣を飾ったのを皮切りに、1583年の賤ヶ岳の戦いや1584年の小牧・長久手の戦いに出陣します。

『賤ヶ嶽大合戦の図』賤ヶ岳の戦いの錦絵(Wikipediaより)

特に小牧・長久手の戦いでは「中入り」のため三河国への別働隊の総大将となりますが、逆に徳川勢の奇襲を受けて惨敗。舅である池田恒興や森長可らを失い命からがら敗走したため、秀吉から激しく叱責されています。

この時の印象が強く、秀次は戦に対しては無能だと思われがちですが、大きな負け戦はこの時だけで、その後の紀伊雑賀攻めでは羽柴秀長と共に副将をつとめ千石堀城の戦いで城を落としています。また、四国攻めでも副将として3万の軍勢を率いて戦功を挙げています。

これらの活躍が評価されて近江国八幡山城43万石の城主となった秀次は、内政面で手腕を発揮しました。

まず、本能寺の変で焼け落ちた安土から商人を呼び寄せ、碁盤目状の街路を作り、現在の近江八幡市の原型となる城下町を整備しました。

近江八幡城からの眺め

また、領内で農民の間に水争いがおこった際に庄屋が秀次に裁定を訴えたところ、秀次は双方が納得する裁決を下して感謝されたという逸話もあります。

現に、近江八幡市内には「水争い裁きの像」が建てられ、秀次は今でも地元では高い評価を得ているのです。

1590年の小田原征伐では山中城攻めの大将となり、徳川家康らと共に半日で陥落させています。

戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国・伊勢国を加増され、100万石を超える大大名となります。

秀吉には子供がいなかったため後継者として注目されるようになり、将来を嘱望される存在となっていました。

豊臣秀吉(Wikipediaより)

そして、秀吉の嫡男・鶴松が夭折し大和大納言秀長が没すると、秀次は秀吉の養子となり関白の職を譲られます。

唐入り(朝鮮出兵)に専念する秀吉の代わりに、まだ20代半ばの若さでありながら、聚楽第で秀吉の決めた法度などに準じて政務を執り、関白の名に恥じない働きぶりを見せています。

しかし、1593年に淀殿が豊臣秀頼を産むと雲行きが怪しくなります。

凄惨な処刑

秀頼を溺愛した秀吉は、秀次に関白の座を譲った事を後悔し、次第に疎んじるようになっていきます。

豊臣秀頼(Wikipediaより)

そして1595年、秀次は「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てているという噂がある」と謀反の疑いをかけられてしまいます。

謀反する気など全くなかった秀次は、すぐに秀吉に弁明し誓紙を提出した上で要請に応じて伏見城に参上しますが、登城すら許されず城下の屋敷に留め置かれ、高野山へ行き謹慎するように命じられてしまいます。

わずかな供を連れ高野山へ入り出家した秀次、しかし、そこにもたらされたのは「死を賜る」という命令でした。

秀次は切腹、享年28。しかし、悲劇はこれだけでは終わりませんでした。秀次の切腹後、秀吉による粛清は彼の妻子と家臣にまで及び、三条河原で凄惨な処刑が行われました。

京都三条大橋 (7月)

遺体は秀次の首と共に一ヶ所に埋葬され、そこに建てられた塚は「畜生塚」とされました。

また、秀次に近しい大名達も改易処分となり、秀次が政務を行っていた豪華な聚楽第や、所領の近江八幡城も全て破却されてしまいました。

この時の秀吉のふるまいは常軌を逸した残忍極まりないものでした。これといった罪のない秀次の処罰を正当化するために、「殺生関白」秀次像が創られたのではないかという見方もあります。