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右肩の疼きは生々しい羽生氏の人間らしさ!

お出掛けをしてまいりました。この二日間ほどタイムラインから流れてくる「私は大変なものを見たのです」系の口伝情報に歯ぎしりしていた、「ファンタジー・オン・アイス2022」神戸公演のライブビューイングに行ってきたのです。直前までリセールで現地チケットが手に入らんかと粘ってはみたものの、惜しいところで決済までたどり着くことはできず、予定通り映画館での鑑賞となりました。まぁ、「口伝」で伝え聞くのは思った以上に心の平静を保ちづらいところがあったので、こうして見られるだけでもありがたいことです。

↓映画館でアイスショーを見ますよ!


映画館の客席は札止め満員でお仲間がたくさん集っています。今回の公演は台湾でも中継されているそうで、ライブビューイングの画面にも一部で台湾向けの字幕が表示されていました。世界のお仲間が今まさに浮つき、ザワつきながら見守っていると思うと、世界すべてが「現地」になったような気持ちになります。

幕張・名古屋とつないできたAツアーとはスケーター・アーティストも若干入れ替わってのBツアー。あえてあんまり入れないようにしていた予備知識では、アヤしくて艶めかしい羽生氏が見られるのだと言います。Aツアーとはまた雰囲気も変わり、強烈に心を揺さぶってくるのであると。そして、また「落ちる」のであると。まるでディグダグ(※穴掘って地下に降りるゲーム)みたいに、常に落ち続けている同士たちが、やっぱり今回も「落ちる」のであると。歴戦の落ち民がまだ落ちる新演目とは一体どんなものなのか。大変楽しみです。

オープニング、羽生氏は早速一味違う表情を見せてきます。宮川大聖さんの楽曲「略奪」での開幕の群舞で、もはや当然という感じで歌を口ずさみながら踊る羽生氏。周囲のスケーターと基本的には同じ振付のようではありつつも、羽生氏なりの解釈をさらに重ねているのか、引きの映像ではわずかに追加の動きなどもありそうです。しかし、そんな細かいところを探る以前に、ズドンとドカンと剛球が画面から放たれてきます。

楽曲自体が略奪愛というか、少し危険な愛を歌ったものであるため、羽生氏もキ・ケ・ンなモードに入っています。キ・ケ・ンモードの表情をされると、片腕が露わになっているだけでもちょっとドキッとしてしまうから不思議なものです。「腕はさすがにしょっちゅう見てるやろ」とは思うのですが、単に半袖の練習着を着ているところと、あえてさらしてくるキ・ケ・ンな二の腕とではこんなにも違うものなのかと思います。腕とは「誰かを抱くときに使う部位」なんだなって今さらながらに気づかされました。

そして、その危なさが休みなくリズミカルに身体の奥のやらかい場所に打ち込まれてくる。指をクチに当てて「シーッ」とする場面では、「あ、このあと黙って無抵抗でいれば、ワタシどうにかされちゃうヤツだ…」と覚悟させるような表情を見せてきます。何目線だって話ですが、母目線で息子のこの顔を見たら、「お父さんの若い頃を思い出させたらダメよ…」って目を覆いつつ指の隙間から覗いていたいような気持ちになるんじゃないでしょうか。僕個人としては、人生でこの顔を母親に見せたことは一度もありません。皆無です。羽生氏、大丈夫ですか。お母さん帯同してるんじゃないんですか。これはオカンに見せたらアカンやつじゃないんですか!アカン、アカン、アカンカンカンカンカンカン!(※アカンボタン連打中)

そして楽曲PVなどでも印象的だった「ねぇ、油断しすぎだよ」のセリフの場面では、衣装の裾をひらひらさせて故意にお腹を見せてきます。え?それって女子で言うとスカートたくし上げてる的な行為でした?だとしたら、ちょっと救心買ってから来いってチケットに書いておいて欲しいんですけど?油断はしてないけど、油断してなきゃ耐えられるものばかりじゃないですからね?どんなに備えてても「ふぁっ」ってなるヤツはアカンカンカンカンカンカン!(※アカンボタン連打中)

最後の「目線で殺す」みたいな決めポーズまで含めて、一貫して超攻撃的なパフォーマンスを繰り広げた羽生氏。代表的な場面以外にも愛の弾丸を装填した銃をちょこちょこぶっ放しており、現地も映画館も「略奪」というか「殲滅」になっています。左右両隣と後ろから聴こえてくる一際大きなご婦人たちの息遣い。テレビ放送がされたあとに改めて細かい部分は確認したいなと思いますが、もはやコレは「イケ散らかす」なんてレベルではありません。

そもそも「イケ散らかす」って無差別放出であり、ある意味で精度は低いわけじゃないですか。花火みたいに愛の光が散らばってキラキラしている感じで。ただ、今回のは受け手というかターゲットの存在を強く意識して、狙ってきているなという「意志」を感じます。こちらが勝手に落ちるのではなく「この演技でキミを落とすよ」と狙って落としにきている。これはワルい、ワル過ぎる。紙コップ投げただけでも落ちちゃうチョロいターゲットたちを精密射撃で狙うって危険過ぎるでしょう。光が強過ぎてアカン!

↓Z世代のコンテンツは我々には光が強過ぎる!

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なるほど、これはまた新たに「落ちる」わけだわ…と放心状態での本編鑑賞。Aツアーから継続の演目もありつつ、新演目もあってまた新鮮な気持ちで見守ります。印象的だったものを厳選して振り返っていくと、まずはミュージカル舞台などで活躍する歌手の新妻聖子さんとハビエル・フェルナンデスさんとのコラボ演目「ラ・マンチャの男」。演目自体は競技会でも幾度も演じ、Aツアーでも見たはずのものですが、まったく異なる新たな装いとなって登場しました。

新妻聖子さんがライブで歌う「ラ・マンチャの男」と、それに重ねる演技。スペインの至宝が、歴史を作った演目を、素晴らしいライブの歌声と共に演じる。その歌声が新妻さんのものになったことで、このショーだけの特別な「ラ・マンチャの男」になっている。特別にしつらえた豪華なごちそうをいただいたような時間です。オペラやミュージカルを鑑賞する魅力や喜びが自然と心に入ってくるようです。これは素晴らしくて贅沢なものなんだな、と。

そして、このツアーで打率10割なんじゃないかという三原舞依さんが、新妻聖子さん&バイオリニストのNAOTOさんと共演した「夢やぶれて」がまた素晴らしい。たまたまなのかあえてなのかは前日までの演技と比較できないのでわかりませんが、この演技でのジャンプにおいて三原さんは転倒します。演技中にジャンプが乱れてしまった三原さんの苦闘と、それでもまた立ち上がって滑り出す姿と、再び乱れたジャンプとそこからの立ち上がりが、まさに悲嘆のなかでも生きつづけたファンティーヌのようです。ファンティーヌが舞依さんと重なって見えてきます。難病と向き合いながら競技生活を送ってきた舞依さんと、この演目であと一歩まで迫った北京五輪と、あの全日本でのフリープログラムと、そこから再起した四大陸選手権とが甦ってくる。素晴らしいライブの歌声と、素晴らしいライブでの演奏とで彩られ、より煌びやかになって。

演技の終わり、ステージにしばし倒れ込んだ舞依さんに、慌てたように新妻さんが近寄って抱き締めたときの胸が熱くなる想いは、あぁこれは人間がやらなければ決して生まれないものだなと思いました。どれだけ機械や技術が進化しようとも、人間がやることはなくならない、そう思わせてくれるものでした。人生は、人が生きるから素晴らしい。贅沢な時間でした。

↓何度も泣かされるとか、ほんとチョロいわ僕…!

こうした演目を見ていくと、AツアーとBツアーとでは、単なる演目入れ替え以外の意味もあるのかなと思います。Aツアーはスガシカオさんや広瀬香美さんと共に過ごした世代…比較的年齢層高めの、いわゆるフィギュアファン層を意識して、「みなさんの好きそうなもの」へと「近寄って」来てくれる感じの構成でした。

Bツアーでは逆に、もっと若い層、これからさらに熱量を高めていく層、北京五輪を経て新たに落ちた層も意識しながら、「こちらもいかがですか」と提案されているように感じました。Z世代に支持されるアーティストとのコラボを含めつつ、伝統的なオペラやミュージカル、クラシックの魅力を紹介するというのは、それぞれがさらなる楽しさや喜びを見つけられる構成だなと感じます。個人的にも宮川大聖さんの歌を予習としてリピートし、新しいプレイリストが増えたのはこのショーがあればこそでした。

その宮川さんとのコラボ演目「レゾン」でショーのトリを飾る羽生氏。タイムラインで断片的に流れる感想では「落ちた」「やばい」「エロい」など危険な匂いが漂っています。前日にフジテレビで見たダイジェストでは、リンクに横たわりながら悶える羽生氏の姿もありました。ちょっと予想外というか、新鮮というか、これまでにない羽生氏が見られそうだなと、期待でムンムンしてきます。

そして始まった「レゾン」。左袖が暗い紫、それ以外は全身白という衣装をまとった羽生氏は、歌を口ずさみ、歌詞の言葉に沿った振付で楽曲を表現していきます。あえて裏打ちのようにフレーズの間の空白で跳んだフリップと、跳んだあとキュッと止まる動きは、競技会では加点がもらいづらいジャンプだったかもしれませんが、この楽曲の持つ危うい世界に迫るかのよう。身体を撫で回して動く手がアヤしくて生々しい。

さらに演技中盤ではリンクに横たわって悶えるような振付も。楽曲の情景に沿ったものか、官能的な雰囲気を漂わせる表現です。これまであまり見られなかったこの表現は、新境地を切り開いたというのはもちろんそうなのですが、謎に包まれていた花園の扉が少しだけ開いた…そんな言い方のほうが近いのかなと思いました。こうした表現も出していくんだと決めた、そんな感じで。

歌詞と合わせて効果的に繰り出されるベスティスクワット、高くて大きなバレエジャンプ、目の錯覚か空中で二度跳んだように見えたディレイドアクセルと見せ場の連続。終盤にかけては右腕を露出させつつ、肩を痛めたかのような動きも見せてきたのでドキッとしましたが、どうやらそれも含めての演出だった模様。危険で、スリリングで、生々しい、そんな演目でした。演技後に宮川さんと片手グータッチを交わすところなども、「敬意を込めた両手グータッチ」とはまた違う、相棒と交わす秘密のサインのようで、とてもよきでした。

1回見た程度で何かわかるような演目ではないのですが、ファーストインプレッションというところでひとつ自分なりの解釈などしていきたいと思います。まずこの楽曲「レゾン」というのはどういった世界なのか。題名のレゾンは歌詞にも出てきますが、哲学で言うレゾンデートル(=存在意義)のことです。自分が存在する理由、生き甲斐とかでもいいでしょう。

この楽曲が歌うレゾンデートルは、愛とか恋とか人とのつながりとかでしょうか。歌詞のなかでも「愛みたいな幻想」「恋のつもり」「君をどこかに連れ去って」など主人公と君との恋愛関係が歌われています。そして、PVに描かれるキャラクターは千切れた手錠をし、赤く長い髪に鋏を入れ、背景に細い糸が流れていますので、まぁ端的に言えば主人公は失恋したのだろうと思います。その失恋によってレゾンデートルが揺らいでいる。もしかしたら「君」こそがレゾンデートルだったのかもしれません。

で、その失恋はどういう体裁のものかと言うと「さよならと指切りの関係」「さよならと明け方の反転」がヒントになりそうです。さよならと指切りが関係するシチュエーションとなると、まず思いつくのは切ない約束です。「また会おうね(今は離れるけど)」とか「今度は結ばれようね(今は結ばれないけど)」とかの。あるいは「裏切り」かもしれません。ずっと一緒だよと誓ったはずなのに、それは嘘だった、とか。総じて言えば、愛や恋を誓いつつも実態としては別れるような、表向きとは異なる背景があるのかなと感じます。

そして、明け方。恋愛関係で明け方というのは、単純に考えれば「結ばれたあと」に思えます。相当に親しい相手でなければ、明け方を共有することはないでしょうから。夜が明け、目覚めたら隣で笑う君がいた、とかでしょうか。それは幸せの絶頂のような瞬間です。ただ、歌詞には「ねえ、あの陽のこと覚えてる?」と「日」と「陽」をかけたフレーズがあります。あえて陽としたのは夜明けの光を強調するものでしょう。この言葉は問うているのです。あの素晴らしい朝を覚えているかと。

覚えているかと問うということは、それは問うた人と問われた人にとって不確かなものであるという意味です。愛を覚えているかと尋ねるときは、問うた人は愛の存在を疑っているのです。過去の記憶を問うとき、それは問うた人にとって失われていてもおかしくないくらいのあやふやなものなのです。もしかしたら、主人公と君は最後の一夜を過ごしたのかもしれません。あの幸せな朝とは違い、今ふたりで迎えた朝は最後の朝で、かつての朝を振り返りながら、今日からは別の日が始まる…そんな情景が浮かびます。移り気な夜の先に迎えたのは、暗く苦しい黎明(朝)だった。世界はこんなに明るいのに、心はこんなに暗い、そういう反転した世界が見えてきます。

この関係を愛だと思っていた主人公の計算は崩れ、馬鹿げた君の瞳の裏には泥濘(ぬかるみ)が広がっています。ものすごく高揚した状態から不意に絶望に落とされ、今まさに主人公には別れが訪れつつあります。ブラックアウト、フレームアウト、驚天動地の大展開がやってきています。「愛」だと思っていたものは「愛みたいな幻想」だった。「恋」のつもりだったけれど、それは「浅はか」だった。主人公は相当なショックを受けていることでしょう。身悶え、のたうちまわるくらいに。

主人公はその絶望に集合的無意識によって気づいています。集合的無意識とは心理学の言葉で、人類に共通する生まれながらのイメージのようなものです。国や民族が違っても「神の存在」を想像してしまうような、何となくみんなが共通して感じているもの、そんなところでしょうか。わかりやすさのためには「本能的なイメージ」くらいにとらえてもいいかなと思います。要するに「何となく察しちゃった」んでしょう。あ、これは別れだな、終わりだな、と。「君」からまだそれを確定されたわけではないけれど、信頼はすでにぐらついており、何かを「察して」もうダメだと思っているし、常識的に考えてもうダメじゃんと自嘲しているのでしょう。

そして、いろんなことを融合的に考えると結論は「終わり」しかなくて、ただその結論は自ら告げるには辛くて、不意のことにいまだ動転し、まさかの展開にいまだ懊悩し、レゾンデートルが揺らいでいる…そういう主人公像なのかなと思います。PVに描かれたキャラクターも結論に至ったタイミング(=サビ)では背景の糸が消えていますので、ものすごく単純に言うと「君との関係は愛でも恋でもなかったと知り、今日でこの関係は終わると気付いた。さて、君というレゾンデートルを失った僕の存在意義とは?」という歌なのかなと思いました。

↓第一印象の先にあるものを探して、静岡での現地鑑賞まで聴き込んでいきます!



実際に楽曲が描く情景が自分の解釈とどれぐらい重なるかはさておき、この楽曲が歌うのは「レゾンデートル(存在意義)」であり、テーマがそれであることは間違いありません。羽生氏も楽曲の世界観を表現しつつも、自分なりのレゾンデートルというテーマを持って演技に臨んでいるのでしょう。「スケート」とか「4A」とか、ほかの何かとか、自分が生きていく理由や意義を思って。それは「何のために生きるのか?」という問いと向き合い、自分の本質を見つめるような行為なのかなと思います。

もしかしたら「レゾン」の衣装、「レゾン」を演じる羽生結弦は、より羽生結弦に近いものなのかなと思います。羽生氏はこの演目のとき、いつもつけているブレスレットなどのアクセサリーを外しているようです。演技終盤、右腕が露わになったときに、手には何もついていません。そんな剥き身の右腕をさらすのには、何か意味があるように思います。

やけに白くて、やけに飾りの少ない衣装を見ていると、右腕を剥き出しにする前の姿は、公的な「羽生結弦」、パブリックイメージとしての羽生氏の象徴なのかなと思いました。白くて清らかなる存在。さまざまな場での品行方正な羽生氏の振る舞いや、公に向けて発信する清らかな言葉などからは、そういうイメージを持たれるのは自然なことかなと思います。もちろんファン目線で言えば、ロックでワイルドな羽生氏像も見せつけられていますので、真っ白なだけではないんだぜとは思いますが、「大体清らかな白、ときどき紫でイケ散らかす」くらいのバランスであろうと。

ただ、それはみんなの期待に応えるなかで作り上げ、自身もそうあろうとした「羽生結弦」であり、当然のこととしてもっと私的な人間・羽生結弦も存在するはずです。そういうイメージで「レゾン」を見ていると、剥き身にした右腕、何の装飾もない右腕は公的な羽生結弦のものではなく、私的な羽生結弦のそれなのかなという気がしてきます。そして、もっと自分を曝け出していく、そんな宣言でもあるのかなと。疼く右腕を曝け出したようにして。

北京五輪で図らずも世界が知った人間らしい羽生結弦像。いつも完璧なわけではなく、失敗もするし、心乱れることもあるし、泣いたり、怒ったり、うなだれたりもする。そんな姿が誰かの支えになったりすることもあるのなら、それを曝け出していくのもいいだろう…そんな心持ちもあっての衣装なのかな、などと思うわけです。静岡公演では地元局のインタビューなどで新たに心境を語る機会もあるでしょうし、公演のあとには新シーズンへの具体的な動きも起きてくる頃合い。「レゾン」の心も今後少しずつ語られていくだろうと思いますが、何だか新しい物語が始まるような予感がするのです。この「レゾン」を見ていると。

今のところ、不安や恐れはなく、前向きな期待だけを感じています。

羽生氏のことですから「悪いようにはするまい」と確信してはいますが、心配などせず、ただただ楽しみにしていてもいいのかなと思います。

まずは静岡千秋楽、しっかり「レゾン」を見届けたいなと思います。そして、最後の「ありがとうございました!」で一緒に居られることを楽しみに、この一週間を過ごしていきたいと思います。

できれば、それまでに「レゾン」の映像を公開いただけるとありがたいですね!



不意打ちを喰らうと記憶が飛んでしまうので、十二分に予習させてください!