岸田ひろ実さんは長男の良太さんを出産したとき、分娩室では誰からも「おめでとう」とは言われなかった。それは良太さんがダウン症だったからだ。岸田さんは「当時の私は『なんで普通に産んであげられなかったんだろう』と悩み、夫に『良太と2人で消えてしまいたい』と泣きながら訴えました。そのときの夫の一言で、私は救われました」という――。

※本稿は、岸田ひろ実『人生、山あり谷あり家族あり』(新潮社)の一部を再編集したものです。

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ダウン症知的障害を抱える息子、良太の誕生

2021年、26歳になった良太。

良太には生まれつきダウン症という染色体の異常があり、重度の知的障害があります。特別支援学校高等部を卒業した後、作業所(就労継続支援B型)に通っています。

優しくて明るくて、家族のアイドルで、とても頼りになる存在。それが我が息子、岸田良太なのです――。

今となっては息子の良太のことを紹介する時には、こんなふうに自慢の話になってしまいます。でも、ずっと前、良太が生まれてから少しの間はそうではありませんでした。

長女の奈美が4歳になった年、1995年11月5日に長男の良太が誕生しました。

誕生前の2カ月は、切迫早産の心配があったため、私はほぼ寝たきり状態で母や義母に家事を助けてもらっていました。何もできないもどかしい気持ちは日に日に大きくなっていましたが、それも赤ちゃんが無事に生まれてくれるためと思い、その時を楽しみに待ち侘びていました。

そして待ちに待った出産の日。

オギャーッと元気な産声が聞こえた時、嬉しさと、寝たきりで大変だった日々の全てが報われたような心地になりました。でもすぐに、なにか様子がおかしいということにも気づきました。

■「娘の時と違う」出産してすぐに持った違和感

奈美を出産した時にはすぐさま、先生や助産師さんが「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」って声をかけてくれたのに、今回は違いました。わずか数十秒だと思うのですが、なんとも言えない雰囲気の沈黙が続いたのです。

私は母親の直感が働いたのか、とても戸惑ってしまいました。そんな私を気遣うかのように、しばらくして助産師さん(先生?)から、落ち着いた口調で「元気な男の子ですよ」と言ってもらいましたが、その後はまた静かになってしまいました。

結局、分娩室では誰からも「おめでとう」とは言われませんでした。

違和感はどうしても私の心から拭い去ることはできず、よからぬ想像で1人悲しく落ち込んでいました。元気な産声をあげたし……。元気な男の子ですって言ってくれたし……。一生懸命に大丈夫な理由を見つけようとしていました。

けれども不安はどんどん大きくなり、夫に分娩の時の様子を話し、私の不安を打ち明けました。すると夫も何かを感じ取っていました。分娩室から出てきた先生や助産師さんのただならぬ慌ただしさに、様子がおかしいと思ったそうです。

肝心の良太は元気に泣いて、おっぱいもちゃんと飲んでくれました。授乳などで抱っこして一緒にいられる時間だけは安心できたのですが、良太が新生児室にもどり、1人になるとすぐにもやもやと重たく曇った不安が押し寄せてきます。

■看護師も「大丈夫ですよ」とは言ってくれなかった

出産から2日目、耐えられなくなった私は安心したいがために看護師さんに聞きました。

「あの……良太に何かあるんですか?」

私が期待をこめて想像していたのは、「何もないですよ」「元気ですよ」「大丈夫ですよ」という言葉が返ってくることだったのですが、実際はそうではありませんでした。

「あぁ……先生に聞かれましたか……」

え? なんのこと? 私には全く心当たりがありません。

私の表情がみるみるひきつっていくのを見て、看護師さんは、しまったという表情をされていました。その瞬間、良太に深刻な何かがあるということが直感としてわかりました。

同時に、それが何なのか、今すぐ知りたくなりました。どんなことであろうとも、本当のことを知りたかったのです。思わず、看護師さんに詰め寄ったのでしょう。

「わかりました、先生を呼ぶのでお待ちください」

この言葉に、何かあるかもしれないという予想は、何かあるという確信に変わりました。そして激しい不安におそわれました。その日の夕方、夫と私は先生の説明を受けることになりました。

■「もしかしたら寝たきり介護」医師からの宣告の中身

「岸田さん、落ち着いて聞いてください」

という先生の一言から説明ははじまりました。

「息子さんにはダウン症があります。知的障害も伴うかもしれません」

ダウン症? 知的障害

全く予想もしていなかった重たい言葉に私の頭は真っ白になりました。

「成長しないと障害の程度はわからないけれど、重度の場合は歩けなかったり、話せなかったりすることもあります。心臓病などの合併症がある確率も高く、もしかしたら寝たきりで介護が必要になるかもしれません」

その当時はダウン症のことも理解していなかったし、知的障害といわれてもどんなことが息子におこるのか、想像すらできませんでした。ただ一つ理解できたことは、良太は他の子とは違う、「普通の子」にはなれないということでした。

■「普通の子になれない」希望なんて持てなかった

今となっては、ダウン症知的障害がありながらも、素晴らしい才能を発揮して芸術の分野で活躍されている方や、社会に出て働かれている方が大勢いらっしゃることを知っています。

しかし、当時の私は息子が他の子とは違う、普通の子にはなれないということで頭がいっぱいで、前向きな希望のある未来を想像することなんてできませんでした。

どうして良太に障害が? 良太は普通の子になれない? 私のせいだ。良太に申し訳ない。家族に申し訳ない。

頭の中は答えのない問いかけと、自分を責める言葉しかありませんでした。

その後には、私には育てられないかもしれないという感情。そして涙が溢れ出し、深い絶望におそわれました。

それでも、授乳のため、良太が新生児室から私のところに来てくれる時間だけは不思議と不安が解消されるのです。愛おしくかわいいという気持ちが自然とわいてきます。でも、それ以外の別々の時間は不安で夜も眠れず、母乳も思うように出なくなりました。

■「もっと頑張れ」と言われてるみたいで苦しかった

たったの数分でも1人でいることがこわくて、泣いてばかりいました。良太のことで不安な思いと、周囲の祝福されている幸せそうな他のママたちと私は違うんだという現実に耐えることができなくなりました。

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この辛い場所から一刻も早く去りたい、そう思い、予定の半分の入院期間で半ば逃げるように退院し、自宅にもどることにしました。

自宅にもどってしばらくした頃、保健師さんがやってきて私を励ましてくれました。

「障害のあるお子さんは、ちゃんと育てることができるお母さんを選んで生まれてくるんです。だから岸田さんは選ばれたんです。心配しなくて大丈夫ですよ」

よかれと思ってかけてくれたこの言葉に、私はとても苦しくなりました。

私は大丈夫なんかじゃない。

まだ障害のある良太のことを受け入れることもできないダメな母親なのに。

育てられないって思っているのに。

これからどうすればいいのか、どうなっていくのかなんて全くわからないのに。

■「育てなくていい」追い詰められた私を救った夫の一言

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、周囲の人は私のことを慰め、励ましてくれます。それが私には、がんばれ、もっとがんばれと言われているように思えて苦しくなりました。

どんな言葉をもらっても責められていると錯覚をしてしまう私は、どんどん後ろ向きになり、気がつけば絶望のどん底にいました。

一生話すことも、歩くこともできない、もしかしたら寝たきりになるかもしれない良太をずっと介護している私――この先の未来に生きる希望なんて何一つもつことなどできませんでした。

障害のある我が子を、これからどうやって育てたらいいのだろう。

私には無理かもしれない。

なんで普通に産んであげられなかったんだろう。

不安、申し訳なさ、恐怖、悲しみ、いろいろな感情が溢れ出し、とうとう夫に情けない私の全ての思いを吐き出しました。そして最後には「良太と2人で消えてしまいたい」と泣きながら訴えました。

するとそれまで何も言わなかった夫がこう言いました。

「そんなに辛いなら育てなくていい。施設に預けることもできる。絶対にママが育てないといけないなんて考えなくていいから」

想像もしていなかった夫の言葉でした。

■ずっと前に「障害があること」を受け入れていた

「僕はママが一番大事やから。ママが死にたいほど辛いことはしなくていい」

最初は唖然としましたが、夫の一言が私の気持ちをフッと軽くしてくれました。

良太を産んで、私はショックでした。どうして障害のない体で産んであげられなかったのだろうと自分を責めていました。将来、学校でいじめられたらどうしよう。私や夫が死んで一人ぼっちになったらどうしよう。未来のことを考えれば考えるほど、不安で眠れません。

一方、夫は私よりずっと早く、良太の障害を受け入れていました。

診断を聞くとすぐに、ダウン症についての本を取り寄せたり、療育といって、障害のある子どもの支援をしてくれる場所を探して予約をとろうとしてくれたり。

でも、私はそれすらも聞きたくなかったし、見たくなかった。向き合いたくなかったんです。なにか奇跡が起きて、良太は治るんじゃないかとすら願っていました。

もちろん、その時の私にはとてもできないことを、夫が先回りしてやってくれたことには感謝をしていました。でも一方で、私の気持ちが置いていかれるようで、辛かったのです。その辛さが爆発して、育てる自信がない、と夫に言ってしまいました。

夫は、良太を育てろ、と私に押し付けていたわけではないのです。私がショックで動けないのを知っていたから、現状が今より悪くならないように、今できることを淡々とやってくれていました。

■人間、遠い未来を考えると不安になるもの

我が子のことなのに前を向けないなんて、周りにどうやって打ち明けたらいいかわからないなんて、と自分を責めていた私の悲しみや不安に、夫が寄り添ってくれたことが、とても嬉しかったです。

育てなくていい、という言葉にはびっくりしましたが、それは言い換えると、今は先のことは考えなくていい、という意味だったと思います。

心理学を学ぶようになってあらためて知ったことなのですが、人は先行きの見えない未来のことを考えるとき、とてもストレスが溜まります。心まで病んでしまわないために、大切なのは、先ではなく、今この瞬間だけを見つめて、ぼうっとすることです。

夫の言葉は、良太の未来を考えなければならないという私がかかっていた呪いを解いてくれました。子どもの未来なんて、本当は誰にもわからないんです。いくら考えたって仕方がないことでもありました。

私はすでに、ショックを受けながらも、腕に抱く良太のことをかわいいと思い始めていました。その時だけを見れば、私は、生まれてきた良太が愛しくてたまらないんです。

不安はありました。でも、今は良太がかわいいと思う気持ちだけを見つめよう。見えないくらい遠い未来のことは置いておこう。いざとなれば育てなくていい、という究極の選択肢を出してくれた人がそばにいるなら、きっと、このかわいい我が子を育てることはできる。なんとかなる。夫のおかげで、そう思えました。

■1日1日の成長を心から楽しめるようになった

最初は、健常者の子どもと違うことが、とても怖かったです。

良太の成長はとてもゆっくりでした。2歳前まで歩けなかったし、言葉も話せません。低緊張なので筋力が弱くて、抱っこするとぐにゃぐにゃしていました。奈美の時とは何もかもが違います。

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だけど、ゆっくりですが、良太は成長していました。

先生からは「寝たきりかも」「歩けないかも」と言われていたので、心配していましたが、他のみんなよりずっと遅れて良太が歩き出したのを見たときの嬉しさは、言葉だけでは表わせません。

はっきりしないけど「ママ」「パパ」らしき言葉を発してくれた時、泣きながら抱きしめました。奈美は、私が何かできた時より喜んでる! とすねながら、一緒になって喜んでくれました。

子どもの成長は、当たり前じゃない。こんなにも、世界がひっくり返ってしまいそうなくらい嬉しいのかと、自分でもびっくりしました。喜怒哀楽の表情を見るだけでもそう思います。1年先、10年先のことを想像するとやっぱり不安は拭えませんが、1日、1カ月先の成長が楽しみでした。

■小学校で「人気者になること」にこだわった理由

そういう積み重ねの経験からいつしか、「なんとかなるんじゃないか」という、あっけらかんとした自信を少しずつ積み上げていきました。

良太が生まれたときの想定が、一生寝たきりで、つきっきりの介護がいる状態だったというのもあるかもしれません。

ここまで健康に、楽しそうに生きてくれたから、この先もきっとなんとかやっていけるだろう。小学校へ入学する時も、もしかしたらいじめられるかも……という不安は頭の片隅にありましたが、前向きに迎えることができました。

幼い良太と過ごすなかで、一緒に得た心得があります。それは、おもしろいとか、かわいいとか、かっこいいとか、とにかく人から一目置かれる存在になると、毎日を楽しく安心して過ごせるということ。

つまり、人気者になることです。おかしいですよね。でも、本気で人気者の座を狙っていました。

どうやったって、人より成長が遅く、先生だけではなく友達にも助けてもらうことが多い良太です。でも周りに誰もいなかったり、近寄りたくないと思われてしまえば、困っていても助けてもらうことはできません。一人ぼっちになってしまいます。それに1人でも楽しい時間を過ごせるならそれでいいのですが、良太は、友達と一緒に遊ぶことが好きでした。

■登校班で生まれたコミュニケーション

でも、私が子どもたちに呼びかけて、良太を助けてあげてほしいとか、良太と友達になってほしいとか、お願いするのは違うと思いました。うまく説明ができませんが、それは、良太自身が社会で生きていくために切り開いていくことです。

良太が、1人でできないこと。例えば、自分の障害について説明すること。思っていることを言葉で伝えること。周りをじっくり見て判断すること。なにかが起こったら報告すること。そうしたことを、私がまず、手助けしようと決めました。

まずは、登校班の子どもたちのところに、良太と一緒に行きました。あいさつをして、少し離れた場所から、良太と子どもたちを見守っていました。

1年生くらいの子どもは、大人を好いてくれます。離れていても「きっしーのおばちゃん、これ見て!」「こんなことあってん!」と、ワーキャー騒ぎながら、寄ってきてくれます。私は子どもたちとたくさん、楽しみながらコミュニケーションをとらせてもらいました。良太よりも、他の子と喋っている日もあったかもしれません。

そうすると、私のことを気に入ってくれた10人くらいの子どもたちが、良太のことをいろいろ聞いてくれるんです。

「きっしーの障害って、治るの?」
「病気じゃないから、治らないねん」

「文字読まれへんって、頭が悪いから?」
「読んだり、話したりするのは苦手やねん」

「なんでちょっと目の形が違うん?」
「せやなあ、なんでやろうねえ」

「きっしーはかわいそうなん?」
「かわいそうじゃなくて、楽しそうやよ」

■子どもたちの純粋な問いかけが、嬉しかった

子どもってすごいんですよ。気になったことはなんでも聞きます。びっくりしましたが、この年齢の子どもたちには傷つけてやろうという悪意も、かわいそうだという同情もないんです。ただの純粋な疑問だけなんです。

だから私もまっすぐに答えていきました。そして、こうしてくれたら良太も助かる、という言葉も付け加えていきました。

「喋るのはヘタだけど、言ってることはわかるからね。何回かゆっくり喋ってあげてね」
「やったらあかんことをしてたら、叱ってね。きっとわかるから」
「掃除はできるから、なんでも任せてね」

子どもたちは「わかった!」と言って上手に付き合ってくれました。良太も、自分の話をじっくり聞いてくれるのが嬉しかったのか、みんなを笑わせるためにテレビでお笑いの芸人さんがやっているギャグを覚えて、披露しては一笑いをとっていました。

ここにもし、他の親御さんや先生がいたら、質問をしてくる子どもたちを止めたかもしれません。そんな失礼なことを聞いてはいけません、と叱ったかもしれません。でも私は嬉しかったです。質問に答えることで、良太とコミュニケーションをとろうとしてくれるのが。

「もし良太のことで悩んだり、嫌なことがあったりしたら、おばちゃんに言ってね」

それは子どもたちにずっと伝え続けていました。

障害があってもなくても、子どもが学校でケンカをしたり、トラブルを起こしてしまったりすることは防げません。むしろ、ケンカやトラブルを乗り越えて、人は強くなることもあります。涙を流すことも、謝ることも、良太にはきっと必要な経験です。

その経験は奪わないけど、良太がうまく言葉で説明ができないのは事実なので、どんなことが起きたのかは、周りの人々から教えてもらい、私がちゃんと把握できるように信頼関係を築いていきました。

■「普通学級にいさせてほしい」と頼んだ理由

友達だけではなく、学校の先生たちにも恵まれたと思います。

最初、良太は「なかよし学級」(特別支援学級)で、一日の大半を過ごす決まりでした。でも私は、もう少し、普通学級でみんなと一緒に過ごす時間を作ってほしかったのです。

写真=iStock.com/skynesher
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それを伝えると、困って渋い顔をする先生もいました。そこまで手が回らない、なにかあったら責任がとれない、などいろんな心配ごとが先生にはあります。とてもわかります。それでも、なぜ普通学級にいさせてほしいかを、諦めずに伝えました。

良太がかわいそうだからではありません。障害があることを認めたくないからではありません。障害がない友達と一緒にやっていくためのルールを、良太に学んでほしかったんです。

良太は思い通りにいかないと、たまに癇癪を起こしてしまいます。空気を読むのが苦手で、走り回ったり、1人で喋ってしまったりもします。でも、良太が大好きな友達とこれから先も楽しく人生を過ごしていきたいと思うなら、それらのことは我慢しないといけない時がいつかくるのです。

■社会で一人ぼっちにならないために、できること

もちろん、障害のせいで、どう努力してもできない、わからないことはあります。それを無理やりさせるつもりはありません。

だけど、良太ならきっと、そのルールがわかるはず。社会で一人ぼっちにならず、生きていくための学びを何かしら得てくれるはず。私は、これまでの成長を見ていて、そんなふうに信じていました。

学校に対してやってほしい、というお願いだけではなく、子どもにこうなってほしいから、という理由も一緒に伝えると、ありがたいことに、先生たちは深く理解をしてくれました。

中学年以上になると、良太も勉強にはついていけなくなります。わからない授業も出てきます。そんな時、先生は、国語の時間でも良太には特別に簡単な他教科のプリントや、集中力が切れそうになったら大好きな塗り絵ができるように考えてくれました。

同じクラスの子どもたちにも、その理由を説明して。先生たちには本当に、感謝しています。先生のおかげで、良太のあとに入った障害のある子どもたちは、嬉しかったことがきっといくつかあったんじゃないかなと思います。

普通学級の子どもたちと、ルールを守りながら一緒に過ごす時間が長かったおかげか、遠足の班分けでも、修学旅行の班分けでも、良太が余ってしまうということはありませんでした。先生がなにも言わなくても「きっしー、一緒に回ろうよ」と誘ってくれる子どもがいてくれたそうです。それを聞いた時はとても嬉しかったです。

■サッカーのスローインが得意だった

休み時間も、良太は1人ではなく、友達と遊んでいました。

なにをしていたかというとサッカーです。その当時、サッカーは子どもたちに絶大な人気がありました。サッカーをやっているというのは、人気者になる一歩かもしれない……と貪欲な私はそう思い、良太がもし気に入ってくれれば、と地元のサッカークラブへ行ってみました。

良太はサッカーにはまり、コーチや他の子どもたちも喜んで歓迎してくれました。だけど、高学年になると、サッカークラブの活動は試合が大半になってきます。子どもといえど、試合は真剣勝負。足も遅く、機敏に動けない良太を試合に出すと、チームは負けてしまいます。

良太の出場回数はグッと減り、それで良太もすねてしまいました。つらいですが、仕方がないことだなと半ば諦めていたら、ある時から、良太が試合に出るようになったのです。なんと、ボールを投げてコートに入れる、スローインのピンチヒッターとして。

コーチが言うには、子どもたちが提案してくれたそうです。

「きっしーはスローインはめっちゃ上手いから、やってもらおうぜ」

これはお世辞ではなく、本当に良太のスローインは正確で、上手かったのです。子どもたちは本気で勝利を目指していました。その過程で、良太を仲間に入れてくれたということに、私は感激しました。良太も誇らしそうに、両手でボールを投げ入れます。

誰より驚いていたのは、コーチでした。

「子どもたちが持つ力、考える力が、こんなにも凄いなんて……」

大人が言うべきかどうか迷っていた壁を、子どもたちはなんなく打ち壊してくれました。余談ですが、コーチはこの時の経験があまりにも衝撃で、子どもたちともっと触れ合う仕事に就きたいと、小学校の教員になられました。

■「人と違うことが怖かった」試練を幸福に変えた秘訣

私は、良太が生まれるまでは、自主性がぜんぜんない人間でした。いつも不安で、まわりに流されて、みんなと一緒であることに漠然とした安心を感じていました。そのまま時を過ごしていたら、どうなっていただろうと恐ろしくなります。

良太のおかげで、なんとかなるさという楽観と、後先を考えない努力で、道を切り開いていく力を身につけることができました。それは人として、とても大切な力だと思います。

岸田ひろ実『人生、山あり谷あり家族あり』(新潮社)

人と違うことに怯えていたけれど、良太が大人になった今、気づきました。

人と違うこと自体が、マイナスでも、不幸でもないのです。その違いを理由に、一人ぼっちになってしまうことや、つらくて惨めな思いをしてしまうといったことが、人によっては不幸になるのです。

そもそも人は、生まれながらにみんな違います。歳を重ねれば重ねるほど、多くの違いと出会い、衝突し、悩みます。

人との違いを嘆くのではなく、違ってもこれでいいと良太が思えるような環境を作ることが、私たちが試練を幸福に変えてゆく秘訣だったのです。

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岸田 ひろ実(きしだ・ひろみ)
フリーランス講師
1968年、大阪市生まれ。27歳で、ダウン症知的障害のある長男を出産。37歳で夫が急逝。さらに40歳で、自身が大動脈解離で受けた手術の後遺症で車いすの生活になる。2011年、娘、奈美が創業メンバーの株式会社ミライロに入社、講師を務める。現在は退社し、講演やコンサルティングなどフリーランスで活動中。著書に、『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』(致知出版社)、『人生、山あり谷あり家族あり』(新潮社)がある。
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(フリーランス講師 岸田 ひろ実)