日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
あのスター選手はいま(2)
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 2002年、アジアで初めて行なわれた日韓W杯。それは優勝候補と言われたサッカー大国が次々と敗退する一方、新興勢力が力を発揮した大会でもあった。そんな国々からも、魅力あふれるヒーローたちが次々と生まれた。あれから20年、彼らはいったいどうしているのだろうか。その現在を追ってみた。

ハカン・シュクル(トルコ)

 この大会で驚きの躍進をしたのがトルコだった。日本はトルコに敗れて、ベスト8進出を逃している。そのチームの中心がハカン・シュクルだった。

 191センチという長身を活かした破壊力抜群のストライカーで、トルコサッカーの歴史のなかで最も偉大な選手のひとりとされる。3位決定戦では、韓国を相手に開始たったの10.8秒でゴール。これはW杯の最短得点記録として今も破られていない。15年間代表でプレーし、その成績は112試合、51ゴールでトルコ代表歴代最多だ。

 2008年、37歳で現役を引退すると、すぐに政治の世界に身を投じた。彼はかなり以前から「トルコの人々のために引退したら政治に参加したい」と言っていた。その知名度と人気は政界からも歓迎され、旧知の仲だったレジェップ・タイイップ・エルドアン現大統領(当時は首相)に誘われ彼の公正発展党(AKP)に入党、2011年の選挙で国会議員となった。

 だが、しばらくして親イスラム化したエルドアンと意見を異にするようになり、離党。すると脅迫状が届いたり、妻のブティックに石が投げ込まれたりするようになり、身の危険を感じたハカンは2015年故国を離れ、家族とともにアメリカに移住。サンフランシスコでカフェを経営した。

 ただ、故国を思う気持ちは相変わらずで、自分の意見をSNSで発信していた。それがエルドアンの警戒心をおこさせたのか、2016年には大統領を中傷するツイートをしたとして起訴され、4年を求刑された。さらに、トルコでクーデター未遂事件が起こると、彼も関連を疑われ、逮捕命令が出た。母国に残る父は監禁され、トルコに残してきた不動産や銀行にあった資産もすべて没収された。

「生きるために運転している」

「今の私には何も残っていない。エルドアンが私のものをすべて奪っていった。私の権利、自由、言論、そして仕事までもだ」と、シュクルはドイツ「ヴェルト」紙に語っている。

 サンフランシスコのカフェでも嫌がらせが続き、彼は店を閉めざる得なくなる。ワシントンに移ったシュクルは、ウーバーの運転手となった(日本ではウーバーは食品のデリバリーとして知られるが、アメリカでは空き時間に自家用車で人を乗せるライドシェア事業が有名)。

「生きていくために私は運転している。それは当たり前のことで、恥じることではない」(前出「ヴェルト」)と語るシュクルは、男女の高校生や大学生にサッカーのプライベートレッスンなどもしているようだ。

「やはり自分が一番得意なことをしたい」

 レッスンの様子をSNSにアップながら、彼はそうコメントしている。トルコリーグについてのコメントも欠かさない。特に愛するガラタサライについては熱が入るようだ。

イルハン・マンスズ(トルコ)

 ハカンとともにこの時のトルコ代表で忘れられないのがイルハンだ。


日本でも多くの女性ファンにアピールしたイルハン・マンスズ(トルコ)

 そのゴールと同時に多くの人が覚えているのは彼の甘いマスクだろう。日本では「王子」などと呼ばれ、貴公子デイビッド・ベッカムと人気を二分した。2004年にはヴィッセル神戸に移籍したが、ケガと日本での生活があまり合わなかったことから、3試合をプレーしただけで帰国してしまった。

 2006年にドイツで交通事故にあい、リハビリを続けたものの、それがもとで2007年、32歳で現役を引退した。しかし、2008年に日本で中田英寿が主催した「+1フットボールマッチ」に出場、ジョゼ・モウリーニョ率いるチームでプレーして2ゴールを決めると、まだ自分はできるという気持ちが強くなり、2009年7月にミュンヘン1860の練習に参加する。だが、契約には至らず、2009年10月に正式に引退を表明した。

 エンターテイメント界は彼を放ってはおかず、まだ現役中の2005年にテレビドラマに出演。2007年には国営放送の「ドクター」というドラマで重要な役どころを演じて人気を博した。

いまもイケメンのイルハン

 そんなイルハンに転機が訪れたのは「ダンス・オン・アイス」というアイスダンスのリアリティ番組に参加してからだ。彼はスロバキアのオルガ・ベシュテンディゴヴァーとペアを組み、見事に優勝。スケーターへの転身を決意する。2014年のソチオリンピックを目指し、2013年には五輪出場権をかけてドイツの大会に出場。しかし19位に終わり、夢はついえた。ちなみにペアの相手のオルガとは公私ともにつき合っていた。

 2018−19シーズン、彼は突如サッカー界に戻り、元スペイン代表のグティとともに古巣ベシクタシュのコーチとなる。香川真司が入団した際も、温かく迎えていた。ベシクタシュが給料をなかなか払ってくれないことから、2019年2月に辞任。ただ、将来的には「ベシクタシュのオーナーになってもいい」と言っている。

 現在は46歳だが「体を保つことには気を使っている」と言うだけあって、インスタを見るといまでも十分イケメンだ。ドイツ人の女性との間に一女がいる。

アン・ジョンファン(韓国)

 共同開催国の韓国は史上最高の4位となったが、その韓国にもイケメンぶりが騒がれる選手がいた。アン・ジョンファンだ。韓国では漫画『キャンディ・キャンディ』の登場人物に似ていると「テリウス」と呼ばれていた。

 イタリア戦で決勝ゴールを決めた彼だが、当時所属していたペルージャのルチアーノ・ガウチ会長から、「イタリアに仇なす選手はいらない」と言って切られたとも言われている。その後は清水エスパルス、横浜F・マリノスでプレーした後、またヨーロッパにも渡ったがうまくいかず、韓国に戻った。

 水原三星に所属している時には、相手サポーターのヤジに激怒し、ピッチを出てスタンドに殴り込んだため、出場停止処分と当時の韓国史上一番高い罰金を払わせられたということもあった。キャリアの最後は中国の大連実徳でプレーし2012年に引退した。

 引退後はKリーグの広報に就任。「名誉PRチームリーダー」という肩書で、その人気を利用してKリーグにファンを呼び入れようという宣伝塔の役目だった。彼は多くの試合やイベントに顔を出し、リーグのメジャー化を図り、Kリーグが期待した以上の効果をあげた。韓国では、引退後のコーチや監督以外の別な道も切り開いた人物のひとりと言われている。

いつのまにかサッカーが義務に...

 同時に、テレビのバラエティ番組の常連ともなる。芸能人の冷蔵庫をそのままスタジオに持ってきてシェフが料理を作る番組の司会を務めたり、BTSメンバーと出かける旅番組に出演したりと大活躍。彼がいろいろなチームを率いてKリーグのチームに挑戦するというリアリティショーは定番の人気番組になっている。

 もちろんバラエティだけではなく「MBC」のサッカー中継の解説員として、ワールドカップなどの試合解説も務めている。最近は少しぽっちゃりしてきて、おやじギャグを飛ばすキャラとして人気を博している。

ランドン・ドノバン(アメリカ)

 2002年の大会で、ベスト8進出という史上最高の成績をあげたチームがアメリカ。その原動力となったのがドノバンだ。当時20歳だったドノバンは5試合で2得点をマークし、大会のベストヤングプレーヤーに選ばれた。2014年に代表を引退するまでに、3度のW杯を戦い、彼が繰り出した57ゴール、31アシストは、ともにアメリカ代表の記録で、まだ誰も塗り替えることはできていない。まさにアメリカサッカー界の顔である。

 クラブチームではドイツのレバークーゼン、イングランドのエバートン、そしてLAギャラクシーで長くプレーしたが、実は4度現役を引退している。

 最初は2014年、32歳でLAギャラクシーを引退。しかし2016年にまだ同チームに復帰し、6試合だけプレーしてまた引退した。2018年に1月にはメキシコのクラブ・レオンと契約をし、同年の7月に3度目の引退。最後は2019年インドアサッカーのサンディエゴ・ソッカーズに入り、4度目の引退を果たした。

 選手生活に別れを告げると、2019年、彼はUSLチャンピオンシップ(アメリカ、カナダのチームからなる2部リーグ)のサンディエゴ・ロイヤルを共同で設立。その後、チームの初代監督に就任した。ただドノバンはそれまで監督経験がなかったため、元アメリカ女子代表選手や有能なコーチからなるアドバイザーグループを作り、サポートしてもらっている。今は北米のクラブチーム間の関係をより密接にすることを目指しているという。

 最近、ドノバンはキャリアを通じてうつ病を患っていたことを公表。いつのまにかサッカーは義務となってしまい、それに縛られていることに苦しんだという。

「ケガをしたらそれが治るまで治療やリハビリが行なわれるのに、精神が病んでもそれは許されない」と語るドノバンは、プロスポーツ界に蔓延する、選手に精神的なタフさを要求する空気に疑問を呈している。
(つづく)