日本人にとってのサッカーを語っていくうえで、しばしば議論の種となるのが「自由」だ。サッカーには自分で考える「自由」、自分で決断する「自由」が求められるが、日本人は「自由」を与えられると戸惑うところがある。

 過去2回に続いてお伝えするイビチャ・オシムさんとピクシーことドラガン・ストイコビッチの対談でも、「自由」が論点となった。日本という国と日本サッカー、それに日本人のメンタリティを知るふたりの意見は、とても興味深いものだった。

 最初にオシムさんが口を開いた。

「日本では、子どものときから『何をしたらいいですか』」とか『これをやってもいいですか』と監督やコーチに聞いてからやるでしょう。それがダメなんです。自由を与えなきゃいけないのです。日本はコントロールし過ぎなんですよ。口では自由と言うけれど、実際は自由を与えていない。イマジネーションの自由、それがとくに少ない。それにプラスして、リスクを冒す自由が。いつ、どんなリスクを冒すのかを選手が養っていけるように、自分で判断してやってもいいという自由を与えないと、リスクを冒さないですよ。イマジネーションを出さないですよ」

 オシムさんが言う「自由」とは、「自己中心的なプレー」ではない。ピクシーが引き取る。

「オシムさんは、たくさんの自由を与えてくれた監督でした。それは、何のためだったのか。矛盾しているようですが、チームのための自由、チームのコレクティブなプレーを生かすための自由でした。チームがコレクティブに機能するために、自分がいま何をするのかを考える自由を与えられていたのです」

 オシムさんが補足をする。彼らしい哲学的な言葉だ。

「集団は個人を排除することはできるけど、個人は集団を排除できない。フィールドプレーヤーは、仲間と協力しないとプレーできない。サッカーとはそういうものなのです」

 監督になったピクシーも、選手たちに「自由」を与えている。

「自分がどれだけスピードがあるか、どれだけドリブルができるのかは、監督が判断するのではなく、選手自身が判断してやってほしい。監督として一番嬉しいのは、自分が予想していた以上のプレーを、選手がやってくれることなんだ。それは、自由な発想やアイディアがなければ、生まれないものです」

 オシムさんもピクシーも、日本社会や日本人を否定するわけではない。「自由を与えられると戸惑うメンタリティ」は、彼らも理解している。

「そうですね、そういう傾向はありますが、子どものときからある程度そうなってしまっているのではないでしょうか。だけどそれは……いい意味でも悪い意味でも、日本人の文化というか、メンタリティでしょう」

 ピクシーの意見に、オシムさんが頷く。
「日本の社会からそうやって育っているわけですから、それを大幅に変えることはできないでしょう」

 ピクシーは「ただ、それでも」と前置きをして、もう一歩踏み込んだ。
「しかしサッカーは……日本の社会、政治、経済、そういうことを全部変えろとか言うつもりはまったくないのですが、サッカーに関しては、日本的な部分を変えていくべきでしょうね」

 オシムさんがまとめた。
「日本はサッカーでは島国を卒業するべきですね」

 彼らの話を聞いたのは、08年12月である。

 さて、日本のフットボーラーは「自由」を体現できるようになっただろうか。

 高校生の部活動で、指導者による生徒への暴力が明らかになった。その事実を持って、高校サッカーに抑圧的な体質がはびこっている、などと言うつもりはない。

 ただ、少なくともこの高校の生徒たちに「考える自由や決断する自由」はなかったと言える。自分の決断に基づいたプレーがミスになったら、監督やコーチに何を言われるのか。恐怖でしかなかったはずだ。

 Jリーグの現場を見てみる。多くの監督はテクニカルエリアの一番前で戦況を見つめる。立ちっぱなしの監督もいる。立ちっぱなしで見ているだけでなく、事細かに指示を出している監督もいる。

 監督からすれば、「勝つための指示」に他ならないのだろう。しかし、細かなポジションの修正や「右サイド(左サイド)へ展開しろ」といった具体的な指示は、「そうしろ」と言っているのに等しい。その結果として、自分で考えることを最優先しない選手が出てくる可能性はある。

 監督にあれこれ言われても、プロならば自分で決断するべきだ、という意見もあるだろう。そのとおりである。ただ、Jリーグが開幕して30年が経ったいまも、「自由」というものの認識が大きく変わっていないと言うことはできそうだ。

 それにしても、2022年現在の日本サッカーを見て、オシムさんは何を思うのだろう。日本代表やJリーグはもちろん、育成年代の試合を観てもらい、彼の意見を聞きたかった。