※この記事は2021年12月22日にBLOGOSで公開されたものです

元経産省官僚の宇佐美典也さんに「私が○○を××な理由」を、参考になる書籍を紹介しながら綴ってもらう連載。第21回のテーマは、2021年に話題に上がることの多かった「半導体」をめぐる国内の政策について。官僚時代に担当者として関わってきた立場から、日本の半導体政策のこれまでを振り返り、今後の展望を綴っていただきます。

私が日本の半導体業界はぼちぼち復活すると思う理由

はじめに言っておくと今回は書評ではなく、元経済産業省の半導体の研究開発プロジェクトの担当者だった私自身の経験を振り返りつつ、今後の半導体政策に対する漠然とした期待を述べるというやや私的なエッセイのような回である。

台湾や韓国に到底敵わなかった支援制度

私は2005年4月から2012年10月まで7年半ほど経産省で働いていたのだが、偶然にもその間半導体業界との関わりが大変深かった。最初の部署は調査統計部で特定の業界と関係するようなことはなかったが、そこから異動した地域経済産業グループで工場立地支援策を担当することになったのが半導体業界との関係の始まりだった。

当時私は企業立地促進法(今は「地域未来投資促進法」という名前に変わった)という工場立地に関する規制緩和や金融支援や税制支援をパッケージにした法律の立案作業にあたっていたのだが、この制度の想定大口ユーザーがエルピーダ社や東芝といった半導体関連の企業だったので、必然的に同業界を意識することになった。低利子融資や特別償却制度はじめ当時の日本としては精一杯の支援制度を作ったつもりだったのだが、台湾や韓国の半導体業界の支援措置は大胆な税額控除―電気料金の大幅な割引といった具合で、日本とは比較にならないほど大規模なものだったので「こりゃ勝てんわ」と目を丸くした記憶がある。

当然半導体業界からは「多少はマシになったが、全然支援措置が足りない」と突き上げられたのだが、「そうは言うけど日本は台湾や韓国と違って産業の裾野が広く中小企業も多いので、特定大企業にそんな大規模な支援は政治的にできない」というようなやりとりが上司と業界の面々との間で行われていた記憶がある。(私は下っ端だったので事後に共有された議事メモを見ただけである)

そんなわけで私の半導体業界との関わりは工場立地の面から始まることになったのだが、次に異動した産業技術環境局では、国家研究開発プロジェクトの知財(「バイ・ドール制度」と呼ぶ)の取り扱いの見直しなどを担当することになり、知財の側面から半導体業界と関わることになった。この過程で数百~数千もの知財が複雑に関わり、それを様々な主体が自己の利益を最適化しようと駆け引きする技術標準と特許という深遠な世界を知り、興味を惹かれた。

自らは事業活動を行わずに特許権の行使をビジネスとして行う企業を意味する「パテント・トロール」なんていう言葉が使われ出した時代だ。特にアメリカのRambus社やQualcomm社といった自社工場を持たないいわゆるファブレス企業に日本企業がいいように振り回されている姿を見るうちに、「制度を作るだけではなく、こうした研究開発の現場を見てみたい」という思いが高まり人事に希望を出したところ、実際に国家プロジェクトのマネジメントをする立場としてNEDO(独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構 ※現・国立研究開発法人)の電子・情報技術開発部に出向することになった。

研究開発の予算規模 欧米は日本の数倍

この出向は事務官としては異例のことで、また私の前任にあたる技官は10年程度年次が上だったので私はこの人事に「はや抜擢か」と大層喜んだのだが、これがとんだ罠だった。時の電子・情報技術開発部がどういう部署だったのかというと、経産省の電気部門の担当部署である情報通信機器課(現・情報産業課)と協力してプロジェクトを立案して、実施する部署だったのだが、だいたい予算が年間200億円弱だった。

私は赴任当初、この予算額を単純に「多いな」と感じたのだが、その認識はすぐに改められる。経産省―NEDOはこの予算を産業技術総合研究所つくばセンターのスーパークリーンルーム(SCR)を中心に投下し、研究拠点の整備を図っていたのだが、同時期にIMEC、SEMATECHといった欧米の研究開発拠点はこの数倍の予算が投じられていた。つくばでは「日本企業だけ」を集めて研究開発をしていたのに対し、欧米の研究機関では世界中から半導体企業が集まっていたことが規模の違いの根本的な理由だった。

当時日本の半導体企業は東芝を除けば経営不振でジリジリとシェアを落とし続けており、つくばも世界から見れば弱小連合の集まりで、その枠組みの維持すら困難な状況だった。

こうした状況で担当に就任した私は「これは八方塞がりじゃないか、なんでこんな状況になるまで放置したんだ。。。」などと先輩方を恨んだわけだが、半導体業界の歴史を調べていくと認識が多少変わった。1980年代に50%を超えるシェアを獲得して世界を席巻していた日本の半導体業界の競争力の源泉は「超LSI技術研究組合」はじめデバイスー装置メーカーが共同で研究する体制(アメリカでは独禁法上の観点からその手の共同研究を推奨していなかった)及びその結果としての製造技術レベルの高さと、民生品中心の開発体制にあった。

アメリカはそんな日本の半導体産業の競争力の源泉について詳細に分析し、日米半導体協定を通じて日本の半導体業界の手足を縛った。詳細はM.L. ダートウゾス著の「Made in America」や牧本次生先生の「日本半導体 復権への道」などといった書籍を参考にして欲しいのだが、とにもかくにもアメリカは日本に対抗して半導体メーカー、装置メーカーの共同研究機関を作ることに成功し、ヨーロッパもそれに続いた。こうした欧米勢の、敵(日本)に謙虚に学ぶ姿勢には感嘆したが、急速に諸外国の半導体企業の競争力が向上した。

そういう状況で、1990年代後半に入ると日米半導体協定の熱りが冷め、日本として半導体政策を再始動し再び世界レベルの研究拠点を整備しようとしたのだが、予算も欧米に比べれば少なく、その割に幅広いテーマに手を出し、さらに日本の半導体メーカーの競争力が落ちていく中でジリ貧に陥ったというのが当時の状況というところだった。

撤退戦と割り切った経産省・半導体業界の決断

担当の私としては胃が痛くなるほどにこの状況からの次の一手に悩み、当時は「巨額な予算が必要な半導体の製造プロセスの研究開発PJ(プロジェクト)を中途半端にやるよりは、止めて他に予算を振ってしまったほうがいい」などとも一時期思ったのだが、それではこれまでに投じた800億円近い予算がそれこそ無駄になってしまうわけで、当時の経産省―業界の決断は「撤退戦と割り切り、戦線を大幅に縮小して、これまでのPJの研究成果で世界でシェアを取れそうな領域に注力して世界にオープンな研究開発PJを企画する」というものだった。具体的には「EUVマスクブランクス検査装置及びレジスト」と「次世代メモリ及びそれを使ったコンピューティング」に絞りこんで予算を投じ、前者にはTSMCやサムスンと言った企業の参画も認めた。そして結果的にこれは上手くいった。

前者に関しては国内のレーザーテック社やJSR社等が世界シェアのほとんどを取り、少なくとも装置―材料分野で半導体の最先端領域の日本企業の存在感を維持することには成功した。なおレーザーテックの株価はこの10年で250倍になっている。後者に関しては今後STT-MRAMというメモリがSoC混載用途で実用化されていくときに成果が問われることになるのだが、少なくとも研究段階では世界レベルの成果を上げており、東芝やルネサス社が研究成果を活かしてくれることを願うところではある。

そんなわけで私が半導体の研究開発PJの担当をしていた頃は、ちょうど日本として最先端製造プロセスの研究からの撤退を図る時期で、撤退戦という意味では経産省―業界としては上手くやり切ったと言ってもいいと思う。もちろんこれは私だけの成果だけではなく、同僚や産総研や企業や大学も含めたチームとしての成果であるし、全体としては日米半導体協定以降のこの30年日本の半導体業界は圧倒的負けであったわけだが、再起の目を残すことには成功した。

私としてもこうしたPJを組成することができたことに達成感を覚え、それが経産省を退職する大きな理由の一つとなった。研究開発PJというものは息が長いもので、役人を辞めて9年経った今になって担当PJの成果が上がってきている状況は嬉しい。

再始動した半導体製造プロセスの政策は上手くいく

2019年頃から「経済安全保障」が重視されるようになり、経産省が半導体に数千億円規模の巨額の研究開発予算を投じて、再び半導体の製造プロセスに関する政策が再始動したわけだが、私も今回はぼちぼち上手くいくのではないかと思っている。

その理由は色々あるのだが、基本的には「日本の半導体企業の負けのターン」が終わって、失うものがなくなったからである。かつての日本の半導体企業は各社が個別に生産ラインを持っていることが経営上の重しになっていた。今話題のTSMCのファウンドリビジネスは当初はある種の日本キラーの側面があり、実際TSMCの当初の顧客に日本企業はほとんどいなかった。皮肉なことに、独自の最先端ラインを持つロジックのデバイスメーカーが日本からすっかりいなくなった今になると、日本の技術力とTSMCの協業はwin-winになるのだが、そうなるのにずいぶん時間がかかった。

DRAMもフラッシュメモリも韓国に追われる恐怖はもうなく、むしろ米マイクロン社や国際資本化したキオクシア社と、その韓国を追う側に回った。こうなってようやく日本の強みというものを活かして、世界と協業出来る体制が整えられるというものだし、実際経産省もそういう体制を取っている。

元担当者としては「攻め」にあたる今の時期を担当する役人たちを羨ましく思うとともに、懐かしく眺めている次第である。