※この記事は2021年10月27日にBLOGOSで公開されたものです

衆院選がはじまり、各党が選挙公約を公式サイトなどで発表している。各党、力を入れているが、どの党も取り上げる公約のひとつに「教育」がある。日本では2006年の教育基本法改正にはじまり、教育への関心が高い状態が続いている。

なかでもここ数年世間を騒がせたのが「大学入試改革」である。共通テストと英語民間試験により受験生の学力を測ろうとしたこの取り組みは、2021年6月22日の「第二十七回大学入試のあり方に関する検討会議」で見送りが決まり、事実上頓挫した。

2013年の教育再生実行会議の開催からはじまったこの取り組みはなぜ8年もの時間をかけて失敗することになったのか。紐解いていくと、教育問題が持つ特有の「厄介さ」と、日本の行政の「先送り体質」が見えてきた。

支離滅裂な認識でPRされた記述試験の導入

「国立大生の60%はマークシート入試だから一文字も書かずに合格している」

大学入学共通テストに記述試験を導入すべきだと各メディアでアピールしていた委員が、ある書籍でおこなっていた主張である。私はこれを目にしたとき、あまりの支離滅裂な現状認識に憤りを覚えた。

ほぼ全ての国立大学が記述試験を含んだ二次試験を実施するため、一文字も書かず入学した国立大生など極めて珍しい存在だ。こんな頓珍漢な認識を持っているということは、各大学の入試問題を解くどころか、ろくに確認さえしていないのだろう。私が開業している学習塾の生徒たちも、こんな無責任な行為によって右往左往していたのかと思うと、「受験生は怒ってよい」とでも言いたくなる。

支離滅裂な現状認識に基づき議論が進むほどに、現実離れした理想は膨らむだけ膨らんだが、それを撤収するのに多くの時間を要してしまった。こうした失態については教育の現場を担う人間として、総括が必要だと強く訴えたい。

とかく語りやすい教育問題

入試改革が失敗した原因は多岐にわたるが、教育問題の語りやすさもその一因だ。誰しもが教育を受け、多くの人が誰かを教育した経験があるため、誰でも一家言を持てる。だから、事前に勉強をして現状を把握せずとも容易に議論ができてしまう。

入試改革に関する議論においても、根拠なき印象論や、現状を把握しているとは到底思えない理想論が飛び交った。「記述試験の導入によって主体的に学び考える力や汎用的能力を計測する」「国立大の二次試験を全て廃止にすべき(=練りに練られた東大の二次試験さえ、共通試験で代替できる)」といった理想論は、実際の議論に登場したほんの一例だ。導入される予定だった記述試験は国立大の二次試験よりはるかに簡易的なものだったが、それに「主体的に学び考える力」や「汎用的能力」の計測を求めるというのは、もはや夢物語だろう。これらの能力を測定するのは、本格的な記述試験でさえ容易ではない。

また、教育は希望の漂流地でもある。

そこかしこに存在する問題のほぼ全ては、何らかの形で人間が関わっている。だから、より良き人間を育成することで解決を図ろうとする考えに帰着しがちだ。なかには、解決困難な課題に対し、人材育成に最後の望みを託すケースもあるだろう。結果、教育にはありとあらゆる分野から希望が漂流する。教育問題が語りやすいことも相まって、漂流した数多の希望は理想となり、どんどん膨れ上がっていく。

上意下達的に先送りされる問題たち

現実離れした理想論が膨れ上がるにつれ批判が噴出し、解決困難と思しき課題も次々と現れる。「知恵を出し合いましょう」といった声が上がるものの、解決策は一向に見えてこない。そして、あの手この手で課題が先送りされていく。

入試改革に関するワーキンググループや部会が多数存在していたため、そんな難しい課題を押し付ける場所が沢山あったことはあまり知られていない。困難は分割せよという格言よろしく、解決困難な課題を分割し各部会に送り込むことで、反論不能な批判に対処したとも言える。

しかし、こうした対処は新たな弊害も生み出した。議論をする場所が多くありすぎたため、委員自身が「常に全体像が見えない」と発言するような状況ができていたのだ。全体像が見えないのだから、リスクの全体像も不明だったことになる。

そんななか、特に厄介なものを引き受けてしまった新テストワーキンググループでは、その課題の大きさに当惑していたようだ。同グループにて主査を務めた岡本和夫委員は、第八回高大接続システム改革会議の最後に発言を求められ、その苦しい胸の内を吐露している。

「今、皆様の意見を聞いていて、なぜか気がだんだん重くなってきて」という言葉からはじまる岡本委員の発言から、各委員がテストに期待する大きな役割と、その達成が甚だ困難な現実との間で苦しむ様子が伝わってくる。

今,皆様の意見を聞いていて,なぜか気がだんだん重くなってきて。

実は,五神委員がおっしゃった一定の調査等は大学入試センター試験等でも行っているのですが,実際に問題を作るときに,金子委員が指摘された教科の問題とか,それから採点の困難性の問題とか,いろいろなものが多種多様に入ってくると思います。

(中略)

今,大学入試センター試験というのは,選抜試験と達成度試験がこういろいろ絡んでやっているわけですけれども,だから60点とかいろいろなことがあるわけですけれども,そういう性格付けも含めて,どこまでできるのかというのがかなり問題で,特に試験だから,いわゆる試験対策というのがあって,これは高度に発展した試験対策というのが,あと試験対策と戦うべきなのか,どうなのかというのも,少しこれ議論を要するところではありますけれども,そういうことをいろいろやりくりをしながら作っていけばいいのかとは考えています。

高大接続システム改革会議(第8回) 議事録より岡本委員の発言
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/033/gijiroku/1367930.htm

熱く理想や夢を語り、是が非でも実現しなければと意気込むものの、その実現のために苦労をするのは熱弁を振るった弁士ではなく、岡本委員のような理想の達成を命じられた人々であり、未解決のまま押し付けられる現場の人々なのだ。

こうした文科省の仕事のあり様は「上意下達」と言われる。入試改革に当てはめて説明すれば、空理空論の理想論が最上流で議論され、それを実現すべく中流の作業部隊が奮闘し、それでも解決できなかった残余は下流にいる現場の人々が対処するという構図だ。今回の場合も、不勉強に基づく最上流の理想論によって、受験生をはじめとした関係者は振り回すだけ振り回された。

入試改革を総決算する

拙著『だから、2020年大学入試改革は失敗する』(共栄書房)を、私は2017年に出版している。確たる理由により、この入試改革は絶対に失敗すると断言していた。すぐに議論を仕切りなおすべきだとも主張していた。が、それがなされず徒に時間だけが過ぎた挙句、共通テスト実施の約一年前の2019年12月17日に記述試験の見送りが決まるという、これ以上ないくらい受験生を混乱させる結果となってしまった(英語民間試験の見送りは同年11月1日に決定)。

文科省は各大学に、入試に必要な教科・科目の変更は二年程度前に公表することを求めているが、その要求を文科省自身が破ってしまった格好だ。そして、冒頭で述べたように2021年6月22日に2025年1月以降の試験でも記述試験・英語民間試験の導入を見送る方針が固まったことをもって、ようやく完全な幕引きとなった。今回の入試改革の失敗が決定づけられた瞬間でもあった。

新型コロナや衆院選に注目が集まる今、失敗の総決算をすべき入試改革になかなか注目が集まらないが、本当にそれでよいのだろうか。入試改革は失敗の歴史と評されるように、ここでしっかりと総決算しなくては、また似たような騒動を起こすに決まっている。喉元過ぎれば熱さを忘れるとも言うが、忘れ続けた結果が失敗史を生んだのではないか。

また、10月に発売された拙著『入試改革はなぜ狂って見えるか』(ちくま新書)は、今回の入試改革を総決算するとともに、大学入試改革議論の混乱に惑わされないための視点を提供するものだ。拙著の企画は約二年前からはじまり、紆余曲折を経たこともあって完成まで時間がかかった。ただ、その分だけ納得のいくものができたと自負している。ご一読いただければ幸いだ。