1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号〜1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第7回は、若き日の浅田さんを襲った、育った土地や家庭に育まれた常識の違いによって生まれた、あまりにかわいそうな出来事について。
「ひとでなしについて」

「ろくでなし」と「ひとでなし」の違い

わたしはろくでなしであるが、ひとでなしではない。

まちがっていると困るので、いちおう家族、親兄弟、「週刊現代」編集部等に問い合わせてみたところ、たしかに同様の答が返ってきた。

ろくでなしではあるがひとでなしではない、ということは要するに、家族からすれば「濫費はするが生活費は入れる」というほどの意味であろうと思う。同様に親兄弟にとっては「恥っさらしであるが迷惑はかけない」、編集者から見ると「回し蹴り、バックドロップ等はくらうが締切りは守る」または「立小便はするが野グソは垂れない」「和姦は好むが強姦はしない」「首は締めるが息の根は止めない」という具合に、つまりめりはりのある人間だと解釈していただいてよろしいかと思う。

さて、なぜこのようなことを書く気になったのかというと、決してひとでなしではないはずの私が、かつて一度だけ「ひとでなし!」と呼ばれたことを、フト思い出したからである。「ろくでなし!」はいまだに週1回、若い時分は日に3回ぐらい聞かされていたので記憶にもとどまらぬが、「ひとでなし!」の一言は深い心の傷となって残っている。しかも発声者は美しい女人、場所は白昼の浜離宮庭園近くの路上、周囲には人も大勢いた。

思い起こせば昭和50年前後の夏たけなわのころであった。

20代前半の私はセッセと売れない小説を書き続けるかたわら、ネズミ講の泰斗として世に君臨していた。髪はいまだハゲの予兆すらもなく、腹も出ておらずメガネもかけておらず、一見して才気煥発・眉目秀麗たる美青年であったので、当然のごとく女人にはようモテた。

陸上自衛隊出身、小説家志望、現在ネズミ講幹部となれば、まさにその存在自体がマルチレベルであれが、正体不明の分だけようモテた。

代々木公園脇の家賃数十万円もする豪華マンションに住み、シャツ・パンツはおろかワイシャツまでも使い捨て、女はもっと使い捨て、朝起きればまず床屋に行く、という優雅な生活であった。しかしいくら金があっても小説家にはなれないので、日に数時間は必ずストイックな書生に立ち返って原稿を書いていた。ジキルとハイド、である。

そんなある日、ひょんなきっかけから美しい女子大生と知り合い、たちまち恋に落ちた。ひょんなきっかけなどというとあらぬ誤解を招くのではっきりさせておく。

純情可憐な女子大生との出会い

書生状態の私が神田神保町界隈の古本屋の高いキャタツの頂上で、こむずかしい資料を立ち読みならぬ座り読みしていたところ、地べたをはいずるようにして最下段の書物を物色しつつ、その女子大生が接近してきたのである。

 なんかアブねえなあ、と思う間もなく、女子大生のケツがキャタツをゆるがし、虚を衝かれた私は中国古典文学大系を手にしたまま、まっさかさまに転落した。私はどうともなかったのだけれど、女子大生のメガネがこわれた。ひしゃげたフレームを鼻の下にぶら下げて立ち上がった彼女は一見してブスであったので、気をつけろバカヤローと言おうと思ったが、悲しげにメガネをはずした顔は思いのほかの美形であった。で、すかさず言葉を改め、「申し訳ありません、お怪我はありませんか。ああ、メガネを壊してしまった……」とか言った。

ざっとこのようなキッカケにより、私はキャタツから落ちたついでに恋に落ちたのであった。

ろくでなしではあるが、ひとでなしではないということはつまり、恋愛感情の湧かぬ女人には鬼か夜叉のごとく接するが、惚れた女に対してはろくすっぽ口もきけない、ということである。

タイプでいうなら、近ごろドラマやCMで活躍している坂井真紀という女優に似ていた。要するに親しみ深い笑顔を待ち、純情可憐かつオボコい、今に変わらぬ私好みである。静岡県のある都市――ものすごく健全で、豊かな町に生まれ育ち、その春東京の某有名大学に入学したのであった。

心の底から愛した彼女と深い関係に至らなかった理由は、私がひとでなしでなかったせいもあるが、彼女が早くに私をろくでなしであると見破って警戒したせいであろう。

しかし、彼女もたぶん、私を嫌いではなかった。その証拠にたった一度、ホテルに行ったことがあった。フランス料理を食い、例によって私は飲まずに彼女には飲んでいただき、めでたく夜景をみはるかす楼上の一室に上った。彼女は部屋に入ったなり戸口にたちどまり、「誰にでも、こんなことするの?」とか言った。本当は誰にでもこんなことする私は、もしや俺はひとでなしなんじゃないかと思い、狼狽した。

その夜、私は彼女の抵抗に屈し、中国の士大夫かストア派哲人のような顔で朝を迎えたのであった。

哲人的交際は数ヵ月続いた。その間彼女はしばしば私のマンションを訪れ、掃除をし、料理を作り、何度かケバいねえさんとハチ合わせもした。

愛している。だがどうすりゃいいんだ、とういうのが、士大夫の悩みであった。今考えても、いったい彼女が私をどう思い、どういう気持で付き合っていたのかは不明である。

要するに、彼女にとって私は、上京に際して親からくどくどと言い含められた「東京のひとでなし」そのものであったのだろう。今でも可愛い子供を単身上京させる親はきっと同じことを言うと思う。おそらく彼女は、私をろくでなしだと思っていただろうが、もしかしたらひとでなしではないと感じ始めていたのではなかろうか。

そこで話はようやく、「白昼の浜離宮庭園近くの路上」とあいなる。

破局の要因となった意外なこと

数ヵ月に及ぶ清い交際の間、私は彼女との間の文化的断層に気付いていた。東京の下町育ちの私と、静岡県下の極めて健全かつ豊かな都市に生まれ育った彼女との間には、ものすげえギャップがあった。もちろん数ヵ月にわたるふしぎな関係も、元を正せばそれぞれの生育した土地の「貞操観念」のちがいであろう。

夏のさかりのある日、浅草でデートをした。おそらく静岡県下の健全な都市には絶対にありえないその町の雰囲気を、彼女は「何だかこわい」と表現した。彼女は一日中、明らかにカルチャー・ショックを受け続けていた。

当時、浅草の映画館は禁煙にもかかわらず勝手にタバコを喫ってもいいことになっていたので、同堂々と一服つけると、彼女はまことにろくでなしを見るような目で私を睨んだ。観音様の裏の掛茶屋に入ってかき氷を注文したら、彼女は再びろくでなしを見るような目をしながら、氷にもお茶にも手をつけようとはしなかった。

そうこうするうちに、彼女がきれいな所にいきたいと言うので、吾妻橋の畔(ほとり)から遊覧船に乗って浜離宮に行った。どうやら彼女にとって、浅草公園はものすごく不潔な場所に見えたらしい。

浜離宮の美しい庭園を散策するうちに、彼女は初めて私に寄り添い、腕をからめてきた。

「今晩、私のうちでごはん食べて。ねえ、いいでしょう」と、彼女は何となく思い切った感じで言った。

いいも何も、いいに決まっていた。ついに彼女は、私を東京のひとでなしではないと認識してくれたのであった。

しかし、好事魔多しというか、私たちの破局はそのわずか数分後に起きた。

公園を出てしばらく歩いた路上に、西日を避けて浮浪者が昼寝していた。東京では別段珍しい光景ではない。むしろ日常風景の一部である。が、当然看過して歩きさろうとする私の腕を、彼女は引き止めた。

「あの人、病気よ。交番か病院に連れてってあげて。救急車呼ばなきゃ」

真顔であった。つまり、静岡県下の健全で豊かな都市には、浮浪者なるものは存在しないのであった。説明するのも面倒なので、私は彼女の手を握って歩き出した。その様子はおそらく、欲望のために他人の不幸を看過する冷酷な男、と彼女には見えたのであろう。

彼女は真青な顔をして私の手を振りほどき、「ひとでなしっ!」と叫んで走り去ってしまった。それきり音信は途絶えた。

もしその後東京で嫁に行ったのなら、きっと反省していることだろう。あのころの私は確かにろくでなしであったが、決してひとでなしではなかった。

(初出/週刊現代1995年7月25日号)

元担当編集者が見た往時の浅草

この事件が起こった昭和50(1975)年前後、私は千葉県船橋市の学校に通う高校生だった。当時、姉が浅草に住んでおり、映画に夢中だった私は、毎週土曜日、姉の部屋に泊めてもらい、浅草の名画座に通っていた。

平成以降、再開発が進み、すっかりきれいになって観光客が押し寄せるようになった浅草だが、その頃は、背伸びしてクソ生意気な高校生にとっても相当の気合いと覚悟をもって足を踏み入れなければならない場所だった。

浅草六区には、私が通った東京クラブ、トキワ座、中映といった洋画の名画座が並んでいたが、通りにはすえた臭いが漂い、浅田さんが書いた通り、決して清潔な通りではなかった。通りの奥では、薄汚れたブリーフ1枚の浮浪者やら、厚化粧のオカマのおじさんといった、16歳のガキを呆然とさせるような外見の人たちに遭遇することも稀ではなかった。萩本欽一さんやビートたけしさんを輩出したストリップ劇場には、客引きのおにいさんがいて、突然肩を抱かれ、「学割1000円でどうだ?」と誘われた。まだ高校に入学したばかり、童貞まっさかりだった私は、好奇心より恐怖心の方が勝り、ほうほうの体で逃げ出した。

昭和31(1956)年の経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われてから、すでに約20年の時を経ていたが、当時の東京にはまだ、地方都市にはない魔界のような通りが残っていたのだ。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)
『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。