「どんなつらいことが待っていようと死んでは絶対ダメ」

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ここは沖縄・座間味島。那覇市の西およそ40kmに浮かぶ、エメラルドグリーンの海に真っ白い砂浜がまぶしい、楽園のような島だ。しかし、いまから77年前。現在の、のどかな島からは想像もできない凄惨な光景が、ここに広がっていた。

太平洋戦争末期、日本の本土防衛の“捨て石”とされた沖縄。その沖縄で、真っ先に大きな被害を受けたのが座間味島だった。米軍が上陸すると周囲約24kmの小さな島で、島民たちは逃げ場を失い追い詰められていった。

「アメリカー(米軍)に捕まったら男は八つ裂き、女は強姦される」と日本軍から徹底的に教え込まれてきた。「そんな目に遭うぐらいなら」と、島の男たちは次々と妻子、姉妹を手にかけ心中をはかった。この「集団自決」と呼ばれる悲劇の犠牲者は、優に200人を超す。

ジャーナリスト、それに女性史の研究家である宮城晴美さん(72)はライフワークとして、ふるさとの島で起こった惨劇の調査を長年、続けている。

長いこと沖縄本島で暮らしている宮城さんだが、戦後間もなく生を受けたのはここ、座間味島だ。折に触れ島に帰り、親族はもちろん、口の重い島民たちから貴重な証言を数多く引き出してきた。

さらに宮城さんには戦争当時、村役場に勤めていた母から託された貴重な手記もあった。母は島に駐屯した日本軍と行動をともにし、そして、集団自決の生き残りでもある。

その母が、戦争末期の座間味の様子を克明に記録した手記を後年、娘に委ねたのだ。宮城さんが母の手記と、自身の調査をもとに著した『母の遺したもの』(高文研)は、沖縄タイムス出版文化賞も受賞。今年1月、研究者らを中心に発足した「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」。この「命こそが宝だ」と直言する会でも、宮城さんは共同代表を務めている。

ロシアのウクライナ侵攻など、ますます混迷を極める現在の世界情勢をにらみながら、宮城さんはこう力を込めた。

「座間味の人たちがなぜ、集団自決という悲しい結末を選ばざるをえなかったのか。現代を生きる私たちにとって、それは決して人ごとではないと思っています」

■祖父がヤギを潰したときの祖母の恐ろしい一言

終戦から4年後の1949年。宮城さんは座間味島に、5人きょうだいの長女として生まれた。

「小学生のころは、学校が終わると決まって母の実家、祖父母の家に。おやつに、祖母がふかしてくれたお芋をいただくのが日課でした。祖父母は私のこと、とってもかわいがってくれましたよ」

祖母はいつも、三角に折ったハンカチを首に巻いていた。首元の傷跡を覆い隠すためだった。

「祖母の首にはポッカリと穴が開いていて。そこにカニューレという、呼吸を助ける管が入っていました。声帯も傷ついて、祖母はほとんど声を出せません。首元を手で押さえ、絞り出すように口を動かして、かろうじて、かすかな声を発していました」

祖母ほど目立つものではないが、同じような傷が祖父、それに叔母の首元にもあった。

「子ども心に『あの傷はいったいなんだろう?』とずっと思っていました。でも同時に『聞いてはいけない』という自制心も働きました」

聞いてはいけない、と思うのには理由があった。物心つくころ、宮城家の台所は、島の女性たちが集うサロンのような場所だった。

「母のもとに、おばさんたちが集まってきては、いろんな話をしていて。話題の1つが戦争のことでした。『誰それは、こんなふうにして玉砕した』『いや、あの人は夫に首を切られて死んだはずよ』と」

そんな大人たちの話を聞きかじって育ったから、祖母たちに首の傷のことは、聞けなかったのだ。同時に宮城さんは、詳細まではわからなくとも、多くの島の人たちが戦時中、自ら死を選んだということも、うすうす知っていた。

やがて、中学卒業を機に島を出た宮城さんは、沖縄本島にある寮を備えた県立糸満高校に進んだ。そのクラスメートとのやり取りで、宮城さんは強いショックを受ける。

「あれは、1年生の1学期だったと思います。本島南部、糸満も沖縄戦の激戦地でしたから、ほとんどの級友が、家族を戦争で亡くしていた。それで私、聞いたんです、『あなたの家族は、どんなふうにして自決したの?』と。当時は自決ではなく『玉砕』という言葉を使っていたかもしれません。そのときまで、私は戦争で亡くなった人というのは全員、集団自決の犠牲者と思い込んでいたんです。でも、級友たちは誰ひとりとして、集団自決の意味をわからなかったんです」

以来、「集団自決とは、なんだったのか? なぜ座間味でそれが起きたのか?」という疑問が、宮城さんの中でくすぶり続けた。

いっぽうで、宮城さんには幼き日の、忘れられない記憶がある。それは小学生時代。いつものように祖父母の家で遊んでいたときのこと。裏庭から、不穏なヤギの鳴き声が聞こえてきた。

「行ってみると、祖父がヤギを1頭、食用に潰すところでした」

祖父はヤギの後ろ足を縛り、宙吊りにすると、おもむろにその首を切った。滴り落ちた血が、地面に置かれたバケツにみるみるたまっていくのが見えたという。

「日ごろ、大人は残酷なシーンを子どもの目に触れさせないようにしていたので、私はドキドキしながら隠れて見ていました。すると突然、背後から祖母に声をかけられたんです。咄嗟に『おばあに叱られる!』と思い、身をすくめました。でも次の瞬間、祖母は私を叱ることなく、冷たい目で祖父を見ながら言ったんです。『この人は、おじいは首切り専門だから』と」

恐ろしい言葉もさることながら、顔を上げた祖父の、いまにも泣きだしそうな、見たこともない悲しげな表情に、幼かった宮城さんは身が震える思いだった。

「あのときの祖母の声、それに祖父のあの顔……、何十年もたったいまも、忘れることができません。その後も祖母は、同じように祖父をなじり続けました。でも、それに対して祖父は一切、反論しないんです。あの日と同じように、悲しげな顔をするだけなんです」

■米軍上陸時、島民はパニックに陥りながら死に突き進んだ

高校を卒業した宮城さんは、沖縄国際大学に進学。大学の授業で、家族の戦争体験についてレポートを書くという課題が出され、初めて、ふるさとの島の集団自決に、正面から向き合うことになった。さらに、そのレポートを契機に「沖縄県史」編さんの手伝いをすることに。宮城さんは座間味島をはじめ、島々の人たちの戦時中の体験を取材し、執筆もした。

「大学卒業後は、琉球大学の研究生を経て、学術誌、月刊誌の編集部に就職し、編集や書き手の仕事をしました。仕事の一環としても、集団自決の調査を続け、雑誌で特集を組んだりもしたんです」

米軍が座間味島に上陸したのは、1945年3月26日。その数日前から苛烈な空襲と艦砲射撃にさらされた島民たちが、徐々に平常心をなくしていくのが、聞取り調査を通して、宮城さんには手にとるようにわかった。

「徹底した教育と、終戦の前年の9月から駐屯してきた、島の人口のおよそ2倍、千人余もの日本兵たちとの密接した生活。そのなかで、本来は軍隊用語だったはずの『玉砕』という言葉が、いつしか島民にとっては『親族を殺し自らも死ぬこと』という意味に変わっていったんです」

日本軍は島に、特攻艇の秘密基地を建設していた。男女を問わず土木作業や食料確保に動員された島民たち。いや応なく軍の機密にも触れた彼らが、生きて敵に捕まることを、日本軍は恐れた。

「だからこそ、いざとなれば玉砕を、と軍は手りゅう弾を配ったりしていたんだと思います」

米軍上陸前夜。島民たちはパニックに陥りながら、死に向かって突き進んでいた。

「3月26日の朝、家族とともに防空壕に逃げ込んだ50代の男性。彼は坑木に通したロープを家族一人ひとりの首に巻きつけ吊るし上げ、妻や子どもたち9人を手にかけました。なかには6歳と3歳の孫もいた。自分だけ生き残ってしまった彼は壕の入口で、錯乱状態で泣き続けていたといいます」

死ぬ方法も、さまざまだった。殺鼠剤を回し飲みする島民もいた。「この量では死ねない、もっとよこせ」という者もいれば、嫌がる子どもの口に黒糖を混ぜた殺鼠剤を、無理やり押し込む親もいた。

「殺鼠剤を飲み、もがき苦しむものの死にきれない家族を、棍棒でめった打ちにし、さらに小屋に火をかけ、その中に娘を放り込んだ父親もいました」

学校職員の壕では、軍から支給された手りゅう弾が使われた。

「教師の投げた手りゅう弾が当たって、首を深く切った少女がいたそうです。近くにいた女性が血まみれになりながら介抱し水を飲ませると、飲み込んだ水が首の裂け目から勢いよく漏れ出ていたと。様子を見ていた少女の母親は瀕死の娘を見捨て、まだ元気なほかの子どもを連れて壕を後にしてしまうんです。目撃した人によれば、その母親も死に場所を求め出ていったんだということでした」

パニックに陥り、自らの命を絶つことを急いだのは、宮城さんの祖父母も同じだった。

「祖父は私が大学生のときに亡くなってしまいましたし、祖母は最後まで、あの日のことを決して口にすることはありませんでした」

それでも彼らの子である母、そして叔母たち親族からの聞き取りで、詳細が徐々にわかってきた。

「やはり25日の夜。役場の人から『忠魂碑前に集まるように』と告げられ祖父母たちは、軍の手伝いをしていた母を除き、家族皆で晴れ着姿で死地に向かったそうです」

忠魂碑とは靖国神社に直結する斎場。その前で玉砕するのは日本国民として当然のことと思えた。

「でも、艦砲射撃を避けながら、やっとの思いでたどり着いたものの、そこには誰もいなかったそうです。仕方なく引き返した祖父母たちが、自分たちの壕に戻れたのは翌朝のことだったといいます」

疲れ果て、家族は眠ってしまう。しかし、数時間後。祖母の叫び声で全員が目を覚ます。

「外の様子をうかがった祖母の目の前に米兵が現れたんです」

取り乱した彼女は、祖父に「早く殺して」とせがんだという。

「祖父は剃刀を手に取り、まずは『早く、早く』と騒ぎ立てる祖母の首を切ったそうです。それでも息のあった祖母は『まだ死ねていない』とさらにせがみ、祖父は返り血を浴びながら2度、3度と祖母の首を切りつけました」

次いで祖父は3人の子どもの喉を切り、最後に自分自身の首に刃を当てた。5人の血は壕の外にまで流れ出ていたという。

「息子は絶命してしまいますが、直後に壕に押し入ってきた米軍により、瀕死の祖父母と2人の娘は救助されます。祖母は声を失いますが、米兵が装填したカニューレのおかげで一命を取り留めました」

生き延びた家族が再会を果たすのは、あれほど忌み嫌った米軍が設えた野戦病院、そのベッドの上でのことだったーー。

■あの時代の正義とは何だったのか

宮城さんは、生前の母にこんな質問をぶつけたことがある。

「なぜ、あの戦争を反対しなかったの? どうして、自ら死を選ぶようなことをしたの?」

すると母は、こう言った。

「あの時代にあなたが生きていたら、人をたくさん殺したろうね」

母の言わんとしていることを理解した宮城さんは、即座に反論することができなかった。

「大袈裟な言い方をすれば、私は私の“正義”に基づいて、いろんな活動に取り組んできました。それを母もよくわかっていたんだと思います。そして、あの時代の正義というのは、まさに戦争に勝つために戦うこと。だから、母は私があの時代に生きていたら、という言い方をしたんだと思います。そして母も、島の人たちも、自分たちの信じた正義に突き動かされて、あの結末を迎えたと思うんです」

現在の不穏な世界情勢を受け、沖縄や奄美地方で進む軍備の増強、それを歓迎する声も少なくない。

「それが正しい選択だと多くの人が思っているのかもしれません。でも、あの時代の座間味でも、島民の倍の数の兵隊が来て軍備が増強されて、島の人たちは安心したそうです。これで自分たちは守ってもらえる、安泰だと。でも、それは、あの結末を知るいまとなっては幻想でしかないことが明白じゃないですか。本当に守るべきものは国ですか? 国はあなたを守ってくれるでしょうか? そこをもう一度、自分のこととして皆さんには考えてほしいんです」

【後編】沖縄本土復帰50年 集団自決では祖母が祖父に「殺して」とせがんだへ続く