ベーリー新オーナーとは何者か?「チェルシー新時代」への期待と不安

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3月2日にアブラモビッチ時代が終わりを告げてから約2カ月、チェルシーは公式サイトでクラブ買収が合意に達したことを発表した。アメリカ人実業家トッド・ベーリー(Todd Boehly)を旗頭とする新オーナー陣の下、ブルーズはどう変わるのか? サポーターが彼らに求めるものは? 西ロンドンで長年チェルシーを追い続ける山中忍さんが現地からレポートする。

 現地時間5月7日未明、チェルシーの新時代がほぼ正式に幕を開けた。「ほぼ」の理由は、ロマン・アブラモビッチからのオーナー交代に際し、まだ英国政府とプレミアリーグの承認が必要であるため。もっとも、ロサンゼルス・ドジャース共同オーナーとして知られるトッド・ベーリーが旗頭のコンソーシアムによる買収が、アブラモビッチへの金の流れを含むロシアとの関係で政府に却下される可能性はないと思われる。リーグによる新オーナー適性審査は、その厳格性が以前から疑問視されているレベル。ロシア人オーナーの資産凍結処分後もチームとしての活動を可能としている政府の特別許可が切れる5月末までには、クラブの売却を認可する特別ライセンスが発行され、新政権への移行が完了する見込みだ。

いかにも「アメリカン」

 ベーリー自身も、7日午後のホームゲームに姿を見せた。席は、かつてアブラモビッチが座っていたシートではなく、そのボックス席の2ブロック隣。ティアドロップ型のサングラスをかけ、ジーンズを履いた足を前列の背もたれに乗せて観戦する姿は、いかにも「アメリカン」だ。カリフォルニア州のように太陽燦々ではないイングランドの気候は、その不安定さが「1日の中で四季が訪れる」と言われるが、スタンフォードブリッジのボックス席でプレミアリーグの試合を眺めたアメリカ人実業家にすれば、90分間で“自軍”の春夏秋冬を味わった気分だっただろう。

 ルーベン・ロフタス・チークがネットを揺らし、次期オーナーが指笛を鳴らしたのは38分。その3分後にゴールを取り消すVAR判定が下ると、「なぜだ?」と言うように両手を広げていた。56分にロメル・ルカクが決めた先制のPKには、両手を高く突き上げるリアクション。58分の追加点では、天を指差して神に感謝するルカクに立ち上がって拍手を送っていた。ウォルバーハンプトンに1点を返された79分の時点では、まだ軽く渋い表情を浮かべた程度。しかし、アディショナルタイムに相手キャプテンのコナー・コーディに同点のヘディングを決められると、ベーリーは力なく腰を落として額に手を当てていた。幸先の良い零封勝利かに思われた一戦は、3位だったチェルシーが8位のウルブズを相手に2ポイントを落とす結末となった。

中央がトッド・ベーリー。現在46歳、MLBロサンゼルス・ドジャースの共同オーナーを務める他、NBAロサンゼルス・レイカーズとWNBAロサンゼルス・スパークスの株式も所有している

 新オーナーを迎えたホーム観衆の心境は、当日の天候と同じ「晴れ時々曇り」といったところか? クラブの買い手が決まり、ロシアのウクライナ侵攻を受けた制裁による窮状と先行き不安から抜け出す目処が立った。ついた値段は42億5000万ポンド(約6800億円)。売却合意を告げるクラブの公式声明によれば、うち17億5000万ポンド(約2800億円)がクラブの今後に投資される。新オーナーは、最低10年間の経営権維持も約束。契約には俗称「対グレイザー条項」が含まれていることから、やはりアメリカ人オーナーが所有するマンチェスター・ユナイテッドで問題となったように、クラブが負債の返済を押し付けられたり、配当金やアドバイザー料として収入の一部を経営陣に持っていかれたりする心配もない。

 しかし、オーナーの良し悪しを資金力だけで判断すれば、アブラモビッチ政権からのグレードダウンである事実は否定できない。フットボールクラブの値段としては常軌を逸しているとも言われる買収額ではある。合意当日のBBCテレビ『マッチ・オブ・ザ・デイ』では、司会のギャリー・リネカーがサウジアラビア資本による昨年のニューカッスル買収を引き合いに出し、同クラブのレジェンドでもあるゲスト解説者アラン・シアラーを「12個分かな!?」と言ってからかっていた。

前政権のレガシーを継承できるのか?

 ただし、新政権の代表格ベーリー個人の推定資産は、すべてを投げ打ってもチェルシー買収には足らない45億ドル(約5850億円)。資産凍結前のアブラモビッチは、その一桁上を行くオーナーだった。であるがゆえのコンソーシアム形態であり、複数いる株主としての筆頭格は6割を超える額を出資しているクリアレイク・キャピタル社になる。カリフォルニアの投資会社が、経験のないサッカー界ビッグクラブ経営におけるリスクを警戒するケースは十分に考えられる。前述の17億5000万ポンドは、棚上げされたままの新スタジアム構想も投資対象に含まれるが、立地条件的に地下鉄の線路や周辺住宅の日照権といった難題のあるスタンフォードブリッジは増改築でさえ簡単ではない。当面は約4万2000人が最大収容人数のままとなれば、財布の紐が固くなっても不思議はない。

 それでもチェルシーは、プレミアの「2強」とも言われる状態のマンチェスター・シティとリバプールに挑まなければならない。アブダビ首長国の“オイルマネー”が支えるシティは、年間売上を競う「フットボール・マネーリーグ」(デロイト社発表)の昨季世界1位。5月10日には、82億円近い移籍金と31億円を超える年俸で、アーリング・ホーランド(ドルトムント)の獲得も発表された。アメリカ系投資グループが所有するリバプールにはシティほど派手な補強のイメージがないが、指揮を執るユルゲン・クロップは、シティのペップ・グアルディオラに続くポジションでプレミア現役監督の最高給取り“2トップ”を形成している。

 チェルシーファンが、その両軍と互角以上に張り合えるチーム作りを進めるクラブ経営を望んでいることは、買収合意の発表に対するSNS上での反応から窺い知ることができた。ベーリー一行を歓迎するだけではなく、19年間で計21度のタイトル獲得を実現したアブラモビッチ政権の「レガシー継承」や「スタンダード維持」を期待する意見が多かったのだ。逆にシティとリバプールに水をあけられ続けることになれば、アブラモビッチ時代には記憶がない、ファンによる大々的なブーイングでオーナーへの不信任が示される可能性もある。新政権との距離感が縮まらなければなおさらだ。

何よりも望む「トゥヘルへの信頼」

 筆者は、今回のチェルシー落札に諸手を挙げて喜ぶことができなかったタイプの1人。誰が新オーナーでも資金力が落ちる状況であれば、仮にタイトルから遠ざかることになったとしても、ファン所有クラブという理想像への一歩を踏み出すようなオーナー交代を望む気持ちもあった。ベーリーのコンソーシアムは、地元サポーターの経営陣入りやファンの株式所有を公約に掲げる新オーナー候補ではなかった。買収合意後のクラブ声明にしても、深夜1時35分という発信のタイミングが、時差マイナス5〜8時間のアメリカへの配慮を感じさせた。

 そこで新政権が最優先として行うべきは、就任2年目にして、指揮官、戦術家、さらにはスポークスマンとしてファンの評価も高いトーマス・トゥヘルとの間に親密な信頼関係を築くことだと言いたい。メディアでは、ロシア人富豪の資産凍結で交渉を禁じられた選手契約問題の解決が挙げられている。確かに、今季限りで契約が切れるアントニオ・リュディガー、アンドレアス・クリステンセン、セサル・アスピリクエタのDF3人は、リュディガーのレアル・マドリー入りが決まり、残る2人もバルセロナ行きが噂される。だが、前体制下で出番が減っていた3選手を流失が痛い主力に戻したのはトゥヘルだ。

公式発表を待つのみとなったリュディガーのレアル・マドリー移籍。ランパード(現エバートン)からトゥヘルへ、昨年1月の監督交代を機にレギュラーに復帰した29歳のドイツ代表CBは、今季もここまでMFマウントと並ぶチーム最多タイの公式戦51試合(全60試合)に出場していた

 穴埋めを含む補強を見据え、契約交渉を担当してきたマリナ・グラノフスカイアの必要性を指摘する意見に関しても同じことが言える。1990年代からのアブラモビッチ側近を敏腕の実質的CEOとして経営陣に残すべきだとする意見に異論はないが、それを言うのであれば、肩書き上も役員となった過去9年間で最も良好な関係を保っていると理解できる指揮官としてトゥヘルがいる。

 長期展望で「トゥヘルのチーム」を作るスタンスは、新時代の前向きな兆候としても歓迎できる。オーナーとしてのアブラモビッチの在り方に不満な点があったとすれば、それは監督のクビを切り続けた姿勢。チームの実績面では奏功したと言えるが、チームの未来という面では短期視野が続く原因となった。新政権下では、現監督が志向するインテンシティの高い攻撃的サッカーを信条とするチェルシー像へと、オーナー以下が辛抱強く歩み続ける覚悟を持てば、過去19年間より限られる補強予算を最大限に活用することもできるだろう。高い競争力も保てるのではないか? イングランドではよく「本の中身を表紙で判断してはならない」とも言われる。日本では「椀より正味」のような格言。表紙にはベーリーの顔がある「チェルシー新時代記」の第1章が、「トゥヘルへの信頼」となることを願いながらストーリー展開を見守りたい。

今季プレミアリーグでは第36節を終えて勝ち点70(20勝10分6敗)の3位と、同89のマンチェスター・シティ、同86のリバプールに大差をつけられたトゥヘルのチーム。次戦は5月14日(土)、UEFAスーパーカップとFIFAクラブW杯に続くタイトル獲得を目指して、FAカップ決勝リバプール戦に臨む

Photos: Getty Images