純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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正確に形が取れるのは、当たり前。しかし、それだけでは、まともな美大には歯も立たない。それでは、表現になっていないから。表現はコピーではなく、むしろそれでないもので、それを伝えること。だから、画塾の先生は無理難題を言う。もっと質感を、重量感を、躍動感を出せ、と。それどころか、黒一色の木炭や鉛筆で、色彩感を出せ、とまで言う。それで、暗褐色のビールビンと紙の飛び出た赤いティッシュ箱なんかをモティーフにしてデッサンをさせる。

しかし、そもそも木炭だの鉛筆だので、紙の上に立体を表現しているのだ。木炭や鉛筆は消え、そこに立体が浮かび上がる。このことからして、かなりむちゃな話だろう。こんなむちゃが可能なのは、じつは対象としての立体そのものではなく、我々の感覚の方の立体感を紙の上に表現しているから。それで、紙の上の木炭や鉛筆の濃淡を、我々は立体的な対象として再認識している。そして、これが可能であるのとまったく同様に、我々の感覚としての質感や重量感、躍動感、色彩感をきちんと理解して表現するならば、これらも木炭や鉛筆の濃淡を通じて表現できる。

質感とは、まず手触りだ。硬いか、柔らかいか。では、この手触りは、どこにある? モノの表面だ。我々は、硬いモノは、その輪郭で、いきなりその抵抗に接する。硬いものほど、その表面や輪郭のメリハリは、我々が実際に触れる前から強く、我々にアピールしてくる。一方、柔らかいモノにとって、輪郭はあまり意味をなさない。我々が触れればすぐ形を変えてしまうから。むしろその素材に指先が触れたとき、紙のようなざらつきか、ラップのようなツヤか、それが気になる。そこに目がいく。ただし、その立体性はかよわい。だから、我々はそれをあまり意識しない。

そして、重量感を決めるのは、モノにとってのモノの「手触り」。テーブルにとって重いビールビンは「硬い」。だから、その接地輪郭においてがっちりメリハリがある。これに対して、テーブルにふわっと置かれた布は、テーブルからすれば、あまり関係を結んでいない。したがって、そこには、輪郭が無く、触れた素材の「手触り」、やわらかな陰影が描かれる。

さて、躍動感とか、生命感とか。揺れる振り子を描け、などというモティーフが出されることはあまりないが、石膏となると、ややこしい。というのも、それがすでに表現だからだ。つまり、石膏というモノを描くのではなく、石膏が表現しているものを掴む。それも、アバタやラボルト、パジャント、アマゾンなどは、一般に初級の練習向け。実際の試験では、ブルータスやモリエール、ジョルジョ以上が定番。ましてラオコーンなどが出てきた日には、途方に暮れる。というのも、これらのようにひねた姿勢が石膏のように固定的であるわけがないから。だから、動かないモノなのに、この姿勢が瞬間的な表情であることを表現しないといけない。

しかし、これも、我々が動きにおいて見るもの、見ないものを考えれば、見えるように描く方法もわかる。我々は、止まっているもの、ずっしりとそこに固定して存在感のあるものは、大地との関係、つまり、影を意識する。逆に、動いているものは、影など意識する余裕はない。それどころか、迫り来るものを強く意識して、それが魚眼レンズのように強く大きく感じられる。したがって、首のひねりがある胸像においては、胴体部を重厚な影とともにしっかりと据える一方、一瞬の勢いのある頭部についてはやや遠近を効かせ、髪なども軽く、すっと流してやる。

だが、しょせん白黒の石膏はまだ生やさしい。画塾にはかならず果物の模造品が置いてあって、これを盛り合わせにして、もしくはテーブルに転がして、白黒の木炭や鉛筆で描け、などという課題が出される。形からすれば、いくら模造でも、インチキもいいところ。だが、この場合、問われているのは、色だ。

純粋に光学的に言えば、赤はかなり暗い。茶色いパイナップルやその緑の葉より、赤リンゴの方がはるかに暗い。しかし、だからといって、その光学的明度のままに塗ったのでは、赤く見えない。もちろん人間には記憶色というものがあって、リンゴは赤だ、赤いはずだ、ということで、見る人の方が色を補ってはくれるのだが、それには、その記憶の赤の印象形式にデッサンの方が適合しないといけない。

概して、赤やオレンジなどの暖色は、我々の感覚的視覚において、膨張感がある。このために、赤はそこに膨らむグラデーションがあり、こまかな粒模様や筋模様があっても、その輪郭はつねにあいまいになる。一方、冷色系は、収縮感があって、人間には実際より暗く感じられ、その内部を読み取ろうとしないために、模様なども意識されず、平板でベタな塗りになる。難しいのは、レモンイエローで、たとえバナナであっても、酸味の鋭さを感じ取るために、明るく、それでいて冷色系の扱いで処理する。

デッサンの初歩においては、とにかく徹底的に対象を見ることを教えられるだろう。だが、そこから一歩前に進むためには、対象を見ている自分を見ることが求められる。自分がそれをどんな風に見ているのか、そこに何をどのように感じ取っているのか、それを問い返す必要がある。

しかし、デッサンはこれで終わるものではない。これらの中級の技術を交響曲のように組み合わせ、そこに人物の怒りや驚き、恐れなどの内面性まで描き出してこその絵だ。そしてさらには、静物であっても、それがそこに置かれた空気感、室内か、室外か、もてなしか、放り出しか、それとも、あえての謎かけか、それらまで、配置の強調や反射の強弱で表現しないといけない。しかし、このように人間は目に見えない内面性や空気感まで感じ取っている。そして、デッサンでは、自分が感じ取っていることをそこに盛り込んでこそ、表現になる。