カヌー・羽根田卓也が語学習得にまつわる経験を語った【写真:荒川祐史】

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「THE ANSWER スペシャリスト論」カヌー・羽根田卓也

 スポーツ界を代表するアスリート、指導者らを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る連載「THE ANSWER スペシャリスト論」。カヌーのリオ五輪銅メダリスト・羽根田卓也(ミキハウス)は18歳で単身、カヌーの強豪スロバキアに渡り、日本で自らスポンサー営業も行うなど、競技の第一人者として道を切り開いてきた経験や価値観を次世代に伝える。

 今回のテーマは「スポーツの海外挑戦と語学」前編。海外留学・挑戦が身近になったスポーツ界。08年北京五輪出場後、スロバキアの国立最難関・コメニウス大学に21歳で入学し、同校の大学院も修了した羽根田。海外で日本人の壁となるのが語学だが、次世代の後輩に「言葉の壁なんてない。言葉の壁を作っているのは君自身」と伝えるという羽根田の語学習得にまつわる経験を語ってもらった。(聞き手=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

 ◇ ◇ ◇

――海外というものが身近に感じられる時代になりました。修学旅行で当たり前に行き、語学留学はもちろん、海外で競技に挑戦することも珍しくない世の中になりました。今はコロナ禍にありますが、そういう道を10年以上前から歩んできた羽根田選手はその変化をどう感じますか?

「とても良いと思います。今はこのご時世でなかなか難しい状況ですが、叶うようになれば、どんどん海外に行って視野を広げていくべきです。誰でも海外に行けるわけでもないし、行けるチャンスがある人は行った方がいい。特に、自分が挑戦したい分野が海外に本場がある場合は、絶対その本場に行ってみた方がいいと思っています。僕の場合はヨーロッパのスロバキアという国がカヌーが強かったから、本場に飛び込んだ。そこで学んだことは自分にとっても財産になったし、日本のカヌー界にとってもこれから財産になる。そうしたものを持ち帰られることが一番大きいと思います」

――羽根田選手がスロバキアに渡ったのは18歳の時。もともと、スロバキアの文化に理解や興味はあったのでしょうか?

「なかったです。なんとなくカヌーが強い国という印象。実際に行って住んで分かったことばかりです。短期で1か月だけだったら言葉も分からない。言葉が分からないから、なぜ彼らがカヌーが強いかも分からないし、スロバキアがどういう国かも分からない。理想は実際に住んで、そのコミュニティに入って言葉を理解し、彼らの文化を感じること。それが、なぜその国が本場であるかを理解する何よりの近道。数週間や数か月で得るものもないわけではないかもしれない。ただ、表面しか見られず、持ち帰れるものが限られてしまうことがある。チャンスがあるなら、住んでみてほしいです」

閉鎖的だったスロバキア人の心を開いたのは「言葉を喋ろうとすること」

――最初に最も苦労したことはどんなことでしたか?

「まずは言葉ですね。あとはスロバキア人独特の他人への警戒心。彼らは閉鎖的なところが凄くあるんです。アメリカみたいにウェルカムな雰囲気ではない。街自体がなんとなく薄暗く、以前は共産圏だったし、そんなに豊かな国でもない。気を抜くと、何かを盗まれたり危ない目に遭ったり、当時はそういうものがまだ残っている国でした。自然とあんまりに他人にはすぐ心を開かない。僕も行った当初はスロバキア語を話せなかったので」

――そういう中でカヌー選手として飛び込み、クラブチームに加入したわけですね。

「よく覚えてますよ。スロバキアに行った日、クラブハウスに行っても笑って歓迎する感じはない。真顔で、僕を舐め回すようにジロジロ見て。日本人が来ると聞いていたと思いますが、『よく来たね』のひと言も、握手もない。シャイという言い方もあるかもしれないですが。街を歩いても、明らかに汚い言葉で罵られることもある。豊かな日本で育った自分には知らない世界。そういう国や国民性もあるんだなと、不安にはなりました」

――警戒心が強いという国民性がありながら、どう溶け込んでいったのでしょうか。

「自分で彼らのコミュニティに飛び込んでいくしかないですから。自分からスロバキア語を覚えようとすること、喋ろうとすること。それが一番の突破口でした。英語を話すうちは、それなりには接してくれても、現地の言葉じゃないと伝わらないものがあり、どこかに壁ができる。しかも、誰もが英語を話せるわけじゃない。年配になると英語よりドイツ語が話せる人もいるくらいなので。そういう複雑な事情を持った歴史のある国でした。

 なので、スロバキア語を覚えよう、喋ろうとすることを始めたあたりから、彼らが徐々に心を開いてくれました。彼らも嬉しかったし、面白かったと思います。こんなアジア人がいきなりスロバキア語を話し出して。そこから一変して認めてくれて、一緒に練習も付き合ってくれたし、アドバイスもくれた。何より僕が彼らの言語で、彼らのアドバイスを理解できるようになった時が海外生活の中で一番のターニングポイントでした」

実践した語学習得法「最初の半年から1年は常にメモ帳をポケットに」

――海外挑戦でネックになるのが語学です。羽根田選手は21歳でスロバキアの最難関大学コメニウス大学に進学。前回のインタビューでは、現地人が聞いてもわからないような授業をスロバキア語で聞き、理解できない部分は教授室に出向いたり、同級生にランチを奢って教えてもらったり、自分の行動ひとつで困難を乗り越えました。そうした苦労もあり、今は海外留学を考える若い子に「言葉の壁が……」という悩みを受けると、「言葉の壁なんて、どこにもない。壁を作っているのは君だよ」と伝えているそうですが、もともとスロバキアに渡った直後は語学をどう習得したのですか?

「まずは挨拶を教えてもらいました。そして、すべてメモする。最初の半年から1年くらいは常にメモ帳をポケットに突っ込んで持ち歩きました。『こんにちは』『元気ですか?』『乾杯』まで、頻繁に使う挨拶を覚えていく。次は英語で言う『I want』など使いやすい文法を聞いたままのカタカナで書いて、そのまま口にして使ってみる。その次は彼らの会話から、よく聞こえてくる単語を拾ってみる。いろんなところで『ポトン、ポトン』と言っているから、何なのかを聞いたら『またあとで』『じゃあね』と。ああ、そういう意味なんだ、これは自分も使えると幅が広がっていきます」

――サッカーの長友佑都選手は下ネタを織り交ぜながら打ち解けたというエピソードも有名です。

「それは海外に行った日本人の宿命です(笑)。そういう言葉を教えられるもの。もう避けて通れない道なんです。でも、そういうことを言って笑われたりしながら、失敗談になって仲良くなる。そういう意味では必要なことかもしれません」

――スロバキア語で不自由しなくなったのはいつ頃からでしょうか。

「英語を使わなくていいようになったのは1年半くらいです。最初の半年や1年くらいは英語の方が伝わりやすいこともありましたが、1年半から2年くらい経つと、スロバキア語の方が話せるようになってくる。仮に通じなくてもスロバキア語で頑張れてしまう。スロバキア語で言い回しを変えるように努力したり、向こうがスロバキア語で僕にわかるように伝えてくれたり、そこからはもうメキメキと自分が喋れば喋るほど上達していきます」

(5月1日掲載の後編へ続く)

羽根田 卓也
リオ五輪カヌー銅メダリスト THE ANSWER スペシャリスト
1987年7月17日生まれ。愛知・豊田市出身。ミキハウス所属。元カヌー選手だった父の影響で9歳から競技を始める。杜若高(愛知)3年で日本選手権優勝。卒業後にカヌーの強豪スロバキアに単身渡り、スロバキア国立コメニウス大卒業、コメニウス大学院修了。21歳で出場した2008年北京五輪は予選14位、2012年ロンドン五輪は7位入賞、2016年リオ五輪で日本人初の銅メダル獲得。以降、「ハネタク」の愛称で広く知られる存在に。東京五輪は10位。2022年1月、パリ五輪を目指し、現役続行することを表明した。175センチ、70キロ。

(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)