4月から不妊治療が保険適用となります(写真:リプロダクションクリニック提供)

日本で最初に体外受精によって子どもが生まれたのは1983年。それから40年弱の間、不妊治療は患者が全額費用を負担する「自由診療」で行われてきたが、今年4月1日からついに「保険診療」となり、患者の費用負担は原則3割で済むようになる。

しかし、この不妊治療の保険適用を巡って、業界は大きく揺れている。

4日連続で展開する特集「不妊治療は“ひとごと”ですか?」1日目の第1回は、保険適用が不妊治療に与える影響をレポートする。

【1日目のそのほかの記事】
第2回:不妊治療のお金「保険適用」でどう変化?実例検証
第3回:データが示す「日本の不妊治療」知られざる実態
第4回:32歳女性「妊娠できるか検査」で見えた残酷な現実

業界最大手は「保険適用」見送り

「保険診療では最高の医療を提供できない。自由診療を継続し、ほかでは授かれなかった患者さんの最後の砦になる」――。不妊治療クリニック最大手の一角、リプロダクションクリニックのCEO・石川智基医師は、4月以降も同クリニックでは自由診療のみを行う理由をこう説明した。

では、なぜ保険診療では最高の医療を提供できないのか。「薬の量を増やしたり、注射の回数を増やしたりしないと、妊娠できない患者さんがいる。当院はこれまでそういう人たちにきめ細かな治療をしてきたが、保険診療になるとそれが認められない。われわれが提供する治療のクオリティを保つための決断だ。売り上げはいったん減ると思うが、それよりプライドの問題」と石川医師は話す。


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日本では混合診療(健康保険の範囲内の治療は健康保険で賄い、範囲外の治療については患者自身が費用を支払うこと)が認められていない(一部の先進医療に例外あり)。

また、保険診療では検査や治療ごとに価格が決められ、最新の医療機器を導入するなど保険診療の範囲を超えた治療を行っても価格に転嫁できない。そのため、治療の自由度を追求したい同クリニックでは、保険診療を見送った。

こうした治療内容への影響を、今回の保険適用にあたって多くの意見を政府に進言してきた慶應義塾大学名誉教授で産婦人科医の吉村泰典医師も懸念する。

「保険診療を望む患者さんには、この薬を使いたいけれど使えない、最先端の技術を使いたいけれど使えない、といった問題が生じる」と話す。その代表的な例が、着床前診断(PGT-A)だ。

「染色体の数的な異常があれば、流産する確率が高くなります。患者さんの負担を避けるためにも着床前診断を受けたい、受けさせたいと思っても、保険診療では無理。したい場合は、(保険が適用される治療を含めた)すべての治療を結局自費にしてもらうしかありません」(吉村医師)

不妊治療中の患者はこの状況をどう受け止めているのか。30代後半の会社員・太田友美さん(仮名)は、3年前から治療を始め、採卵を8回、移植を5回行った。6回目の移植を控える中で、保険適用への思いを聞いた。「自分の行っている治療が保険適用になるか、まだクリニックから説明はない。ただ、自分で調べた限りでは、保険適用されないだろう薬を使っている。4月以降も費用は変わらないと思っている。保険診療にして治療の幅を狭めたら、結果が出る気がしない」と冷静だ。

都心部のクリニックは売り上げ減の可能性

一方、今回の保険適用の制度設計に深く携わった杉山産婦人科の杉山力一(りきかず)理事長は「一般的な不妊治療であれば、保険診療内でいける」と話す。同クリニックは4月以降、保険診療と自由診療の患者の両方を受け入れることを決めている。

ただ、「保険適用で不妊治療を始める人が増えることで、クリニックが混むことは確実。さらに、保険診療と自由診療のどちらを受けるのか、事実婚の場合のパートナーの意思確認など、患者さんに聞く必要が新たに生まれる項目もあるので、問診は長くなる。結果的に、患者さんの時間的負担は前より大きくなるだろう。政府は仕事との両立を謳っているが、保険適用で逆行するのではないかと懸念している」(杉山医師)。

また、4月以降の不妊治療の診療報酬や薬価は、これまでの不妊治療の「相場」を基に決められたが、「概して都心部のクリニックにとっては売り上げ減、地方のクリニックにとっては売り上げ増になる施設が多いと推測される」(杉山医師)という。

そのため、売り上げの減る都心部のクリニックは売り上げ減を補填するために患者の「数」を追わざるをえなくなる。しかし、「経営が厳しくなるのに診察室は増やせない。自由診療前提で患者様が通いやすいクリニックの立地を選んでいて、高額な家賃を捻出するのに苦労しそうだ」(杉山医師)、「すでに週末は1日600人の患者を抱えている。さらに数を追わないといけないとなると、床面積だけでなくスタッフも増やす必要があり、さまざまなリスクも出てくる」(石川医師)といい、簡単なことではない。

さらに、治療内容へ別の影響を心配する声もある。

日本医科大学付属病院女性診療科・産科教授の明樂(あきら)重夫医師は「体外受精や顕微授精の費用面でのハードルが下がったことで、安易に体外受精を勧められるケースが増える可能性がある」と指摘する。

不妊は検査をしても原因がわからない場合も少なくない。そのため、どの治療を選択するかの線引きは曖昧だ。「患者自身が最初から体外受精を望むなら問題ないが、基本的にはタイミング法などより初期段階の不妊治療からスタートするべき。今回、人工授精も保険適用となったが、そうした体外受精以外の治療法も医師とよく検討してほしい」(明樂医師)という。

保険適用「患者の金銭負担減」以外のメリット

もちろん患者からすれば、不妊治療の保険適用を歓迎する声が圧倒的に多い。3年前まで治療を受け、2人の子どもを授かった女性(44歳)は、「不妊治療には総額500万円くらいつぎ込んだ。もし当時保険が使えて、その3割で済んでいたら、経済的にものすごく助かっていた。なので、お金の問題で治療が受けられなかった人にとっては、とてもいいんじゃないかなと思って報道を見ていた」と話す。また、前出の太田さんも、「社会で広く話題になることで、治療のハードルが下がったり、理解が進んだりする可能性があり、よいと思う」という。

社会保障に詳しい第一生命経済研究所の重原正明研究理事は、不妊治療の保険適用について、2つのメリットを挙げる。1つは患者への金銭的な支援につながるという点、そしてもう1つは「治療の標準化」が進むという点だ。治療の標準化とは何なのか。重原さんはこう解説する。

「不妊治療はこれまで、自費診療として各クリニックが独自の方針で治療を行っていました。そのため、治療を受けようとする人にとって、治療の実態がわかりにくい面があった。保険診療になれば治療法がある程度決まってくるため、(治療の内容や費用が)わかりやすくなるのではないでしょうか」

制度設計については賛否あるものの、4月の保険適用はゴールではなくスタート。ここからさらに議論を深めていくことが大事になる。その1つが、「先進医療」の扱いだ。先進医療は国が認めた特別な検査や治療のことで、対象となった薬や治療機器、治療法などは原則、自費となるが、保険診療と併用することが可能だ。

不妊治療でも先進医療がいくつか認められた(ただし、これらの先進医療を行うには施設基準があり、届け出が必要)。受精卵を観察・培養する際の、受精卵への負担を軽減する「タイムラプス」などの技術が該当する。また、着床前診断のようにスタート時点では先進医療として認められなかったものに関しても、安全性や有効性が臨床研究を経て認められれば、対象となる可能性がある。

ただ、「これまでは自由診療で各クリニックが最先端の技術をどんどん取り入れて、データが積み上がって、そのデータをみた別のクリニックにもその技術が普及して……という流れがあった。保険適用でこの流れはなくなるので、不妊治療の進化のスピードは遅くなる」(リプロダクションクリニック石川医師)とみられる。

保険適用の「恩恵」誰のもの

取材を通して多く聞かれたのは、「今回の保険適用は一般的な治療で妊娠できる可能性が高い、若い人が恩恵を授かれる制度」であるということ。もちろん政府の方針にそのようなことは書かれていないが、年齢制限や診療報酬の設定、先進医療の扱いなどからそう感じる人は少なくない。

そのため、保険適用の対象外となる43歳以上の女性、保険適用の範囲外の治療を受けたい人はその恩恵に授かれないばかりか、クリニックの混雑や技術進歩のスピードの鈍化など、不利益を被りかねない。前出の太田さんもそのひとりだ。

「私のように治療を続けていて、それでも子どもを授からないような人、オーダーメードの治療が必要な人へのサポートがちょっと忘れられているというか、そこに目が向けられていないところが残念です。そこは私たちが声を上げることで変えていけたら」――。

大きな転換点を迎えた不妊治療。より多くの人にとって納得感のある制度作りが、引き続き求められている。

(1日目第2回は不妊治療のお金「保険適用」でどう変化?実例検証)

(鈴木 理香子 : フリーライター)