昨年の女性史月間特集では、<ウーマンズ・デイ>の記事から、アメリカの女性史を紹介しましたが、今年は「日本の女性史」について振り返りたいと思います。

残念ながら日本は「ジェンダー平等先進国」とは言えないのが現状。日本を形作ってきた慣習、そして歩んできた道のりは、女性だけでなくLGBTQ+コミュニティなど、すべてのジェンダーにまつわる自由や権利の足かせとなってきました。

ジェンダー平等を考えるきっかけになることを願いつつ、日本の女性史の歩みを考えるうえで重要な出来事、そしてその時々で声をあげた人・活躍した人を時系列に沿って紹介します。※昭和までは「婦人解放」「婦人参政権」などの言葉が一般的に使われていましたが、本稿では一部を除き「婦人」に当たる言葉を「女性」と記述しています。

先史時代:男女格差の黎明期

弥生時代(紀元前4、5世紀〜紀元後3世紀ごろまで)から仕事の分業の面では、男女の違いはあったと考えられています。しかし古墳時代前期(3世紀〜4世紀)までは、男女が共に政治に参加し、性別の違いなく首長が存在していたことからも、権利やヒエラルキーの面で男女差はあまりなかったと考えられます。

この状況に変化が見られるようになったのは、5世紀ごろ。倭の五王の時代には女性首長は減少していき、また軍事化が進んだことで男性優位・父系化が進んでいきました。

飛鳥時代・奈良時代

唐から伝来した儒教や仏教、そして律令には家父長制や男尊女卑の要素が含まれていました。しかし大陸と比較すると、まだ男女の性差は緩やかだったようです。

しかしこの時代に戸籍制度(670年)が始まり、男性が戸主になったことで女性の存在が見えづらくなりました。

平安時代〜安土桃山時代

平安時代になると、女性の政治力は低下し、9〜10世紀にかけて一夫多妻制が成立します。また女性が「不浄である」という概念が定着し、鎌倉仏教では「女性は不浄な生き物であることを受け入れ、息子の功徳によって極楽に行ける」と説きました。既婚女性はすべての婚外性行為を処罰されたものの、既婚男性は既婚女性を対象としない限り処罰されないなど、明らかな男女差が見られるようになります。

江戸時代

男性優先主義は定着し、例外を除き女性が家督を相続することもできなくなりました。江戸幕府が編纂した裁判判例集「公事方御定書」(1742年完成)には、密通により妻の貞操が侵された場合、夫は妻および相手男性を殺害しても「無罪」と書かれています。

江戸幕府は人身売買を禁止したものの、遊郭は公認、遊女(身売りされている)は黙認されていました。

【同時期の出来事】■1853年、ペリー来航■1868年(明治元年)、江戸を東京と改称し、年号が慶応から明治になる。

明治維新:欧米の文化や考えが流入。「女性解放運動」が始まった時代

長く鎖国し、日本独自の男女の役割や格差が出来上がっていましたが、明治時代になると欧米の文化や考えが流入しました。

しかし人々の考え方や慣習が一気に変化することはなく、また法制化により逆に女性の権利を縛る方向に動いたものもあります。日本の女性解放運動は、明治時代に起こった様々な動きから始まったと言って良いでしょう。

日本初の女子留学生は、津田梅子など5名

1871年(明治4年)、各国と締結した不平等条約の改正を目指し、明治政府が岩倉使節団を欧米に派遣しました。この使節団には42名の留学生が随行し、内5名が15歳以下の女子でした。

最年少は後に女子英學塾(津田塾大学の前身)創立者となる津田梅子(8歳)。12歳だった山川捨松は、後に大臣を歴任する大山巌の妻となり、日本の看護師教育・女子教育に貢献しました。

1872年(明治5年)、「娼妓解放令」布告。しかし人身売買はなくならなかった

「娼妓解放令」とは、同年に起こった「マリア・ルーズ号事件」を解決するため、太政官達として布告された人身売買禁止令です。しかし実際には娼妓解放には至らず、翌年に東京布令などで「貸座敷制度」が発足したことで禁止令は形骸化しました。その後民法施行(1898年)でこの布告は廃止されてしまったものの、廃娼運動のきっかけとなりました。

日本の女子教育はなかなか発展しなかった

女子留学生をアメリカに送った翌年の1872年(明治5年)、明治政府は学制を発布して男女平等の義務教育を目指しました。同年、日本初の官立女学校である東京女学校、1890年(明治23年)に東京女子師範学校が設立され、「性差のない普通教育システムが整えられるかも…!」と思えた時期がありました。

しかし1885年(明治18年)に伊藤博文内閣の文部大臣・森有礼が「良妻賢母教育こそ国是とすべき」と声明を出しており、次第に性差を反映した教育を進める動きが優勢になります。その後、第二次世界大戦終結まで一貫して、日本政府は「女子教育=良妻賢母主義」を推し進めました。

自由民権運動の高まり、女性運動家が続々誕生

1874年(明治7年)に板垣退助らが民撰議院設立建白書を左院に提出したのをきっかけに、全国各地で自由と権利を求める運動「自由民権運動」が始まりました。この動きの中で、女性参政権や女性解放、男女平等の社会を求める女性運動家(楠瀬喜多、岸田俊子、福田英子など)が誕生しました。


楠瀬喜多(くすのせ きた、1836〜1920年):日本初の女性参政権要求者、自由民権運動家

▲国立歴史民俗博物館企画展示「性差(ジェンダー)の日本史」Twitterアカウントより。高知市立自由民権記念館・企画展「楠瀬喜多没後100年『民権ばあさんと女性参政権』」のポスター。当時の府県規則の投票資格は「20歳以上の男子で、区内に本籍があり、地租5円以上を納税している者」でしたが、全国的な統一基準は定まっていない状況。楠瀬は夫と死別したため戸主として納税していたものの、1878年(明治11年)の高知県区会議員選挙で女性であることを理由に投票することができなかったのです。

自由民権運動に共鳴していた彼女は納税を滞納する方法で抗議し、高知県庁に抗議文を、内務省に意見書を提出。1880年(明治13年)9月20日、日本で初めて女性参政権が認められました。

日本政府は4年後の1884年(明治17年)「区町村会法」を改訂したため再び参政権を失いましたが、彼女は女性解放・参政権を訴え続け「民権ばあさん」として知られるようになりました。

大日本帝国憲法により、女性の地位・権利は低下した

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布され、翌年から施行されました。この憲法は残念ながら男性優位主義に基づいたものあり、女性を「家の中の存在」と位置付けたものでした。

この憲法の施行により、法律によって女性解放の動きは抑制され、女性の地位と権利が著しく低下。女性たちは男尊女卑の慣習だけでなく、法改正を目指して戦うことを余儀なくされます。


「家制度」の成立

「家制度」とは明治憲法下の民法で規定された家父長制による家族制度です。男子・年長者優先で決められる「戸主」に家の支配・統率権があり、女性は原則として家督相続権もありません(夫と死別し、子供がいない場合のみ相続できる)。

家父長制は日本に長く定着していましたが、明治時代に法律として制度化してしまったことは、その後女性たちを苦しめることに繋がりました。

また「姦通罪」(民法)の対象は「夫のいる女性と密通相手の男性だけ」であり、妻ある男性が独身女性と姦通しても罪にならないなど、さまざまな点において男子優先・性別格差がはっきりと見られます。


制限選挙

明治憲法下の選挙法によると、選挙権は「25歳以上の男子で1年以上選挙区となる府県内に本籍を置き、直接国税を15円以上納めた者」、被選挙権は「30歳以上の男子で直接国税を15円以上納めた者」に与えられ、制限選挙であったことが分かります。

男性は条件がクリアできれば参政権を得ましたが、女性は選挙の権利はまったくありませんでした。

女性の政治参加を困難にする法律の制定が進む

明治憲法の発布後、女性の政治活動を規制する具体的な法律の成立も進みました。


1890年(明治23年)、「集会及政社法」制定

女性の政治活動禁止を明文化した最初の法律です。政治集会に参加できるのは選挙権を持つ成人男子のみとし、「政治集会に参加できない者」として「女子」と明記されていました(第四条)。

また女性は政治結社にも参加できないと定められました(第二五条)。


1900年(明治33年)、「治安警察法」制定

自由民権運動および労働・農民運動を規制するため、集会、デモ、結社を規制する法律です。この点において男女差はありませんが、「五条」で女性の政治結社加入と政談集会の参加を禁止しました。

【同時期の出来事】■1904年(明治37年)2月8日、日露戦争開戦(〜1905年)

立ち上がる女性たち。平塚らいてう、日本初の女性雑誌『青鞜』発刊

女性解放と真逆の政策を進める政府に対し、女性解放運動界のスターが登場します。それが平塚らいてうです。

1911年(明治44年)、平塚は「新しい女たち」が自由に思想・主義主張を執筆する雑誌『青鞜』を創刊しました。創刊メンバーには与謝野晶子、長谷川時雨、野上弥生子、田村俊子など、歴史に名を残した女性たちが多く集結しています。創刊当初は文芸誌でしたが、後に伊藤野枝が編集長に就任すると女性運動誌の色が濃くなりました。

女性が議論をする場ができたこともあり、女性論客が続々と登場しました。1918〜1919年(大正7〜8年)に起こった「母性保護論争」は、与謝野晶子と平塚らいてうの議論から始まり、後に山川菊栄や山田わかが参戦。

社会における女性と母の役割や地位について世に問いかけ、激しく議論される機会となりました。

【同時期の出来事】■1910年代(大正初期)〜1920年代(大正10年代)、民主主義や政党政治を求める大衆運動「大正デモクラシー」が盛り上がる。

日本初の女性団体「新婦人協会」設立、治安警察法の一部改正に成功

女性の社会的・政治的自由と権利を求め、1920年(大正9年)3月、平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが「新婦人協会」を設立。具体的には治安警察法(五条)の撤廃、女性参政権、花柳病(性感染症)男子の結婚制限を求めて請願活動を行い、全盛期には会員数が400人を越えました。

運動の結果、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2項が修正され、女性の政談演説会の参加は認められるようになりました。勝ち取った権利は一部ではあったものの、その後の女性運動に大きな爪痕を残しました。

【同時期の出来事】 ※▲は海外での事例■1914年(大正3年)、第一次大戦開戦(1918年11月11日休戦協定発効)▲1920年(大正9年)、アメリカ全土で男女平等の普通選挙が実現。

男性の普通選挙は実現したものの、女性に選挙権が与えられたのはその20年後

1925年(大正14年)3月、「普通選挙法」成立。25才以上のすべての男性が選挙権が与えられました。

大正デモクラシーの気運を反映しての成立でしたが、女性には選挙権は与えられず、また政府は同時に「治安維持法」も成立させて自由な発言や行動へ規制にも乗り出しました。

「治安維持法」とは?

社会運動や国体の変革と私有財産制度を否認する思想・結社活動を強く取り締まることを目的とした、弾圧法。

【同時期の出来事】■1927年(昭和2年)、保井コノが日本初の女性理学博士となる。▲1928年(昭和3年)、イギリスで男女平等の普通選挙が実現。▲1929年(昭和4年)、世界恐慌はじまる。■1930年(昭和5年)、昭和恐慌がはじまり、日本経済が危機的状況に。■1931年(昭和6年)9月、満州事変■1937年(昭和12年)7月、日中戦争・開戦

女性参政権への長い道のり

「新婦人協会」の女性参政権要求運動を受け継ぎ、1924年(大正13年)、市川房枝、久布白落実を中心に「婦人参政権獲得期成同盟会」が設立。1925年(大正14年)に「婦選獲得同盟」と改称し、その後15年に渡り女性参政権獲得運動の中心的役割を果たしました。

何度も国会請願を繰り返した結果、1930年(昭和5年)、婦人公民権法案がはじめて衆議院で可決。翌年貴族院で否決したものの女性参政権の気運が高まりました。

しかしこうした流れに反して婦人参政権は実現せず、1933年(昭和8年)以降は議会に上程されることもなくなりました。

日中戦争が勃発し、日本中で戦意高揚の気運が高まる中、市川房枝は決断を迫られます。欧米において、第一次大戦への女性の貢献が認められ、女性参政権実現へつながった例を知っていたからです。市川は国策に協力することで運動を繋ごうとし、翼賛体制に加担していきます。

日本初の女性弁護士が誕生したのは1940年

1933年(昭和8年)、弁護士法改正され、「婦人弁護士制度」が制定。女性が弁護士になることが可能になりました。

1938年(昭和13年)、中田正子、久米愛、三淵嘉子の3人が高等文官司法科試験に合格。1940年(昭和15年)に3人揃って弁護士試補試験に合格し、正式に弁護士となりました。

【同時期の出来事】■1939年(昭和14年)、第二次世界大戦開戦■1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争開戦■1945年(昭和20年)8月15日、日本がポツダム宣言を受諾。太平洋戦争(第二次世界大戦)終戦

終戦直後の動き。女性参政権がやっと実現する

戦争が終わり、やっと女性解放に向けた動きが始まりました。1945年(昭和20年)12月17日、衆議院議員選挙法改正により婦人参政権(男女普通選挙)が実現!

女性が投票&立候補できる初選挙は、翌1946年(昭和21年)4月10日に行われた戦後初の帝国議会(衆議院)選挙でした。この選挙で39名の女性議員が誕生しました。

【同時期の出来事】■1946年(昭和21年)、石渡満子が初の女性裁判官に就任■1948年(昭和23年)、優生保護法による中絶の合法化■1956年(昭和31年)、売春防止法成立

中山マサ衆議院議員が厚生大臣に就任。日本初の女性大臣に

アメリカ人の父、日本人の母を持つ中山マサは、長崎県で誕生。1947年(昭和22年)の衆議院選挙で初当選し、1960年(昭和35年)に厚生大臣として入閣。在任期間は5カ月と短かったものの、母子家庭への児童扶助手当支給を実現しました。

【同時期の出来事】■1961年(昭和36年)11月、アンネ社が日本初の生理用ナプキン「アンネナプキン」を発売。▲1967年(昭和42年)、 国連で「女性に対する差別撤廃宣言」採択される。■1969年(昭和44年)、女子の高校進学率が79.5%に。はじめて男子を上回る。

「ウーマンリブ」旋風が日本にも上陸

「ウーマンリブ」とは、英語「Women's Lib」を基にした和製英語です。「Lib(リブ)」は「liberation(解放)」の短縮語であり、1960年代後半からアメリカを中心にブームとなった女性解放運動を指します。男女が平等・対等に生き、職業選択ができる社会を目指すムーブメントです。

日本では安保闘争を背景として発展し、1970年(昭和45年)11月14日、東京・渋谷で日本初のウーマンリブの大会が開催されました。


田中美津(1943年〜):女性運動家、鍼灸師

1970年代初頭(昭和40年代後半)、日本のウーマンリブ運動をけん引した女性運動家。ベトナム戦争反対運動、学生運動に関わった後、女性解放に目覚めました。「ぐるーぷ闘うおんな」のリーダーとしてウーマンリブ運動の拠点「リブ新宿センター」を設立。1982年(昭和57年)以降は鍼灸師としても活動しています。

▲2019年(令和元年)10月、彼女を撮影したドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』が公開されました。

【同時期の出来事】■1974年(昭和49年)、和光大学が日本で初めての女性学講座「女性社会学特講」を開講。その後女性学が盛んになる。▲1981年(昭和56年)、国連・女子差別撤廃条約が発効。

女子差別撤廃条約を批准するため、国内法の整備が進んだ

国連の女子差別撤廃条約は、締約国に対し「女子に対するあらゆる差別を撤廃する政策を追求することに合意すること」「そのためのあらゆる適当な手段を遅滞なくとること」を義務づけました。

日本はこの条約に批准するため、男女平等を旨とする法整備を進みました。

【同時期の出来事】■1981年(昭和56年)、家庭科教育の共修へ向けた見直しが始まる。■1984年(昭和59年)、国籍法改正:従来の父系血統優先主義の国籍法を改正■1985年(昭和60年)、男女雇用機会均等法制定、翌年施行(下記項目参照)

男女雇用機会均等法の施行、「キャリアウーマン」へ道が開ける

1986年(昭和61年)に施行された男女雇用機会均等法は、募集、採用、配属、昇進、研修、福利厚生、解雇、定年など、就職・就業にまつわるすべてのことについて、雇用側が性差別を行わないことを義務付けた法律です。この法律により女性の総合職採用も進み、「キャリアウーマン」という言葉が定着しました。2006年(平成18年)に行われた2度目の法改正(翌年施行)では、間接差別、妊娠・出産・産休取得などを理由とする不利益取扱い、セクハラの禁止なども盛り込まれました。

日本憲政史上、初の女性党首誕生。おたかさんブーム「山が動いた」

1986年(昭和61年)、土井たか子が日本社会党(略称「社会党」、1996年に「日本社民党」に改称)の委員長に就任。日本憲政史上、初の女性党首が誕生しました。真っすぐで親しみやすい人柄が愛され「おたかさん」の愛称で呼ばれました。

消費税導入とリクルート事件で与党・自民党が批判される中、1989年(平成元年)に行われた参議院選挙で土井人気が沸騰。社会党の大躍進と女性議員の大幅増加に貢献し、この現象は「マドンナ旋風」「おたかさんブーム」と呼ばれました。

この時土井が発した「山が動いた」は名言として流行。1993年(平成5年)には、衆議院議長に就任。衆参両院を通じ、日本初の女性議長になりました。

1997年(平成9年)、共働き世帯が専業主婦世帯を上回る

1980年(昭和55年)以降、夫婦共に雇用者の共働き世帯は年々増加していましたが、1997年(平成9年)以降、共働き世帯数が夫のみが雇用者の世帯数を上回りました。

【同時期の出来事】■2001年(平成13年)4月、配偶者暴力防止法(DV防止法)成立。■2001年(平成13年)12月1日、皇太子(当時)夫妻に女児(愛子内親王)が誕生。女性天皇をめぐる議論が本格的に始まる。■2003年(平成15年)、性同一性障害者特例法成立。条件を満たせば戸籍上の性別変更が可能になる。

男女賃金格差は埋まらないまま…

男女平等を実現するため法律は整備されつつあり、女性活躍の機会は増加している「はず」。しかし現在に至るまで、賃金格差は埋まらないままです。厚生労働省が2010年(平成22年)に『変化する賃金・雇用制度の下における男女間賃金格差に関する研究会報告書』を公表。男女雇用機会均等法施行から23年たった2009年(平成 21 年)、男女間賃金格差は女性が男性の 69.8%(正社員に限ると女性が男性の 72.6%)の水準であり、女性の賃金カーブは男性に比べ、年齢による上昇幅が小さいことは分かりました。

また『令和2年(2020年)賃金構造基本統計調査』によると、一般労働者の賃金格差は女性が男性の74.3%。男女雇用機会均等法から35年たっても、依然として男女の賃金格差が埋まっていないことが分かります。

【同時期の出来事】■2015年(平成27年)12月16日、最高裁は「女性の再婚禁止100日超は違憲」と判決。民法が改正され、再婚禁止期間が6カ月から100日に短縮。

「#MeToo 運動」、日本では拡大が遅れた

2017年10月、ハリウッドの映画プロデューサー 映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数十年に及ぶセクシャルハラスメントが明るみとなり、「#MeToo 運動(性被害の体験をハッシュタグと共に綴るSNS上の運動)」が世界的に広がりを見せました。

日本では当初なかなか広がらなかったものの、2018年(平成30年)4月、セクハラ疑惑で福田純一財務事務次官が辞任したことを契機にやっと運動に火がつきはじめました。

元TBSニューヨーク支局長・山口敬之氏によるレイプ被害を受けた伊藤詩織さん(2022年、東京高裁での民事訴訟に勝訴。しかし伊藤さんの公表内容の一部は「不法」認定)、写真家・荒木経惟氏のミューズだったKaoRiさんが「経済的・芸術的に搾取されていた」とする告白が改めて注目されました。

ハイヒールを強制しないで。「#KuToo運動」に共感が集まる

「#MeToo 運動」が広がりを見せたころ、SNS上でももう一つの運動が盛り上がりました。それが「#KuToo運動」。「#KuToo」は「苦痛」と「靴」を意味し、「#MeToo」をもじったハッシュタグです。

俳優の石川優実さんが、「職場で女性がパンプスやハイヒールを履くことを強制する風習をなくしたい」との思いを2019年(平成31年)1月24日Twitterに綴ったことをきっかけで始まりました。

多くの女性たちの共感を呼び、同年6月には約2万筆のインターネット署名と要望書を厚生労働省に提出しました。

ジェンダーギャップ指数、主要7カ国(G7)で最低

毎年世界経済フォーラム(WEF)が発表している「グローバル・ジェンダー・ギャップ指数」(調査は前年)。2020年(令和2年)版は調査対象153カ国の内、日本は121位とワースト順位を更新しました。ちなみに2021年(令和3年)版は156カ国中120位。G7中最下位を驀進中なのはもちろんのこと、周辺アジア諸国よりも低い順位です。

平成初期から検討が続いているのに…なかなか実現しない「選択的夫婦別姓」

昨年(2021年(令和3年)10月)の衆議院選挙で、「選択的夫婦別姓」は争点の一つでした。実は世界広しと言えど、夫婦同姓制(同姓の強制)を採用している国は日本だけなのです。

1991年(平成3年)1月29日、法制審議会民法部会身分法小委員会で正式に「夫婦別姓」の検討に入ったにもかかわらず、いまだに選択的夫婦別姓の法制化は実現していません。

日本は民法第750条、民法第739条第1項、戸籍法第74条によって、夫婦は同じ姓を名乗らなくてはならない「夫婦同姓」を採用しています。しかし女性の社会進出などに伴い、婚姻前から使用している姓を婚姻後も「本名(戸籍名)」として使用したいと願う人が増えました。

「通称」として婚姻前の姓を使用できる場合もありますが、さまざまな場面で「戸籍上の名前」を名乗る・記載することを求められるため通称使用には限界があります。たくさんの人が“選択的に”夫婦別姓が可能になる法改正を望み、声をあげているのです。

これまで何度も法務省および超党派議員から選択的夫婦別姓を実現するための民法改正法案が提出され、地方議会からも法改正求める意見書を可決する動きが継続しています。しかし一部の反対派国会議員により国会提出に至らず、立法化しない現状が続いています。

おわりに:声を上げつづけていこう

社会が変わるには時間がかかります。女性をとりまく環境は、戦後変化したこともたくさんあります。しかし日本における女性解放の歩みは、決して早いものではありません。ジェンダー格差は女性だけの問題ではありません。すべての人に関わる人権上の問題です。誰もが平等に生きられる社会をめざし、皆で声をあげていきませんか?

【参考文献】『新書版 性差の日本史(インターナショナル新書)』(国立歴史民俗博物館・監修、「性差の日本史」展示プロジェクト・著)『歴史を読み替えるジェンダーから見た日本史』大月書店、久留島典子・長野ひろ子・長志珠絵・編)『時代を生きた女たち-新・日本女性通史-(朝日選書)』(朝日新聞出版、総合女性史研究会・編)『明日は生きてないかもしれない…という自由―私、76歳 こだわりも諦めも力にして、生きてきた。』(インパクト出版会、田中美津・著)『日本女性史』(吉川弘文館、脇田晴子・林玲子・永原和子・編)<しんぶん赤旗> 2003年1月29日(水)<朝日新聞Digital><毎日新聞デジタル><比較ジェンダー史研究会>サイト<厚生労働省>サイト<文部科学省>サイト <法務省>サイト<ポリタスTV> 2020年11月19日配信<国立女性教育会館女性・女性デジタルアーカイブシステム><東京大学男女共同参画室>サイト<国会図書館・国際子ども図書館>サイト<国立小文書館>サイト<男女共同参画局>サイト<コトバンク>他、多数。