ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

マリア・カラス(1923〜1977年)はクラシック音楽を知ったかぶりするうえで、「知っておくべき人物リスト」の最初の方に来るソプラノ歌手。

オペラ『ノルマ』『トスカ』『椿姫』『ルチア』などの演目を得意とし、「20世紀最高のオペラ歌手」「伝説の歌姫」など、彼女を褒めたたえる形容には枚挙にいとまがありません。

クラシック音楽にまったく無縁な人でさえ「マリア・カラスの“名前だけは知っている”」という人は多いはず。しかし、一体なぜこんなにも彼女が有名なのか? ――それは本業での功績以上に、ある世界的ゴシップの主人公だったからなのです。

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▲1964年、ロンドンでの『トスカ』の公演より。

誕生から成功まで:マリア・カラスの基礎知識

マリア・カラスは1923年12月2日、ギリシャ移民である父・ジョージと母・エヴァンゲリアの二女としてアメリカ・ニューヨークで誕生。マリアの子ども時代は、幸せなものではありませんでした。両親の夫婦仲は悪く、「息子が欲しかった」母からは疎まれて育ったからです。

エヴァンゲリアは「毒母」として有名で、マリアを奴隷のように扱ったと言われています。親からの愛情をまったく感じずに育った経験は、マリアの生涯に大きな影を投げかけることになります。

1937年、離婚を決意した母は、姉ジャッキーとマリアを連れてギリシャに帰国。幼少期からマリアの音楽の才能を見抜いていた母は、マリアをアテネ音楽院に入学させます。

スペイン人のソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴからテクニックを叩き込まれたマリアは、卒業後、ギリシャ国内で頭角を現しました。

1949年に訪れた「ブレイク」のきっかけ

第二次世界大戦直後にアメリカに帰国し、その後はイタリアで活動していたマリアですが、彼女が世界的にブレイクするきっかけは1949年に訪れました。

1949年1月、マリアはヴェネチア・フェニーチェ座でオペラ『ワルキューレ』のブリュンヒルデ役を演じることになっていました。しかし同時期に、同じ劇場で上映予定だったオペラ『清教徒』のエルヴェーラ役の歌手が急病で倒れてしまったのです。

そのとき、マリアを発掘したことで知られる指揮者のトゥリオ・セラフィンが、「マリア、君がエルヴェーラ役もやりなさい」と推薦したのだから…さあ大変です。

『清教徒』の公演はたった6日後。『ワルキューレ』のブリュンヒルデ役と『清教徒』のエルヴェーラ役は、役柄も歌唱法もまったく異なります。

しかし、マリアはやってのけました。

エルヴェーラ役を短期間で体得し、『ワルキューレ』の舞台に立った3日後に『清教徒』の舞台に立ち、その後また、『ワルキューレ』でブリュンヒルデ役を務めるという離れ業を見事成功させたのです。

この“事件”でマリアは国際的な名声を得ることに成功。初のレコードデビューのチャンスもつかみました。

たしかな技術に裏打ちされた圧倒的な歌唱力、役柄の情感たっぷりに歌い上げる演技力、そして豊かな心理描写はオペラファンに強く支持され、その後、ミラノ・スカラ座、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場などの世界屈指のオペラの殿堂での公演も成功。世界最高のソプラノ歌手としての地位を掴みました。

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▲“事件”の直後、1949年2月『パルジファル』のクンドリー役を演じるマリア。

大富豪との恋愛と、まさかの略奪劇

クラシック界の「スター」となったマリアですが、音楽界隈に限らず「世界中の“誰もが知る”」レベルの有名人となったのは、1969年に起こったある恋愛ゴシップによるものです。少し遡って、マリアの恋愛遍歴をたどってみましょう。

メレギーニの「トロフィーワイフ」だったマリア

1949年4月、当時25歳だったマリアは、26歳年上の裕福なビジネスマン、ジョバンニ・バティスタ・メネギーニ(1896〜1981年、イタリア人)と結婚しました。

二人が出会ったのは1947年。当時メレギーニにとってマリアは単なる「若い遊び相手」であり、結婚する気などさらさらありませんでした。

しかし、お金持ちだった彼がマリアに美しい衣装や豪華な住まいを与えると、彼女はメレギーニに「愛されている」と感じ、50歳過ぎの彼に夢中になります。

その後マリアは超売れっ子に。「稼ぐ」女性になったマリアのことを、「自分の“トロフィーワイフ”にふさわしい」と思ったメレギーニは、マリアとの結婚を決意します。結婚後、メレギーニはマリアのマネージャー役も務め、彼女と彼女の生み出すお金をコントロールするようになりました。

※トロフィーワイフとは、地位や財力など社会的に成功した男性が、自身のステータス誇示のために結婚した年下の美しい女性を指す言葉。競技に勝利してもらう「トロフィー」に例えられ、こう呼ばれている。

「対等に話せる」大人の男性・オナシス

マリアの契約金を吊り上げるメレギーニの手腕は、マリアの評判に傷をつけました。代理人を名乗る男から訴訟を起こされたり、舞台をドタキャンしたりとトラブルも多く、世間は彼女に「わがままな女王」のレッテルを貼りました。

1959年、結婚から10年が経ったマリアとメレギーニは、実業家のアリストテレス・オナシスから豪華ヨットでのクルージングに招待されました。

このクルージングがマリアの運命を変えました。オナシスと恋に落ちたからです。その後の展開は早く、ほどなくしてマリアはメネギーニの元を去り、オナシスとの交際を始めます。

当時オナシスも妻がいたので(1960年に離婚)、「ダブル不倫」で始まった二人の関係。マリア36歳、生涯にわたる「本気の恋」の始まりでした。

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▲オナシスと交際を始めたばかり、1960年に撮影されたマリア。輝くほど美しい…。肩と胸にぐるりと布を巻き付けるスタイルの衣装を好んで着ていました。

9年後、ジャッキーに「寝取られる」とは…

カリスマ性のある富豪オナシスと、世紀の歌姫の恋愛。オナシスは大金持ちですから、マリアのお金を目当てにしていないことは明らかです。

「対等に向き合える相手」−−そうマリアは思ったはずです。しかし二人の関係は「対等」ではありませんでした。プレイボーイのオナシスは、「公式彼女(=マリア)」の裏で、たくさんの女性に手を出していたのです。

その一方、マリアは目立った音楽活動をしなくなりました。歌手としての最盛期を過ぎてしまったのを自覚していたこともあるものの、彼女は「愛の生活」にすべてを捧げ、「オナシスと結婚したい」と強く願っていたのです。

しかし、マリアの願いは驚くような方法で打ち砕かれます。1968年、突然オナシスが結婚したからです。しかも相手は、1963年に暗殺されたケネディ元大統領夫人のジャクリーン・ケネディ。

この電撃結婚のニュースを、マリアは報道で知りました。そのショックたるや…想像に難くありません。

ジャッキー(ジャクリーンの愛称)はつい5年前に世界中から同情を集めまくったばかりの、美しく、マリアより6歳若い女性。そしてマリアよりもず〜っとず〜っと有名な女性です。

オナシスにとってジャッキーは、「これ以上ないトロフィーワイフ」だったでしょう。またジャッキーは、ケネディ亡き後、自分と子どもたちの経済面、そして暗殺やテロなどの安全面をサポートしてくれる財力と権力を持つ庇護者を必死に求めていました。

この電撃婚により、マリアは世界津々浦々、ごくごく一般人の間でも「ジャッキーに恋人を略奪された女性」として知られることになりました。

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しかも話はここで終わりません。「略奪婚」には続きがありました。オナシスとジャッキーの結婚は上手くいかず、わずか5カ月でオナシスはマリアの元に舞戻ったからです。

オナシスを巡る「正妻・ジャッキー VS 愛人・マリア」の関係を、世間が面白がらないわけはありません。ジャッキーとオナシスは離婚しなかったため、この三角関係はオナシスが死去する1975年まで続きました。

毒親の呪いに苦しみ続けた生涯

ジャッキーとの「寝耳に水」すぎる結婚は、マリアにとって痛い裏切りでしかありません。でもマリアは復縁を迫るオナシスを許し、受け入れ、その後も関係を続けました。

このようにマリアが刹那的に愛を求め、ゲス男を受け入れてしまう理由について、「毒親の影響」が数多く指摘されています。

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▲マリアとオナシス(1962年に撮影)。

母・エヴァンゲリアは、マリアのことを子ども時代から「醜い」「太っている」と罵り、姉ばかりを贔屓していました。マリアは過酷な家庭内いじめに耐えて成長したのです。

また、「売春まがい」のことまでさせていたという恐ろしいエピソードも。マリアが十代前半だったころ、ギリシャはナチスドイツとイタリアに占領されていました。食糧難の時代、占領軍の兵士を誘惑して食べ物をもらってくるよう、母はマリアに命令していたのです。

マリアが有名になると、母はマリアに経済的支援を求めました。少しでもお金が足りなくなると、記者たちに娘の悪口を言い、世間の悪者になるよう追い込んだのです。

マリアは「無償の愛」を知らずに大人になりました。そのことは「いつも愛を渇え」「愛情を見せてくれる人を受け入れ」「何があっても許してしまう」マリアの恋愛傾向の説明になっていると言われています。

▲マリアの人生を映像と本人が書いた言葉で構成したドキュメンタリー映画『私は、マリア・カラス』の予告編。この作品を見ると、マリアの心の旅路が時系列でわかるのでおすすめです。

しかし、彼女が“弱い人”だったかというと、決してそうではありません。音楽の圧倒的実力に加え、弱肉強食、駆け引きアリのエンタメ界でトップに君臨するだけのパワーがあったのですから。

でも孔雀の衣の奥の奥にある「繊細な部分」を包み込んでくれる人が欲しかった。「本当の家族」が欲しかったのです。「それがオナシスじゃなくても良かったのに」と傍観者としては言いたくなるものの、マリアはどうしようもなくオナシスを愛していました。

オナシスが1975年に死去すると、マリアは打ちひしがれ、その後1度もステージに立つことなく、後を追うように2年後の1977年、心臓発作で亡くなりました。享年53歳。

マリアの死後、母&姉と元夫のメレギーニが骨肉の遺産争いを繰り広げたのも有名な話です。1950年以降、母と会うことは一度もなかったにも関わらず、マリアは生涯に渡り経済的援助を続けました。

そして遺書にも母と姉へ援助について明記されており、マリアは毒家族たちを最後まで支え続けたのです。

彼女の抱えていた苦しみが「音楽の肥やし」になったと言えばそうかもしれません。マリアが歌うアリアを聴くたびに、感動だけでなく、胸がキューンと締め付けられます。

▲得意な曲として知られる、アリア『清らかな女神よ』(オペラ『ノルマ』より)。

でもそんな風に感傷的な気持ちで彼女の歌を聞いていると、天国のマリアがぶっといアイラインを引いた目でキッと睨みつけ、「アンタ、先入観なしに、ちゃんとアタクシの歌を聞きなさいよ」と言われているような気持ちにもなるのです。

▲胸を張り、ダイナミックな笑顔で『カルメン』を歌うマリア。この貫禄たっぷりのマリアが大好きです。

参考文献


『マリア・カラス 聖なる怪物』(白水社)ステリオス・ガラトプロース 高橋早苗・訳
『真実のマリア・カラス』(フリースペース、増補版)レンツォ・アッレーグリ 小瀬村幸子・訳
映画『私は、マリア・カラス』トム・ヴォルフ監督
<The New York Times>『Maria Callas, 53, is Dead of Heart Attack in Paris』
<Mail Online>『Revealed: How Jackie O's nude beach photos that caused global media storm in 1972 were part of four-year smear campaign by her own HUSBAND Aristole Onassis』
<The Guardian>『Drugged, sexually abused, swindled… Maria Callas’s tormented life revealed』
<Independent.ie>『The dark side of Jackie and Maria's love triangle』
<The New York Times>『Maria Callas Speaks Her Mind ‘on Fashions and Friendship』他、多数。