大正時代の鬼退治をリアルに感じ取ることができる『鬼滅の刃』(画像:アニメ「鬼滅の刃」公式サイト)

大ヒットマンガ『鬼滅の刃』は大正時代初期を舞台にした物語である。もともと昔話に登場する鬼が、近代化が進んだ大正時代に現れる設定は、本来ならば違和感を感じるものだ。ところが『鬼滅の刃』では、むしろきらびやかに発展する大都市と対照的に、闇に蠢く存在として鬼が際立っている。

実は『鬼滅の刃』は「鬼退治」という古典的テーマを扱いながら、鬼殺隊や鬼の過去に当時の社会情勢をしっかりと反映している。だからこそ私たちは、大正時代の鬼退治を「リアル」に感じ取ることができるのだ。東進ハイスクール講師で歴史コメンテーターの金谷俊一郎氏が監修した『新考察 鬼滅の刃 大正鬼殺伝奇考』から一部抜粋、再構成し、鬼殺隊に孤児が多い理由を考察する。

主要キャラクターの半数は孤児

今や日本で『鬼滅の刃』を知らない人はほとんどいないだろう。日本には、秋田県男鹿半島のなまはげなどのように、山の精霊や神の使いとしての鬼も存在するが、『鬼滅の刃』に登場する鬼たちは、人間を喰らう「悪の象徴」である。日本の古典にも鬼による殺人事件や誘拐事件が記録されているが。このような悪の象徴としての鬼の正体は、社会から排除された者、権力に敗北した者たちである。このような人々は、自らの生存と自尊心を守るために、社会と人々に害をなす存在=鬼となったのである。

『鬼滅の刃』に登場するすべての鬼たちもまた、元は人間であり、貧困や能力的な問題などから罪を犯し、一般社会からドロップアウトした存在である。『鬼滅の刃』は、人間時代に得られなかったものを鬼の力で得ようとする鬼たちの物語でもあるのだ。

一方、鬼狩り集団である鬼殺隊の人々の過去も、鬼たちと同様に悲惨である。鬼殺隊の多くは鬼によって家族や近しい者を殺された者たちである。作中でわかっているだけでも、主人公の竈門炭治郎をはじめ、我妻善逸、嘴平伊之助、胡蝶しのぶ、冨岡義勇、不死川実弥・玄弥兄弟、時透無一郎と、主要キャラクターのおよそ半数は孤児や両親を失った者たちだ。また栗花落カナヲは両親を失ってはいないが、その両親によって人買いに売られている。

物語のスタートは大正時代のはじめとされることから、公式ファンブックにある主要キャラクターの年齢(最年少の14歳〜最年長27歳)から逆算すると、鬼殺隊の隊員は明治20年代から30年代生まれと推定できる。実はこの時期は、東京においてストリートチルドレン(孤児のホームレス)が社会問題化した時代でもあった。


明治30年代の神田小川町の様子。『鬼滅の刃』に登場する主要キャラクターは明治20〜30年代生まれだと考えられる(画像:国立国会図書館)

明治28年(1895)に刊行された安達憲忠の『乞児悪化の状況』には、頭の良いストリートチルドレンは窃盗をして逮捕され、牢屋で養われることになり、無知な子供や障害がある子供は街頭で病気となり収容される状況が記されている。さらに、ストリートチルドレン出身者は早く結婚して子供を産みすぐに離婚をして、その子供を捨ててしまうので、一年ごとに捨て子の数は増えていったと解説されている。明治時代の捨て子は最盛期には全国で5000人以上に上った。

なぜ『鬼滅の刃』のキャラクターたちが生きた時代にストリートチルドレンが多かったのか。それは帝都・東京には江戸時代にはなかったいくつもの貧民街が形成され、「スラムの都」ともいえる状況だったからである。

戦争が生み出した貧民と孤児

慶応4年(1868)にはじまった新政府軍と旧幕府軍勢力による内戦・戊辰戦争では、江戸の街が戦火に見舞われる恐れがあった。4年前の元治元年(1864)に京都で起きた禁門の変では、市中での戦闘の最中に火災が発生して、実に京都市中の3分の2が焼失した。このため、新政府軍が江戸に迫る中、禁門の変の事態を知っている大名や旗本が、いち早く屋敷を放棄して江戸を離れると、経済的に余裕がある町人たちも家財道具を大八車に積んで市内から脱出した。100万都市だった江戸の人口は半減し、日常物資の運搬も滞るなど、都市機能は完全に破壊されてしまったのだ。いわゆる「上級国民」である支配層・富裕層がいなくなり、貧民層の多くは江戸・東京に残った状態だった。

このことは新政府が、旧体制にとらわれることなく改革を行うことの一因ともなったが、江戸時代にはない貧困都市としての側面を東京は持つことになったのである。


『東台大戦争図』(部分)。慶応4年(1868)に現在の上野公園で繰り広げられた上野戦争の様子。大名や高級役人、富裕層などはいち早く江戸から避難した(画像:国立国会図書館)

さらに孤児を急増させたのが、江戸時代にはなかった対外戦争である。明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争、大正3年(1914)の第一次世界大戦などでは、多くの戦没者遺族が生まれた。第135話では、鬼殺隊最強とされる岩柱・悲鳴嶼行冥の過去が描かれているが、行冥は鬼殺隊に入る前に9人の孤児を小さな寺で育てていた。

行冥が柱となったのは19歳の時なので(第138話)、逆算すると明治30年代後半頃に鬼殺隊に入ったと推測される。この時期は、日露戦争(明治37〜38年)の影響で戦災孤児が急増した時期である。行冥が保護した子供たちもまた日露戦争の戦災孤児である可能性が高い。

『鬼滅の刃』の主要キャラクターが生まれた時代には、東京にいくつもの貧民街が形成されていた。このかつてあった貧民街の近くの出身者と考えられるのが、我妻善逸だ。公式ファンブックでは、善逸の出身地は牛込區(区)となっている。牛込區は昭和22年(1947)まであった區で、貧民街があった四谷區の隣だ。

ほかの主要キャラクターが悲惨な境遇を紹介されているのに対して、善逸の出自や家族について作中で語られることはなかった。また、公式ファンブックでは主要キャラクターの好物が紹介されているが、ほかの者たちが具体的な食べ物を挙げているのに対して、善逸の好物は「甘いものや高いもの(うなぎなど)」と書かれている。さらに第143話では元兄弟子の獪岳から「相変わらず貧相な風体をしてやがる」といわれている。このことから幼少期に貧しい境遇だったと推測できる。

普段は感情の起伏が豊かでひょうきんな印象の善逸だが、第57話では善逸の精神の核がある「無意識の領域」が真っ黒である描写があり、その性格とは裏腹に心の闇の深さがうかがえる。そして、第163話では、善逸が「本物の捨て子ならおくるみに名前も入れねえよ 俺みたいにな」と語っており、捨て子だったことが明かされた。東宮御所に隣接した貧民エリアには多くの寺院があった地域でもある。そして、寺院は捨て子スポットでもあった。こうしたことから善逸はこのエリアに捨てられた可能性が高い。

時代が生み出した鬼たち

貧民や孤児が社会問題化する中で、富国強兵を推し進める新政府にとって、社会福祉政策は後回しにされた。また、社会的弱者への救済は「惰民(怠け者)を生む」という自己責任論から、行政における福祉サービスは進まず、もっぱら民間の篤志家に頼ることになった。社会局が編纂した『児童保護事業の概況』では、大正14年(1925)になっても公営の育児院は全国でわずか2つしかなかったが、民間の育児施設は117もあった。鬼殺隊が過ごした幼少期における孤児の保護は、ほぼ民間で進められていたのである。


鬼殺隊を率いる産屋敷耀哉も、鬼や病気・事故などによって肉親を失った孤児を鬼殺隊に入れて養育しており、隊員たちからは父のように慕われている。鬼殺隊が社会的弱者の受け皿として描かれていることは、当時の社会情勢と合致しているのだ。

一方で、数少ない民間の保護施設に入ることができなかった貧民や孤児たちの一部は、やがて犯罪に手を染めるなどして社会に害をもたらす「鬼」となった。『鬼滅の刃』でも、人間社会から救いの手を差し伸べられなかった者や、人間によって不幸となった人々は鬼舞辻無惨によって鬼となっているのである。