リーチ マイケルはなぜモンゴルでラグビーの普及に励んでいるのか【写真:Getty Images】

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花園に出場した一人のモンゴル人留学生、リーチとの知られざる関係とは

 ラグビー日本代表リーチ マイケルが「THE ANSWER」のインタビューに応じ、アジアラグビーの未来にかける想いを明かした。現役生活の傍ら、モンゴル人留学生の架け橋作りを行っている33歳。ワールドカップ(W杯)3大会に出場し、押しも押されもしないトップラガーマンが、なぜ決してラグビーが盛んとは言えない地域の普及・発展に乗り出したのか。「今はずっとそのことばかり考えている」という情熱に迫った。(文=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

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 年末年始に行われた全国高校ラグビー選手権。楕円球を追う高校生すべてが憧れる夢の花園に、ラグビー未開の地から来た1人の選手が立った。

 ダバジャブ・ノロブサマブー、札幌山の手(南北海道)の2年生ロック。フィジーやサモア、トンガなど留学生自体は高校ラグビーでも珍しくはないが、彼の母国モンゴルというのは珍しいものである。1回戦の黒沢沢尻(岩手)戦の後半27分から出場。わずか3分の出場ながら、トライまであと50センチに迫るプレーも見せた。2回戦でシード校・大阪桐蔭(大阪)に敗れたものの、大健闘だった。

「まずはメンバーに選ばれることがノロブ君にとっては大きなステップ。その上で、試合に出たことは凄く嬉しかった。毎日、夜に何かしらメールしています。『あと少しでトライだったね』と言ったら『試合に出られるように頑張ります』と言ってくれて」

 12月29日の1回戦翌日に行ったインタビューで、こう言って表情を崩したリーチ。なぜ日本を代表する選手が、ラグビーが盛んではないモンゴル出身の「ノロブ君」と“メル友”なのか。その裏にアジアラグビーの普及・発展に知られざる情熱があった。

 リーチがアジアラグビーに触れたのは、20歳で選ばれた日本代表で駆け出しの頃に出場したアジア5か国対抗(現アジアチャンピオンシップ)。韓国、香港、カザフスタンなどレベルの差は歴然。日本は17年まで出場した30回で25回優勝している。

 誰よりもラグビーと日本を愛し、情熱と責任が宿る男は「どんな相手でも60点、80点、100点を楽に取れるくらいの大会。あまりにも差が大きくて。アジアをもっと強くしていかないといけないと次第に思うようになった。それが、No.1にいる日本の責任だと思った」と振り返る。

 五輪、サッカーワールドカップ(W杯)とともに、W杯は世界3大スポーツイベントに数えられるラグビー。世界的な普及へ。アジアの競技人口の少なさ、指導者の質など、戦っていくうちに課題がいくつも見えた。アジアラグビーへの貢献を夢見始めた。

 アジアの未来に目を向けた時、リーチの目にとまったのが、モンゴルだった。

朝青龍、白鵬の活躍で興味「モンゴルの人がラグビーをやったら絶対強くなる」

 理由はモンゴル相撲の存在である。15歳で来日以来、リーチが見た大相撲はモンゴル相撲出身の力士が席巻していた。「高校時代は朝青龍、大学時代は白鵬」。同じコンタクトスポーツ。あの屈強な下半身とハングリー精神がラグビーに転換されたらどうなるか、興味が膨らんだ。

「朝青龍だったか白鵬だったか、インタビューで『日本では相撲のチャンピオンになれても、モンゴル相撲ではチャンピオンになれない』と聞いて、凄い世界だなと。日本の相撲は上下関係も稽古も厳しい。本当にタフじゃないとやっていけない。白鵬も15歳から日本語すら分からず日本に来て、チャンピオンになれた。モンゴルの人たちがラグビーをやったら絶対に強くなる」

 15歳でニュージーランドから留学し、人生が変わった自分のように、日本で夢を追うモンゴルの若者を作りたい。20代から温めていたプランを行動に移したのは30歳を迎える2018年のこと。ツイッターでモンゴルラグビー協会を探し、自らの構想をメールで送ると、好意的な返信が来た。

 わずか2か月後。代表合宿の期間中、合間にあった3日間のオフを利用し、宿舎からタクシーで直接空港へ。自費で現地に渡った。冬とあって「マイナス18度くらい。空港からの道中は砂漠のように何もなくて。でも、街中に行くと子供たちが平気でTシャツや短パンで過ごしている」と驚いたが、厳しい環境でも逞しく生きるメンタリティーはラグビーに繋がると直感したという。

 実施したのはモンゴル相撲経験者を含め、20人を集めたセレクション。選考の第一条件にしたのが「ジャパンドリームを掴みたい選手」だ。「ちょっと恵まれないくらいの環境から来た方がよく頑張る」が、狙いだった。

 そして、冒頭の話に戻る。ここで選ばれたのが、ウランバートル出身のノロブサマブー。「ダントツで興味があったのがノロブ君」とリーチ。「レスリングをやっていたけど、手がデカくて、ラグビー向きだと思った。本当に静かで、スポーツもそこまで経験なくて」。ラグビーのルールも知らなかったが、伸びしろの塊に映った。19年W杯の開幕戦に招待し、日本―ロシア戦を観戦してもらった。

 2020年春、自身の母校である札幌山の手に留学。日本語も話せなかったが、リーチを育てた恩師・佐藤幹夫監督に支えもあり、教えをスポンジのように吸収し、成長した。頻繁に送られてくる相談事のメールやプレー動画に、リーチもアドバイスを返した。「コンタクトは怖がらないのが凄く良い」と選手としてのポテンシャルを感じる。

「タックルやディフェンスの痛いプレーも嫌がらずにやる。そのスキルがあれば日本で十分ラグビーができる。パスはやればうまくなるけど、怖がらずにプレーするのはトレーニングが必要だから。自然に持っている力。それをどう鍛えるかが今後は大事になる」

 ラグビー歴2年足らずで立った花園。「モンゴルの子供を連れてきて、日本でラグビーをしてもらうという僕の夢が現実になった」という言葉通り、リーチにとっては格別の喜びになった。

「いつかモンゴル代表の監督に…」、引退後はインドや韓国の強化にも興味

 しかし、ダバジャブの存在は出発点。「ノロブ君をモデルケースにして、男子か女子か分からないけど、モンゴルからもう一人連れて来たい」。彼の挑戦は現地でも少しずつニュースになっているといい、今後の構想も描いている。

「いろんな学校を回って話をすれば興味を持ってくれる。足が速い人が活躍できれば、足が遅くて体が大きい人もボールを持ってレスリングや相撲(のような動き)をして活躍もできる。いろんなポジションがあるから、そういう楽しさを知ってもらうためにも、また子供たちに会いに行きたい」

 関心はモンゴル以外にもある。

「インドは強くなってほしい。人口が多く、もともとイギリス領だったから(文化的にラグビーと親和性もある)。インドは頑張ってほしい。韓国も以前は結構強かった。韓国の会社が日本で日本のリーグに参加できたら一番嬉しい。それで韓国代表が強くなれば、面白い」

「いっぱいある」というプランも次々飛び出す。「日本にチームを1つ作って、アジアからトップ選手を連れてきて育てることが一番やりたい」。バーバリアンズのようなチームを作って日本のリーグに参加する、アジアのコーチを日本に連れてきて指導合宿をする――。

 この話をしている時、リーチは見るからに楽しそうだった。それを指摘すると「ずっと、そんなことばかり考えているから。今は現役生活をやり切った後は(アジアの強化活動に)早く移りたいなと思っている」というほど、アジアラグビーにかける情熱は迸る。

 ダバジャブについて「将来はモンゴル代表で戦うのか、日本代表を目指すのか彼次第です」と言った後で「いつかモンゴル代表の監督をやってみたい。そうなるとノロブ君を一緒に連れてこないとダメですね」。笑ってはいたが、あながち冗談には聞こえなかった。

「日本はアジアがあったから、強くなったと思っている。そこを無視して日本だけ強くなるのはできない」。かつてはラグビー小国だった日本も長い歩みを経て、世界と戦えるまでになった。その経験を還元し、発展させることがアジアの盟主の責任とリーチは考える。

 一つ、気になることがあった。なぜ、引退後ではなく現役中にこだわったのか。それを問うと、こう答えた。

「W杯が終わって僕自身が違う刺激が欲しかったし、人にチャンスを与えたかった。W杯の後はいろんな仕事が入ってきて(自分の仕事ばかりに集中するのは)もったいないと正直に思っていた。だから、僕のような人生を歩んでもらえるチャンスを違う子に与えていきたい」

 モンゴルから変える、アジアラグビーの未来。33歳、リーチ マイケルの挑戦は始まったばかりだ。

■リーチ マイケル / Michael Leitch

 1988年10月7日、ニュージーランド生まれ。15歳で留学生として来日し、札幌山の手高に入学。東海大を経て、トップリーグの東芝ブレイブルーパス(現・東芝ブレイブルーパス東京)入り。日本代表としてラグビーW杯に11年大会から3大会連続出場。15、19年大会は主将を務め、19年大会は史上初の8強進出に貢献した。2013年に日本国籍を取得。ポジションはフランカー。188センチ、115キロ。

(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)