「THE ANSWERスペシャリスト」に加わったカヌー・羽根田卓也【写真:荒川祐史】

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「THE ANSWER スペシャリスト論」カヌー・羽根田卓也

 スポーツ界を代表するアスリート、指導者らを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る連載「THE ANSWER スペシャリスト論」。今回からカヌーのリオ五輪銅メダリスト・羽根田卓也(ミキハウス)が新たに加わる。18歳で単身、カヌーの強豪スロバキアに渡り、日本で自らスポンサー営業も行うなど、競技の第一人者として道を切り開いてきた価値観を次世代に伝える。

 今回のテーマは「アスリートの勉強と競技の関係」前編。08年北京五輪出場後、スロバキアの国立最難関・コメニウス大学に21歳で入学し、同校の大学院修了まで競技と両立してきた羽根田。前編では、夢にも思わなかった異国での大学入学をすることになった経緯とともに、卒業が難しく「(落第で)クラスは半分以下になった」という名門校で経験した“キャンパスライフ”について明かした。(聞き手=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

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――羽根田選手は高校卒業後にスロバキアに渡り、3年間は競技に専念。21歳で北京五輪に出場した翌09年にコメニウス大学に入学し、卒業後はコメニウス大学院も修了しました。なぜ、異国の大学で学ぼうと思ったのでしょうか?

「18歳で渡った時はスロバキアに10年も15年もいるなんて思わなかったし、スロバキアの大学に行くなんて夢にも思いませんでした。きっかけは、まずは五輪に出ることを目標に必死に3年間やって、北京大会に出場でき、一つの区切りになったこと。大学には絶対行きたいと思っていたので、大会後に情報収集し、当たり前のように日本の大学を考えました。スポーツ学科があり、地元の中京大学や早稲田大学からスポーツ推薦の話も来ました。スポーツ推薦なら、いろんなベネフィット(恩恵)がつくし、遠征にも行きやすくなると思っていました。

 でも、どの大学も日本にいなければいけなかった。どんなにスポーツに理解がある大学でも1年の半分以上は日本滞在が前提だったので、どうしたものかと困りました。当然ながら北京五輪後も競技力、パフォーマンスのレベルは維持したい。そのためにはスロバキアに拠点を置かなければいけないことは自明の理だったので。その時に今のコーチであり、2006年から知っていたスロバキア人のミラン・クバンが良き兄貴分になってくれていたので、彼に相談したら『スロバキアの大学に行け』と。彼も通っていたコメニウス大学を勧められました」

――いきなりの提案で驚いたのではないでしょうか。しかも、コメニウス大学はスロバキアで最難関の国立大学です。

「まさかと思ったし、選択肢もありませんでした。でも、当時は日常会話くらい話すことができ、しかも五輪出場選手は試験が免除。『お前がそれくらい話せるなら、なんとかやっていけるはずだ。手続きは俺が手伝ってやる』と力強く言ってくれて。大学に行けばスロバキアにいられるし、日本からすれば破格ですが、授業料も年間20万円で、地元の学生はタダ。何より、誰でもスロバキアの大学に行けるわけでもなく、挑戦のしがいがあること。これがターニングポイントでした。厳しい選択ですが、間違いなく自分の深層心理では絶対こっちが正しい道だと直感で分かりました」

――大学生より先にオリンピアンという肩書きも手にしていました。それでも「大学には絶対行きたい」と思っていたのはなぜでしょう?

「アスリートといっても、当時20歳そこそこ。いつまでもスポーツをやっていられるわけでも食っていけるわけでもない。カヌーという競技なら、なおさらです。そのくらいの自覚はあったので。自分で学び、引退後でも現役中でも生かせることがあるはずだと。行かない選択肢はなかったです」

クラスメートに昼食を奢り、教授室に日本みやげを持って教えを乞う日々

――入学したのは体育学科。受験免除で入学できたものの、海外の大学に通うのは大変だったのではないでしょうか?

「試験免除が良かったのか良くなかったのか、何のテストもなく入学し、授業が始まるとパニックでした。大学に通うまではスロバキアの片田舎が拠点。地元のクラブチームや友人レベルのコミュニケーションでした。でも、スロバキアなら誰もが目指したいくらい国内No.1の大学。内容も難しく、しかもスロバキア語。現地人が聞いても分からない授業を、僕が一緒に座って聞いている。

 自分が今までやってきたはずのスロバキア語は通じず、何が分からないのかも分からないような状態。教授が言っていることはひと言も拾えず、これはとんでもないところに来てしまったと絶望しました。特に、大学1年生の最初の関門だったのが解剖学。筋肉や骨などの名前を全部覚え、どういう働きなのかを答えないといけない。この試験で、かなりふるいにかけられていました」

――そんな中でどんなキャンパスライフを送ったのでしょうか。

「トレーニングと勉強の両立で必死でした。授業のコマがあり、その間にトレーニングを入れる。『トレーニングの合間に学校に行く』ではなく『学校の間にトレーニングをする』という感じで。まずは授業に出て出席することが大事でしたが、授業に出ているだけでは追いつけない。授業後はクラスメートを捕まえ、お昼ごはんを奢って教えてもらう。日本に帰った時は必ずお土産をたくさん持ってきて、それを手に教授室のドアを叩く。『僕は日本から勉強に来ていて、スロバキア語もこんなレベル。個別に教えてもらえないですか?』と頭を下げる。

 そんな風に各教科全部やっていたのが日常でした。特に向こうの大学はテストが凄く難しく、卒業も難しい。それは授業料が免除されていることと大いに関係していて、出来の悪い学生はテストで3回落ちたら退学。学士は3年、修士は2年ですが、3年目が終わる頃には僕のクラスも半分以下。それくらい平気で落としていく厳しい大学でした。なので、僕自身もテストに受かることに必死。スロバキア語でやらなければいけないから、教科によってはどうしても理解できない内容もありました。そういう時は日本から本を取り寄せて勉強していました」

――本というのは?

「参考書です。必要だったのは、まず知識。言葉は分からなくても知識があれば、自分の下手なスロバキア語でも『コイツ、話せてはいないけど、なんとなく理解しているな』と教授に分かってもらえる。なので、そもそも知識を理解するのに日本語の参考書を用意し、スロバキア語に翻訳していかなければいけない科目がたくさんありました。でも、それが凄くやりがいがありました。大学さえ通っていなければ、もっとトレーニングができて、質の良いパフォーマンスが出せたのではないかと当時は何度も思いましたが、今思うと後悔はありません」

――これだけ学びを続けられたのはどんなことが大きかったのでしょうか。

「自分の興味のある内容だったことが大きいです。体育学科でコーチングを専攻し、授業の内容が自分のパフォーマンスやカヌーにつながることもあり、やりがいのある授業が多かったです。身体の仕組みが理解でき、トレーニングメソッド、自分がコーチになった時の指導にも生かせる。全く関係のない分野だったら時間の無駄で終わったかもしれないですが、7年間で学んできたことで、パフォーマンスに還元できたものがたくさんありました。なぜ、コーチのメニューはこういうプログラムなのかなど、そのコーチからわざわざ教えられなくても、自分で理解することできました」

「絶対に卒業したい」という熱意が生んだスロバキア人との絆

――当然、周りはスロバキア人ばかりで日本人もいない環境ですよね?

「スロバキアで育ったロシア人とか、欧州系の外国人は少しいましたが、僕みたいな飛び込みのような外国人は全くいませんでした」

――競技をしているとコミュニティが限られ、人間関係も幅が狭くなりがちです。海外で一般の大学生と日々を過ごし、交友関係を築くことで得られたものはありますか?

「一緒にスキー合宿に行ったり、思い出はたくさんあります。友達ができて一緒にごはんを食べに行ったり、お互いの家に遊びに行ったりもしました。ただ、学園祭をやるような大学でもないし、いわゆる日本のようなキャンパスライフというものではありませんでした。日本と比べてドライというか、みんな本当に学びに来る感じ。必ずしも18歳で入学するわけでもないし、年齢もバラバラ。サークルや部活もなく、本当に学びの場でした。

 その中で、いろんな人に可愛がってもらいました。クラスメートも、先生も。アジア人がこんな場所に飛び込んで必死にスロバキア語を話して一生懸命やっているので、評価してくれた。学校の成績だけで言ったら、とっくに落とされていたかもしれないですけど、僕には『絶対に卒業したい』という熱意があったから。それを買ってくれて、一生懸命に教えてくれたので、そこでまたスロバキア人との絆が生まれたかなと思っています」

(2日掲載の後編へ続く)

羽根田 卓也
リオ五輪カヌー銅メダリスト THE ANSWER スペシャリスト
1987年7月17日生まれ。愛知・豊田市出身。ミキハウス所属。元カヌー選手だった父の影響で9歳から競技を始める。杜若高(愛知)3年で日本選手権優勝。卒業後にカヌーの強豪スロバキアに単身渡り、スロバキア国立コメニウス大卒業、コメニウス大学院修了。21歳で出場した2008年北京五輪は予選14位、2012年ロンドン五輪は7位入賞、2016年リオ五輪で日本人初の銅メダル獲得。以降、「ハネタク」の愛称で広く知られる存在に。東京五輪は10位。2022年1月、パリ五輪を目指し、現役続行することを表明した。175センチ、70キロ。

(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)