不動産ID」が導入されたら住まい探しはどう変わるのか(写真:EKAKI/PIXTA)

不動産DX(デジタルトランスフォーメンション)の“一丁目一番地”と位置付けられる「不動産ID」の導入を巡って、不動産業界の対応が注目されている。政府の「デジタル社会の実現に向けた重点計画」にも2022年度の「不動産ID」の導入が盛り込まれ、国土交通省でも今年3月までに不動産IDのルール策定を終える予定だ。

不動産業界からも「不動産ID」導入に対して表立って反対する声は聞かれない。しかし、不動産ID推進派は「その動きは牛の歩みのように遅く、目を離すとサボタージュする」と懸念する。国交省内からも「不動産業として不動産IDをどのように活用するのかという具体的な議論は進んでいない」との声を聞く。

個人IDは住民基本台帳システムに基づいた「マイナンバー」が2015年に導入されたが、「不動産ID」も不動産登記システムと連携して土地・建物の流通・開発・管理などに利用する基盤となるものだ。不動産業にとっても業務の効率化や生産性の向上に役立つ仕組みとなるはずだが、二の足を踏むのはなぜか――。

不動産IDが、不動産市場や不動産業の変革にどのような影響を及ぼすかを十分に見通せていないからだろう。業界内からは「大手不動産仲介会社にとって、売り主・買い主の双方から仲介手数料を得る『両手取引』がやりにくくなる」との声も聞くが、不動産IDの議論で決定的に欠如しているのが「ユーザー視点」である。

これまでの延長線上で将来像を描くのではなく、不動産IDの導入によって、どのような不動産市場を目指すべきなのかが重要だろう。さまざまな関係者の証言をもとに、筆者の独断で「不動産業の将来像」を予想してみた。

【物語】不動産IDが導入後の「未来の住まい探し」

20XX年、会社員のBさんは帰宅中の電車の中で「週末は『AI不動産』にアクセスして住まい探しするかな?」と考えていた。

現在は10年前に購入した1LDKマンションに住んでいて住宅ローンも10年以上残っているが、2人の子どもたちも大きくなって「個室がほしい」とうるさいし、妻のCさんにも専用のワークスペースがほしいと言われているからだ。

翌日、Bさんはスマートフォンから「AI不動産」にアクセスすると、若い女性のアバターが画面に現れた。

「ようこそAI不動産へ、どのような住まいをお探しですか?」

「通勤時間は1時間以内。広さは3LDK以上で、妻と私の専用ワークスペースがほしい。住居費として支払えるのは月額●●万円以内。太陽光発電や蓄電システムを装備して、エネルギー消費量もZEH以上……」

Bさんが思い付くままに希望条件を挙げていくと、AI不動産は音声認識で希望条件を書きだし、優先順位を付けながら自動的に整理していく。

一昔前なら、あちらこちらの不動産物件検索サイトにアクセスして自分で物件探しをしなければならなかった。しかも、オトリ物件とかツリ物件と言われる消費者を誘い込むニセ情報が紛れ込んでいたため、2022年にNHKでドラマ化された漫画『正直不動産』(小学館)のような信頼できる宅建業者を探すのにも一苦労だった。

しかし、2022年に「不動産ID」が導入されたことで、オトリ物件やツリ物件を排除しやすくなった。当初は物件情報に不動産IDを表示することに消極的だった宅建業者も、情報の信頼性を示すために不動産IDを活用する動きが広がった。その結果、どの不動産検索サイトでも掲載される物件の数や中身に違いがなくなり、「物件数ナンバー1」といったテレビCMも姿を消した。

【証言1】首都圏の売り出し物件数は20〜30万件と言われるが、不動産検索サイトには約100万件もの物件情報が掲載されている。不動産IDによってオトリやツリなどの物件情報が排除されるようになることで、広告収入が大幅に減ることを懸念する検索サイト運営会社もいるかもしれないが、消費者利益のためにも透明化されるべき。(野口真平イタンジ代表取締役)

「レインズ」が一般公開されたら…

不動産業界では長年、宅建業者間で物件情報を交換するため1980年代に構築した統合データベースシステム「レインズ」の一般公開を拒んできた。しかし、広告料を払って物件情報を検索サイトに掲載するよりも、レインズを公開して不動産情報サービス事業者から手数料を得たほうがコスト削減にもなる。

その結果、すべての売買・賃貸物件が不動産IDにひも付けられて検索できる「不動産データバンク」が構築され、AI(人工知能)などのテクノロジーを活用して最適な物件を自動検索して提案する「AI不動産」が続々と登場してきたわけだ。

【証言2】不動産IDに基づく不動産データベースが構築できるようになれば、検索サイトも物件数の勝負ではなく、ユーザーニーズに対応したサービスを提供できるかどうか、アプリケーション層の勝負になる。(井上高志ライフル社長)

「B様、希望物件をVR(仮想現実)でご覧になりますか? 先に資金計画の相談をしますか?」

「いま住んでいるマンションを売却して希望物件を購入する場合、保有マンションを賃貸に出して希望物件を購入、または賃貸する場合の3パターンで、住居費の月額を試算してくれないか? 保有マンションの将来価値も予測してほしい」

AI不動産は、AI査定を使って保有マンションの売却予想額や、周辺の賃料相場から賃料収入予想額を試算し、すぐに3パターンの資金計画を画面に表示した。さらにパターンごとに、Bさんの予算内で購入または賃貸できる希望物件を提案した。

Bさんは早速、Cさんや子どもたちと情報を共有し、それぞれ都合の良い時間にVR(仮想現実)でAI不動産の提案物件を見学。保有マンションは将来価値予測から売り時と判断。家族全員が気に入った交通利便性がよい郊外の戸建て中古住宅の購入を第一候補にすることを決めて、AI不動産に伝えた。

「B様、希望物件の売り主様とは直接取引を希望ですか? 物件が立地する地元情報に詳しい宅建業者を紹介しますか?」

2021年に発足したデジタル庁は、公的機関が登録・公開している土地、建物、インフラなどの基本データをデジタル化し「ベース・レジストリ」を整備した。それらと「不動産ID」が連携することで、宅建士が丸1日がかりで作成してきた「重要事項説明書」も簡単に自動作成できるようになった。売り主が瑕疵保険を利用し、買い主がインスペクション(建物検査)を行えば、売り主と買い主との直接取引も安心して行えるようになった。

【証言3】不動産IDは、既存の産業の生産性向上ばかりに目がいっているが、新しい市場を作る、さらには社会課題と向き合うことの効果を理解することが重要。今後、人口減少が進み、地方での不動産取引が減れば、宅建業者がいない空白地帯が増えていく。地方の空き家などは仲介手数料も得られないので都市部の宅建業者も手を出さない。不動産IDを利用して安全・安心な直接取引の仕組みをつくる、新しい産業を育成する必要があるだろう。(清水千弘・日本大学教授兼東京大学特任教授)

不動産仲介サービスだけを提供する宅建業者は淘汰?

「希望物件が立地する地域はよく知らないから、コミュニティー情報に詳しい宅建業者を紹介してほしい。エリアの病院や教育環境も知りたいし……」

「B様、宅建業者は自治体OBや元校長先生などが在籍し、地域コミュニティーを良く知るD不動産はいかがですか? ほかに古民家を改造した地域コミュニティー拠点を運営しているEホーム、定期点検による定額建物修繕サービスを提供するF建物管理もお勧めです」

「AI不動産」の普及に伴い、物件売却は不動産データバンクに登録して自ら行う売り主が増えた。それによって、不動産仲介サービスだけを提供する宅建業者は淘汰され、さまざまな付加価値サービスを提供する企業が成長していた。

とくに不動産管理会社は、分譲マンションや賃貸住宅だけでなく、地域のすべての建物に管理対象を広げ、建物の点検・保守データだけでなく、「不動産ID」を使って賃貸建物の空室状況、空き家情報などの都市データを蓄積。これらのデータを活用して計画的なまちづくりが進み、デジタル証券やブロックチェーン技術を使った「不動産STO(セキュリティートークンオファリング)」で不動産投資市場も拡大した。

地方自治体はスマートシティーの構築に向けて「不動産ID」と連携し、暮らしに関わる電気、通信、物流などさまざまなデータを収集・管理するためのデータ連携基盤を構築。不動産管理会社は、地域のさまざまなサービス事業者と連携して、スマートな暮らしを支えるプラットフォーマーへと進化した。

【証言4】不動産業は物件の仲介・管理を中心とした「不動産業1.0」から、開発分譲・賃貸業などの「同2.0」、不動産を活用したさまざまな事業をプロデュースできる「同3.0」、不動産事業に必要な資金調達手段として自らファンドを組成できる「同4.0」へ進化していく。これからは不動産の新しい稼ぎ方を実践できる企業が求められていくだろう。(福田和則エンジョイワークス代表取締役)

日本社会でDXが進まない原因

ここまでが、筆者が予想した「架空の物語」である。

業界関係者からはさまざまな批判が噴出することを覚悟して「不動産ID」導入後の未来を予想したのは、日本社会のDXを推進するには、それぞれの産業界が将来ビジョンに対する「共通認識」を持つ必要があると思うからだ。

「山頂なき山登り」――デジタル庁で国民向けサービスの責任者を務める村上敬亮統括官は、日本社会においてDXが進まない原因をこう表現する。

「山登りは、誰もが山頂が見えているからそこへ登ろうとする。山頂がどこにあるのかが見えないと、山の麓をウロウロするばかりで、いつまで経っても山頂には到達できない」

国交省では、約15年前から「不動産ID」を導入する検討を行ってきた。不動産業界も「不動産ID」が導入されれば何か起こるのかが薄々わかっていたから、「暗黙の抵抗」をしてきたのだろう。2019年に国交省が四半世紀ぶりに策定した「不動産業ビジョン2030」にも「不動産ID」は盛り込まれずに先送りされてきた。

国交省にとってトラウマになっているのが、2013年度に着手した「不動産総合データベース」構築が失敗に終わったことだ。アメリカの不動産情報システム「MLS」を手本に、公的機関が保有するデータを不動産データとひも付けられるようにして宅建業者が必要とする情報を簡単に収集できるようにするのが目的だったが、当時は行政機関のデジタル化がまだ進んでいなかった。

「結局、行政窓口で情報確認する必要があり、これじゃ使い物にならない」(業界関係者)とのレッテルを張られ、苦杯をなめた。しかし、今回はデジタル庁が発足し、公的機関が保有する情報のデジタル化を進め、「ベース・レジストリ」として整備される。

2019年1月のダボス会議で安倍晋三首相(当時)がこれからの経済活動の重要課題として「DFFT=Data Free Flow with Trust(信頼ある自由なデータ流通)」を提言したのを受けて、政府のデジタル市場競争本部に「Trusted Web推進協議会」を設置。信頼できる情報を、インターネットを通じて流通するための仕組みづくりも進んでいる。

ようやく不動産業の将来ビジョンを具体的に描けるデジタル環境が整ってきたわけだ。重要なのは、不動産IDを使ってユーザー・エクスペリエンス(体験)をいかに高めるかである。

すでに不動産テック協会では、「住所」にひもづけた「不動産共通ID」のアプリ提供を約1年前から開始し、宅配事業者などに活用され始めている。「ユーザーの成功体験を積み上げていくことで、IDの必要性を認識してもらうしかないのではないか」(巻口成憲不動産テック協会代表理事)と、利用ユーザーの拡大を進めていく考えだ。IDも用途に合わせて1つに限定する必要はなく、不動産IDを中心にデータ連携できるオープンな仕組みが重要だろう。

不動産IDが導入されたら司法書士はどうなる?

不動産IDの導入で最も影響を受けるのは、不動産登記を行う司法書士ではないか」

複数の不動産業界関係者からはそんな指摘があった。

不動産売買に伴う移転登記手続きは、司法書士に30万円ほどの費用を支払って代行してもらうのが一般的だ。しかし、「不動産ID」の導入で買い主が自ら300円程度の手数料だけで簡単に登記できるようになれば「一番困るのは司法書士ではないか」というわけだ。

不動産IDを付してさまざまな情報を統合していくという方向性について、とくに反対するというような姿勢は持っていませんよ」。里村美喜夫・日本司法書士会連合会副会長に確認すると、そんな答えが返ってきた。

「売り主・買い主の双方が確認・納得して登記手続きを行えるようになるには少し時間がかかるのではないか」とは予想しているが、司法書士にとっても本人申請による移転登記手続きの増加は歓迎するかもしれない。なぜなら2024年度から「相続登記」の義務化が始まるからだ。

相続登記では、相続人間の調整が必要な場合、相続放棄が必要な場合、遺言があった場合など弁護士や司法書士など、法律専門家の関与が必要となるさまざまなケースが想定される。「家庭裁判所での調停手続きなど『大事になる前に』解決するためのツールも開発する必要がある」と里村氏は指摘する。司法書士の多くは相続登記への対応に追われ、売買に伴う移転登記手続きを効率化せざるをえない可能性もある。

不動産IDの導入・活用がなかなか進まないのはなぜか。その原因や犯人探しをしても意味はないと思いますよ」。長年、不動産市場のIT化に取り組んできたライフルの井上氏はそう指摘する。

確かに不動産市場に関わるさまざまな関係者の思惑が交錯して、なかなか前に進まないのが実情で、原因や犯人を追及したところで問題解決は難しいかもしれない。とは言え、いつまでも「山頂なき山登り」を続けたところで、不動産業のDXは進まないだろう。

はたして「架空の物語」が5年後、10年後にどこまで実現するか。それともまったく別の未来が待っているのか。筆者としては、巨大企業が参入して不動産市場を支配する既存業界にとっては悲観的なシナリオも想像するのだが……。

(千葉 利宏 : ジャーナリスト)