2010年のマリノス最終戦の挨拶に立った松田直樹さん【写真:Getty Images】

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「THE ANSWER the Best Stories of 2021」、横浜F・マリノス主務が送ったメッセージ

 東京五輪の開催で盛り上がった2021年のスポーツ界。「THE ANSWER」は多くのアスリートや関係者らを取材し、記事を配信したが、その中から特に反響を集めた人気コンテンツを厳選。「THE ANSWER the Best Stories of 2021」と題し、改めて掲載する。今回は連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」から、横浜F・マリノス職員の大谷晋吾さんが送ったメッセージ。

 松田さんは2011年の夏、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、8月4日、帰らぬ人に。34歳の若さだった。早すぎる別れから10年。松田さんが在籍当時、チーフマネージャー(主務)を務めていた大谷さんはマリノス最終戦出場を巡る知られざるエピソードを明かす。また、今回は新たにマリノス最後の練習を撮影した当時の写真も掲載する。(構成=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

 ◇ ◇ ◇

 初めて、マツさんと会った日のことをよく覚えています。

 2005年。副務として採用された僕は大学卒業前、シーズンが始まる前の1月の準備から手伝っていました。自主トレに来る選手に挨拶をする日々。ある日、東戸塚のクラブハウスで後ろを振り返ると、私服姿のマツさんがいた。

「ああ、あの松田直樹だ」。今までスタジアムの遠くから見て、ピッチに立っていた人。体が大きいのに顔が小さいし、ビジュアルからして、なんてカッコいい人なんだ、と。緊張して「今年から入ることになりました。大谷です」くらいしか言えなかった。

 すると、マツさんは何も言わず、しっかりと目を見て、がっしりと握手してくれた。その瞬間、一気に心を鷲掴みにされました。

 最初の監督の岡田武史さんの教えで「スタッフは選手と距離を置いて仕事をすることが正義」を2〜3年間は、貫きました。選手に食事に誘われても頑なに断るくらい。2007年に練習施設がマリノスタウンに移転し、僕も主務になると選手との関係性も変化していき、マツさんに対しての印象が変わりました。

 とても大きくて、繊細で優しい人。これが、僕が思うマツさんでした。そう感じた思い出が2つあります。

 ある日、選手が練習場に連れてきていた子供に、こう言っている姿を見ました。「お前の父ちゃん、日本で一番サッカー上手いんだぞ!」。それはどんな選手の子供にもやっていたかもしれない。でも、子供はお父さんが自慢になるし、お父さんである選手も、うれしかったと思います。

 もう一つは、個人的な話で、シーズン中に祖母が亡くなった時。その当時の監督から冠婚葬祭には必ず出なさいという進言で、葬儀と試合が重なった試合に帯同しませんでした。その試合は結局負けてしまった。オフ明けの練習に「すみません。休ませてもらって、ありがとうございました」と挨拶をしていきました。

 すると、マツさんは会うなり「お前がいないから、負けちゃったよ!」と明るく言ってくれて。そういう風に、年下で裏方である自分のことも気にかけてくれて、言葉で投げかけてくれる。そんな姿に、大きさと優しさと繊細さを感じたことを覚えています。

忘れられない2010年の1週間、最終戦2日前に松田さんに送ったメール

 一緒に戦う中で忘れられないのは、2010年の1週間です。せっかくの機会なので、ありのままにお伝えします。

 その年はクラブの成績も低迷し、マツさんも手術の影響でシーズン序盤を欠場。復帰以降も本来のセンターバックではなくボランチで起用されるなど苦しいシーズン。そして、迎えたシーズン終盤の11月27日、アウェイのガンバ大阪戦でした。

 マツさんはスタメンで出場すると、パフォーマンスがすごく良くて、「やっぱり松田直樹だな」と誰もが思うプレーを見せた。試合も勝利し、本人もすごく上機嫌で。そのまま新幹線で横浜に戻り、クラブハウスまで戻ってきた夜のこと。

 バスを降りると、クラブの契約関係の担当に「マツ、ちょっといい?」と声をかけられた。クラブハウス内の部屋に入っていく姿を見て「あれ? どうしたんだろう」と。そう思っていたら、5分も経たないうちに出てきた。

 なんというか、鬼の形相。誰も声をかけられず、飛び出して帰ってしまった。スポーツ新聞に「松田退団」の記事が出たのは翌日。練習場に行くと多くのサポーターが詰めかけていて、大変な1週間になると覚悟しました。

 次が最終戦。マツさんにとって、マリノス最後の試合になる。でも、オフ明けから練習が始まっても、クラブハウスには来ても練習に出ない。トレーナー室にこもって「脚が痛い」「練習はやらない。最終戦は絶対出ない」と。契約非更新に納得がいかない様子で、時間だけが過ぎていく。

 いよいよ、試合2日前の木曜。練習場に顔を出したら相変わらずトレーナー室のベッドに寝転んでいる。スタッフが「最後の試合だから出ろ」と言っても聞く耳を持たない。スタッフもサジを投げてしまった感じでした。

 マツさんにメールを送ったのは、その夜のことです。

 翌日の金曜になると、もう試合前日。帯同メンバーが決まってしまう。ファン・サポーターにたくさん愛され、僕も一番近いところから姿も見ていた。他の誰も手立てがない。報道が出た後も、たくさんのファンがマツさんを観に来てくれている。

 自分も後悔したくなかった。何かできることはないか。イチかバチか。「スタッフは選手と距離を置く」なんて正義は忘れて、携帯に送りました。「個人的なメールなので、読んでも読まなくてもいいです」と。

 全部は覚えてないですが、だいたいこんな内容です。

「マツさんがサポーターに愛されていることは間違いありません。

 あなたほどトリコロールのユニホームが似合う人は見たことがありません。

 最終戦で、最後のトリコロールを着ているマツさんを皆が見たいです。

 この1週間、マツさんの気持ちを分かることはできないし、最後は監督が決めることです。

 でも、謝ったら試合に出場できるチャンスがあると思うので。

 お願いだから、謝ってください。謝って、試合に出てください」

 返信は、ありませんでした。

「ごめんなさい。メールを送ってしまって。マツさん、どうします?」

 翌日もクラブハウスに行ったら、いつもと同じようにトレーナー室でゴロゴロしていました。

 練習開始10分前。そろそろ、みんなグラウンドに出てしまう。トレーナー室に行って声をかけました。「昨日はごめんなさい。メールを送ってしまって。マツさん、どうします?」。すると、聞かれたんです。「俺、どうしたらいい?」と。

「一緒に行くので、謝ってください」と言いました。さすがに嫌がるかなと思ったら、意外と素直に動いてくれた。一緒に監督のところに行って、最後は2人だけで話をしてもらった。練習後にメンバーを確認したら、マツさんが入っていた。

 その年に退団する選手も最後まで練習に打ち込んでいた。マツさんがメンバーに入ることで、予定していた1人を入れ替えることになる。もちろん、それは理解していました。

 マネージャーの立場で、個人の意志を貫いたのはその時だけです。

 12月4日。大宮アルディージャ戦は試合終了直前で出場。本当はその5分前くらいに呼ばれていたのに、集まったスタッフ一人一人とハグをしていて。「そんなことしていたら、試合終わっちゃうよ!」と思ったのですが(笑)、側にいる人をそれだけ大切にしてくれたのが、マツさんらしさでした。

 そして、最後にあった「俺、マジ、サッカー好きなんすよ! マジでもっとサッカーがしたい!」という涙ながらのスピーチ。あのメールを送らなければ試合に出ていないだろうし、試合に出ていなければ、最後はあんな風に皆さんに挨拶もできないまま、お別れだっただろうと思います。

 あのメールを送って良かったと今も思っていますし、そのことで今もまだマツさんとこうして繋がれているのかなと感じています。

 シーズン終了後、マツさんと最後に会いました。

 退団する選手がクラブハウスに荷物をまとめに来る。マツさんが練習着をポリ袋にまとめているところ、最後の挨拶をした時に「記念に練習着1枚ください」と言ったら「なんだよ、もっと早く言えよ!」なんて言いながらもくれた。初めての出会いから随分、距離が縮まったなと思います。

 それが記憶している最後の会話。亡くなったのは、それから8か月後でした。

 倒れてから2日後、テレビのニュース速報が流れた驚きを忘れられません。2012年からはフロント側に移り、事業系の仕事をしています。毎年8月4日が来るたび、どう向き合ったらいいのか、自問自答し、正解は出ないまま、追悼イベントを毎年やらせてもらっています。

 一番は年月が経っても、松田直樹の功績を伝え続けていくこと。その障壁が年月であることも分かっています。クラブにも若い人、別業界から来る人も増えました。その中で、この10年という節目という機会を逃したくなくて、今年はクラブの松田直樹さんへの想い、今後のクラブの取り組みについて発表する準備をしています。

 マツさん、僕も38歳になりました。マツさんが亡くなった年齢を超えるなんて、思っていなかったです。

 松田直樹が生きた時代を一緒に過ごさせてもらった僕やクラブとしての責務があります。皆さんから、どれほど愛されていたかをファン・サポーターの皆さんの想いとずれないように伝えていかなければいけない。

 マツさんはそういうの嫌がるかもしれないですけど、「これからもずっとやっていきます」と伝えたいです。

松田さんが後に語っていたあの日のメール「晋吾がいなかったら、試合に出てない」

 長くなり、ごめんなさい。最後にこの機会を頂き、マツさんが松本山雅に移籍した後、メールの件について語ってくれている記事を読みました。

 そこに、こんなことが書かれています。

「主務の晋吾がいなかったら、たぶん試合に出てない。自分は契約非更新を伝えられて、最終節の前の練習に出ていなかった。そうしたら、晋吾が『これは個人メールです』ってメールを送ってきた。

『本当に試合に出てください。だから、謝ってください』って書いてあった。それで監督に頭を下げて、試合に出させてもらうことができた。今でも頭が上がらないくらい感謝している」

 マツさん、頭が上がらないのはこちらの方です。その言葉が、僕の生きている証です。

 横浜F・マリノス FRM事業部

 大谷晋吾

(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)