まぎれもない天才だったのに…勝新太郎の俳優人生を未完で終わらせた「パンツの中身」
■昭和の映画界を代表する勝新太郎と市川雷蔵
勝新太郎は長唄三味線の師匠の子として生まれ、彼もその道へ進んだ。
しかし、1954年、23歳の年に映画俳優に転身する。
もともと芝居は好きだった。父が歌舞伎座で長唄三味線を弾いていたのでついていき、舞台袖から、当時の名優である6代目尾上菊五郎、15代目市村羽左衛門、初代中村吉右衛門らの芸を見て、覚えた。
だが、いくら台詞を暗記し、演技を覚えても、長唄三味線の子が歌舞伎役者になれる道はなく、映画への道を選んだのだ。
1954年8月公開の『花の白虎隊』が勝新のデビュー作だ。
俳優としての訓練を経ずに、いきなりの映画出演だった。しかし、主役ではない。
『花の白虎隊』の主役は、やはりこの作品が映画デビューとなる、歌舞伎から転身した市川雷蔵だった。
勝新と雷蔵は同年生まれ(1931年)、後に「カツライス」と呼ばれ、大映の二枚看板となるが、デビュー時はかなり差があった。
雷蔵は16の年から歌舞伎の舞台に出ていたのに対し、勝新は歌舞伎座の舞台にはいたが黒御簾の中で、俳優として演じたことはない。
ギャラも一本あたり、雷蔵は30万円、勝新は3万円と10倍も差があった。
■「悪のヒーロー」役が転機となる
1954年のデビューから6年が過ぎても、勝新には代表作と呼べるものがなかった。大ヒット作もなく、評論家が絶賛するものもなかったのだ。
それでも、月一作のペースで主演していたのだから、まったく人気がないわけではなかったはずだ。
1960年9月1日、勝新の転機となる『不知火検校』(森一生監督)が公開された。
主人公の「市」は盲目に生まれ、按摩として身を立てながら、泥棒、詐欺、強請、姦淫、殺人と、ありとあらゆる悪事を働き、盲人の最高位である「検校」になる、悪漢(ピカレスク)物語だ。
『不知火検校』は、悪人を主人公とするだけでも異質だが、最後に悪事が露呈しても主人公は何の反省もしない。そこが新しいと言えば、新しかった。
『不知火検校』は公開されると、大ヒットした。
勝新のイメージは「悪のヒーロー」に一新した。
大映の看板スターである長谷川一夫も市川雷蔵も二枚目役者だったので、徹底的な悪人は演じない。勝新もその路線を歩んでいたが、長谷川一夫には届かないし、雷蔵にも追いつけない。
そこで、二人が絶対にやらないような役をやってみたところ、はまったのだ。
しかし、当時の勝新は月に一本の新作を撮らなければならないので、『不知火検校』が封切られた頃には、明るく楽しいミュージカル風時代劇『元禄女大名』を撮り終えていたし、さらに次の映画も決まっていた。
すぐに悪のヒーローものに転じたわけではない。
■初めてのシリーズ映画は「悪名」
『不知火検校』で新境地を開いたかと思えたが、それからの1年間、勝新は従来と同じように軽い時代劇に出続けていた。
そのなかには1961年6月公開の『ドドンパ酔虎伝』という安易な企画もあった。これを押し付けられた勝新も監督の田中徳三も気が進まず、撮影が終わるとやけ酒を飲んでいた。完成した映画は社内で酷評され、客足も鈍く、さんざんだった。
その次に、ようやく後世の人びとがイメージする「勝新」らしい作品、『悪名』と出会った。監督の田中にとっても、ようやく自分の味を活かせる題材との出会いだった。二人にとっての屈辱を晴らす機会がやってきたのだ。
『悪名』は今東光が『週刊朝日』に連載していた小説が原作で、それを読んだ勝新が映画になると思ったのが始まりとされている。
昭和初期が舞台だ。時代劇と現代劇の中間の時代だが、この映画が撮られた時代からは、30年ほど前ということになる。勝新が演じる朝吉は河内の百姓の伜で、「肝っ玉に毛の生えた奴」と恐れられる乱暴者だ。
朝吉を演じるにあたり最大のネックとなったのが、言葉だった。朝吉は河内弁でしゃべるが、勝新は江戸っ子である。特訓して臨んだ。
『悪名』は9月30日に封切られ、興行成績がよかったので、会社はすぐに続編の製作を決めた。勝新初のシリーズものとなる。
『悪名』の続編『続・悪名』は3カ月後の12月に封切られた。
■勘違いから給与面で雷蔵を超す
この撮影に入る前、勝新は社長の永田雅一に対し、出演料の値上げを求めた。
1954年の入社時、雷蔵は30万、勝新は3万だったが、1961年には、雷蔵が300万、勝新は250万円にまで上がっていた。
勝新と雷蔵の差はかなり縮まった。だが、勝新としてはシリーズものに出るのだから、雷蔵と同額にして欲しい。
「どれくらい欲しいんだ」と永田が言うと、「50万円上げてほしい」という意味で、指を開いて「5」と示した。
永田は「そんな大金、払えるか」と一蹴したので、勝新は撮影をボイコットした。
会社側はあわてて、「上げてやる」と言ってきたので、勝新は撮影に戻った。
撮影後、もらった額を見たら、500万円だった。勝新の「5」を永田は「50万プラス」ではなく、「500万円にしてくれ」と勘違いしたのだ。
500万になり雷蔵を抜いて、これで気分をよくしたところに、『座頭市物語』の企画が立ち上がった。
■最大の代表作となる『座頭市物語』
『座頭市物語』の原作は子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の一篇で、1961年9月に単行本として刊行された。
『座頭市物語』については、「子母澤寛の随筆のなかに座頭市という侠客について数行書かれたものをもとにしたオリジナル脚本」、あるいは「ほんの数ページの実話をヒントにした脚本」「『ふところ手帖』のなかの短い随筆」などという説が、いまだに流布している。
しかし、子母澤寛の『座頭市物語』は、文庫版にして10ページのれっきとした短篇小説である。
子母澤寛は「侠客の飯岡助五郎を取材するため千葉県佐原市へ訪れた際に、飯岡のエピソードのひとつとして土地の古老から聞いた盲目の座頭の市の話を元に書いた」という趣旨のことを語っているが、『座頭市物語』の文中にはそういう経緯は記されてない。
大映は『座頭市物語』の映画化権を得た。
シナリオは1962年2月に完成し、その間に監督は三隅研次と決まった。撮影は3月初めに始まり、1カ月で完成して、4月18日に封切られた。
物語は――坊主頭で盲目のやくざが、下総飯岡の貸元助五郎の所へ草鞋を脱いだ。名は市という。
ツボ振りでも居合い抜きでもたいした腕だった。それを見込んだ助五郎は市を客分扱いとした。
市は釣りで、病身の浪人、平手造酒と知り合い、心を通わせた。しかし平手は助五郎と対立している笹川親分の客分だった。
やがて二人は友情をいだきながらも対決し、市が勝つ。しかし虚しい勝利だった。市は、彼を慕う娘おたねを避けて去っていく。
製作時点では「座頭市」はこれ一作の単発の企画だった。しかしヒットしたことで続編製作が決まる。
以後、1989年の『座頭市』まで、合計26本の劇場用映画が作られ、100本のテレビ映画も作られる、勝新の代表作となった。
■大映倒産後、映画からテレビに進出する
1960年代後半、大映の経営は悪化し、マンネリ覚悟で、観客動員が見込めるシリーズものしか作らなくなっていく。
勝新は「悪名」「座頭市」に続いて、1965年には「兵隊やくざ」もヒットして、第三のシリーズとなった。
大映を勝新とともに支えた市川雷蔵は1969年に37歳で死んでしまった。
残された勝新は2年間、ひとりで大映を支えたが、1971年12月に大映は倒産した。
以後、勝新は1967年に設立していた勝プロダクションで映画を製作し、東宝が配給した。勝新は主演するだけでなく、プロデューサーであり、そして監督もするようになった。
その東宝との関係も1974年に終わり、以後はテレビ映画に活路を見い出した。
テレビ版『座頭市』で勝新は監督もした。その演出は、脚本を無視してその場で即興的に作っていくというもので、ストーリーはあってないようなものになっていった。
「勝新は天才だ」ということになる。
そのテレビ映画版『座頭市』も、100本作ると終わった。
■巨匠・黒澤明『影武者』降板が運命の分かれ道
そこに、巨匠・黒澤明の新作『影武者』で主演しないかとのオファーが来て、勝新は快諾した。だが、この巨匠と大スターは撮影初日に決裂し、勝新は降板させられた。
ここから、この大スターの運命は狂っていく。
1980年秋、日本テレビからのオファーで刑事もの『警視-K』を勝プロで製作し、主演したが、実験的・前衛的過ぎて視聴率は低迷して打ち切られた。
1981年には勝プロが倒産してしまう。
1980年代の勝新太郎は誰もが知っている有名人だったが、映画俳優としては83年の『迷走地図』と、特別出演的な88年の『帝都物語』だけで終わろうとしていた。
■三度目の座頭市ではひとり四役を担う
一方、1980年代なかばからのバブル景気で、儲けすぎた企業は、映画製作に資金を出すようになっていた。
勝新にも、都内にディスコやカフェバーといった最先端の店や焼肉屋を展開していた「三俱」という企業から、座頭市を撮らないかという話が来た。
勝新は「座頭市」の決定版を作る意欲で、製作・脚本・監督・主演のひとり四役を担うことにした。
1988年の初めに企画としてはスタートし、勝新はシナリオ制作に取り掛かっていた。しかし完成しない。
半年が過ぎると、配給する松竹から「これ以上待てない」と打ち切りを示唆してくるので、とりあえず形だけのシナリオを作り、三俱と松竹に見せ、見切り発車した。
撮りながら考えればいいという、失敗が目に見えている勝新流の撮り方をするしかない。
テレビの『座頭市』でその撮り方が通用したのは、大映京都撮影所時代の仲間の映像京都のスタッフを使えたからだったが、それから10年が過ぎていた。
今回は日活撮影所を使うことになり、これまで勝と組んだことのないスタッフとの仕事となった。
■取り返しのつかない事故が発生
シナリオなどあってないようなもので、その場での勝新の閃きで撮っていく方法についていけるスタッフなど、日本中にもはやいない。
そんな環境だったことも背景にあり、12月26日、広島県福山市でのロケで事故が起きた。
殺陣のリハーサル中、勝新の息子でこれが映画デビューとなる奥村雄大が持っていた日本刀が、子分役の俳優・加藤の首に触れた。
助監督が真剣を渡し、それが真剣であることを伝えなかったことでの事故だった。
山の中だったので救急車を呼んだのでは間に合わない。病院へ運び込むが、すでに4000ccも出血していた。
29日に、真剣を使ったことでの事故と発表されると、非難轟々となった。監督でもある勝新への批判が高まる。
映画製作を中止すべきとの声も上がった。公開を危ぶむ見方もあった。
撮影は事故の起きた立ち回りのシーンを残すだけだった。勝は俳優の家族に頭を下げ、撮影を続行して映画を完成させることが決まった。
年が明けて1989年1月7日、昭和天皇が亡くなった。
『座頭市』の公開は2月4日と決まっているが、まだ撮影は終わらない。11日、負傷した俳優・加藤幸雄は亡くなった。18日、すべての撮影は終わった。
徹夜で編集して、31日に完成させ、予定どおり、2月4日に『座頭市』は公開された。
皮肉にも事故のことが大々的に報じられたのがいい宣伝となり、封切られると、「座頭市」シリーズで最大の観客動員と配給収入となった。
昭和戦後のヒーローのひとり座頭市は平成になっても人気があった。
松竹は第二弾の製作を決めた。しかし、松竹は配給するだけで製作費は勝新が自分で集めなければならない。
■パンツの中に隠したマリファナとコカイン
勝新は『座頭市』で復活したかに見えた。
1989年には『浪人街』(黒木和雄監督)に出演し、90年2月に封切られる予定だった。
大きなテレビコマーシャルの仕事も来た。
キリンビールが「キリンラガービール」の大規模なキャンペーンをすることになり、1990年1月から一年間、ドラマ仕立てのコマーシャルフィルムを放映するという企画だ。
作・演出はつかこうへい、ある一家の日常を描くもので、勝が父、その後妻に松坂慶子、長男に安藤輝彦、長女に手塚理美、その夫に国広富之、次女に富田靖子、その夫に藤井尚之が起用された。このキャンペーンが始まれば、勝の姿が毎日テレビに映ることになる。
この時点では、本人も周囲もまだまだこれからも映画に出るつもりだった。
1990年が明けると、勝新はハワイへ静養に出かけた。16日にハワイに着くと、空港の税関で、マリファナとコカインをパンツの中に隠し持っていたとして、麻薬密輸入の容疑で逮捕された。
放映開始されたキリンビールのコマーシャルは1日で打ち切りとなった。『浪人街』は2月公開予定だったが、配給する松竹は延期を決めた(8月18日に公開)。
松竹は「座頭市」から手を引いた。
■未完で終わった俳優・勝新太郎
勝新太郎が掴みかけた栄光は露と消えた。この年、59歳。再起はできるのか。
「もうパンツは、はかない」「総理大臣の代わりはいるが、勝新太郎の代わりはいない」などの名言・迷言が伝えられ、ワイドショーや週刊誌のネタとなった。
豪放磊落(ごうほうらいらく)で破天荒な生き方をした「役者バカ」としての言動が伝説となり、拡散していった。
しかし、俳優としての勝新を使おうという、度胸のあるプロデューサーや監督はいない。
1990年公開の『浪人街』が最後の映画となり、1997年6月20日、勝新太郎は67年の生涯を閉じた。
生涯に出演した映画は193(カメオ1作含む)だった。そのうち、大映倒産の1971年までが178本で、残りの26年間で撮ったのは15本に過ぎない。テレビの『座頭市』や舞台の仕事もある。
名声というか知名度は高かったし、みんなから愛されたが、映画俳優としては不遇だったと言える。
まぎれもなく天才だったが、映画黄金時代には、ひたすらプログラムピクチャーに出るしかなく、名作と出合えなかった。
最大の当たり役・座頭市は勝新の代名詞となったが、それ以外の作品を生めなかった。
同世代のライバル・市川雷蔵はその短い生涯ゆえに「未完の生涯」ではあるのだが、多くの役を演じ、演技も評価され賞も得た。死後も人気はあり、俳優人生は完璧なまでに完成している。
67歳まで生きた勝新太郎の俳優人生のほうが、「未完」だったように思えてならない。
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中川 右介(なかがわ・ゆうすけ)
作家
1960年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、2014年まで代表取締役編集長として雑誌『クラシックジャーナル』ほか、音楽家や文学者の評伝や写真集の編集・出版を手掛ける。クラシック音楽はもとより、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガなどにも精通。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、歴史に新しい光を当てる執筆スタイルで人気を博している。
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(作家 中川 右介)