引退会見に臨んだ西武・松坂大輔【写真提供:西武ライオンズ】

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2008年の右肩痛で「自分が求める球は投げられなくなった」

「僕みたいな選手は他にいないかもしれませんね。最初の10年でいい思いをしたけれど、後半は同じくらいどん底を味わいました」。西武の松坂大輔投手は19日、本拠地・メットライフドームでの引退試合(日本ハム戦)前に球団事務所で記者会見に臨み、23年間の現役生活を振り返った。“平成の怪物”は、相次ぐ故障に見舞われボロボロになってもなお投げ続けたのはなぜだったのか。

 確かに、現役生活の前後半は対照的だ。日米通算170勝(108敗)をマークした松坂だが、そのうち141勝(75敗)は新人時代の1999年から2008年までの10年間に挙げている。

 苦闘の始まりはメジャー移籍2年目、レッドソックス時代の2008年だった。「5月か6月のオークランド遠征中、ロッカーからブルペンに向かう途中、足を滑らせて、ポールをつかんだ瞬間に右肩を痛めてしまいました」。同年オフに状態が悪化。以降は「投球フォームが大きく変わりました。痛くない投げ方や、痛くても投げられるフォームを探し続けました。自分が求めるボールは投げられなくなりました」と振り返る。

 2015年にはソフトバンクと3年12億円の大型契約を結び、日本球界に復帰したが、右肩を内視鏡手術。3年間で1軍登板はわずか1試合に終わった。2018年に中日に移籍し、6勝を挙げてカムバック賞を受賞したが、翌年以降は白星を挙げることができなかった。14年ぶりに西武に復帰した昨年は首の痛みと右手のしびれに襲われ、7月に脊椎内視鏡手術を受けたが、症状に大きな改善は見られなかった。

現役後半は批判受けるも「跳ね返してやろうとやってきた」

 かつての剛速球は2度と投げられないとわかっていても、松坂は12年間に渡ってあがき続けた。歴代最多の通算868本塁打を誇る王貞治氏(現ソフトバンク球団会長)は、シーズン30本塁打を放った1980年に「王貞治のバッティングができなくなった」と名言を残しバットを置いた。

“昭和の怪物”と呼ばれた江川卓氏は13勝5敗、防御率3.51の好成績を残した1987年に「自分本来の投球ができなくなった」として引退した。ボロボロになっても現役にこだわった松坂の生き様は、先人の美意識とは対象的に見える。

 松坂自身「もっと早く、辞めてもいいタイミングはあった」と認める。「(現役後半は)叩かれたり、批判されることの方が多かったけれど、それを力に変えて、跳ね返してやろうと思ってやってきた」という負けん気が原動力の1つではあった。新人時代、当時ロッテのエースだった黒木知宏氏と投げ合って負けた際に口にした「リベンジします」という言葉は、その年の新語・流行語大賞を受賞。松坂の現役生活を象徴する言葉でもあったと言えそうだ。

 そして、もう1つ。松坂には横浜高3年の夏の甲子園で、強烈な成功体験を得た。PL学園との準々決勝で何度も敗戦の危機に瀕しながら延長17回の末、9-7で勝ち切った。松坂は250球で完投した。「あの試合があったから、最後まで諦めなければ報われる、勝てる、喜べると信じることができた。あの試合が原点でした」。

 栄光だけではない。不遇の12年間を戦い続けることができたのも、平成の怪物ならではだったのだ。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)