新型コロナのパンデミックによる経済的社会的ダメージの痕跡は根深い(写真:kasto/PIXTA)

新型コロナ危機を「有事」と捉えつつ、こうした感染症危機に際しては、国家が「総力戦」で対応するべきという理論を提示した書『感染症の国家戦略 日本の安全保障と危機管理』(阿部圭史著)が、このたび上梓された。
本稿では、「感染症」に関する国際協調に詳しい国際政治学者の詫摩佳代氏が、同書を読み解く。

国際標準の感染症危機管理を理論化

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックが宣言されてから1年半が過ぎた。2021年10月初旬時点で、ワクチン2回接種を終えた人の割合は人口の6割を超え、短い期間に多くの人にワクチンを行き渡らせた一方、幾度にもおよぶ緊急事態宣言とそれがもたらした経済的社会的ダメージの痕跡は根深く、また医療提供体制や緊急時の指揮命令系統のあり方など、多くの課題を残した。総じて日本には、パンデミックに対する備えと緊急時の危機対応能力に関して、改善されるべき多くの課題があることが明らかになったと言えよう。


それでは具体的に、どのようなシステムを目指し、何を改善すればよいのだろうか? この問いに答え、詳細な展望を示してくれるのが本書である。著者の阿部圭史氏は医師であり、厚生労働省では2013年のH7N9鳥インフルエンザ・アウトブレイク、2014〜2015年の西アフリカを震源地とするエボラ出血熱アウトブレイク、2015年のMERSアウトブレイクの事態対処にあたり、また平時のプリペアドネス(事前準備行動)にも一貫して関与してきた経験を持つ。2021年春まではWHOに勤務、2019年のコンゴ民主共和国でのエボラ出血熱アウトブレイクにおいては、WHO本部で事態対処行動の副官を務め、今回の新型コロナパンデミックにも対応にあたった経験を持つ人物である。

感染症危機管理の現場で、これほどのキャリアを持った日本人を見つけることは容易ではなく、阿部氏の貴重な経験が、本書の端々に活かされている側面も興味深い。

著者自身、自らの経験を踏まえ、日本とそれ以外の組織の危機管理体制の違いを認識したことで、国際標準の感染症危機管理を理論化して、日本に伝える必要を認識したと述べている。

指揮統制の機能不全とコミュニケーションのプロの不在

ざっと本書の概要をみておこう。まず日本の危機管理能力について、地震や水害等、日本がよく経験してきた自然災害に関しては、高い水準を保っていると評価しつつも、新型コロナや福島原発など「国外の要素が多分に関与する事案に対しては、確固たる戦略を構築しつつ、高い能力を発揮できているとは言い難い」(同書「はじめに」p.ii)と指摘する。そして、日本の感染症危機管理の課題としては概して、国家的な指揮統制の機能不全と、国内外におけるコミュニケーションのプロの不在、という2点に集約できると指摘する。

本書では危機管理のあり方を緊急時の危機的対応と、平時からのプリペアドネスの大きく2つに分けて論じる。まず前者に関しては、感染症の危機には敵(ウイルス)との相互作用が生じ、国家的危機に発展する可能性が高く、統率のとれた国家的規模の事態対処行動が要求されるという点で、軍事分野の危機と似ていると指摘する。そして感染症危機管理にあたっても、文官による日常の延長ではなく、事態対処行動における指揮統制等において軍事的概念を用いる必要があると指摘し、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)のような、指揮統制を機能させるための危機管理センターの設置が求められると述べる。

また、危機管理システムにおいては平時と危機時の対応をわけ、危機時の対応には非文官を登用する必要性を訴える。実際、アメリカでは保健福祉省とCDCにおいて、制服軍人が危機管理組織の重要な一角を担っていることを紹介し、またWHOでも危機管理組織と非危機管理組織が明確に分割されていることを紹介している。

一方の日本では、感染症の危機管理組織である厚生労働省の下に、大規模な危機発生時には対策本部が設置されるものの、平時との区別がほとんどなく、危機時においても業務の優先順位づけが明確になされないため、危機時には単純に業務量が激増し、危機対応に必要な人員と労力を割くことができないと指摘する。さらに、危機管理行動においては軍事行動と同様、大戦略レベル(政府)・戦略レベル(関係省庁)・作戦レベル(都道府県と市町村)・戦術レベル(医療機関や保健所)という4階層に区分し、各レベルが、明確な指揮系統と適切なコミュニケーションの下、一致団結して行動する必要性を説く。

感染症危機管理においては、戦略指揮官個人の素質も重要だと述べる。すなわち医学・公衆衛生分野の専門知識に加え、法律知識、国際的能力、統治機構の知識、軍事的思想の5つの素養として備えている必要があり、また、広く感染症危機管理経験を積んでいることが必須だと述べる。

感染症危機対応には以上のような緊急時の危機的対応に加え、平時の備え(プリペアドネス)も必要だと指摘する。「実際に脅威が発生する前の事態準備行動によって事態対処行動の方向性が8割方決まり、危機が生起してから初めて一から考えて泥縄で対処したのでは、その時点で8割方失敗している」(同書p.186)として、平時の備えこそが危機的対応の基盤となると主張する。そのうえでヒト(人材育成と人的サージキャパシティの整備など)、モノ(危機管理医薬品の整備、輸入先の多元化、医療提供体制の整備など)、財源の整備、法整備、緊急時を想定した訓練など、多様な角度からプリペアドネスの詳細を語っている。

総じて、日本の感染症危機管理のあり方について、具体的なモデルを提示している。本書からは多くの現場を経験した著者ならではの、現実味あふれる提言も数多く見られる。一例を挙げれば、実際の危機対処にあたる人は、総じて多忙になり、判断が鈍りがちになり、意欲も減退しがちだと指摘する。そのような中、「食料の差し入れがあったり、温かい料理を食べることができると、幸福感が倍増するし、意欲も張って作業効率も上がり、新たな戦略的アイデアも湧いてくる」と危機管理現場で働く人々の環境づくりを重要な要素として挙げている。

国際協調がスムーズにいくとは限らない

他方で、いくつか考えさせられることも少なくなかった。第1は、感染症危機管理と軍事的危機対応を同一の俎上で語ることで、逆に見えにくくなる部分があるのではないかということだ。本書は一貫して、感染症危機管理における軍事的思考の必要性を説く。感染症のインパクトの大きさを踏まえれば、その危機管理に軍事的思考が必要であることは否定の余地はない。

一方で感染症危機管理には、特有の細やかさが求められる局面も少なくない。敵味方が明確に分離される戦争では、味方陣営の協力は比較的スムーズにいく。第2次世界大戦中の連合国陣営では、食料や軍事物資、公衆衛生に関する協力が驚くほど進展した。共通の敵に対して、同じイデオロギーを信奉するもの同士が結束しやすい局面もあるし、結束することが勝利という利得につながるからである。

他方、感染症の場合はより複雑である。ウイルスを人類共通の敵と見なすことが可能かと思いきや、新型コロナのような世界同時多発的危機に際しては、国際協調がスムーズにいくとは限らない。2021年春、韓国がアメリカに対して、ワクチンスワップを提案してアメリカに拒否された事例、またインドが国内の感染爆発を受け、アフリカや周辺諸国へのワクチン輸出を停止した事例はその好例を言えるだろう。相手が憎くて協力を拒むのではなく、皆が自国の対応で精一杯で、協力の余地が狭まるがゆえに、協力しにくくなる。

このような特徴を踏まえれば、感染症の危機管理に際しては、戦争にはない狡猾さが求められるし、また、共通の敵と効率よく闘うための、国際的な危機管理システムの整備も必要となるだろう。

複数の専門家から出される知見をどう調整するか

このほか、感染症危機管理は戦争に比べると、関与するアクターが多くなり、指揮系統が一層複雑化する可能性もある。すなわち感染症危機管理においては、公衆衛生や経済、国際関係、法律など複数分野の専門家の知見が必要とされ、彼/彼女らの共同作業を行う場面も少なくない。その際に、複数の専門家から出される知見をどう調整するのかという問題に直面することになる。

殊に民主主義国では、専門家に限らず、さまざまな利益団体や国民の声を危機管理に反映させざるをえない。新型コロナ対応においても、例えば緊急事態宣言の発出の可否を巡って、あるいは解除の時期をめぐって、さらにはロックダウンの是非を巡って、多様なアクターの間で相異なる意見が出された。多様な意見をどうすり合わせていくか、この中で、どのように指揮系統を確立していくのかという、戦争にはない難しさが感染症の危機管理には付きまとうのではなかろうか。

本書を読んで考えさせられた第2のポイントは、本書で展開されている「〜すべき」論を、いかに日本で実行に移すか、という点だ。著者は今後の危機対応に求められる人材像として、医療に加え、政治経済など、複数の専門知を備えた人材の必要性を指摘する。一人の人間が複数の専門知を兼ね備えるためには、日本の教育システムにもメスを入れる必要が出てくる。

また、危機時の対処に当たっては「人事の常道や平時の年功序列制(Seniority system)を脇に置き、指揮官が個人的に信頼できる危機時の有能な部下を躊躇なく強引にでも引き抜き、個人的信頼関係に基づいた強固かつ有機的に団結したチームを編成し、事態対処行動を行わねばならない」(同書p.289)とも述べている。このためには日本の公務員制度にも、大胆な改革が求められることになる。

さらに本書を読んでいて気付かされるのは、感染症危機対応のための制度を整えることと、それをうまく機能させることは、必ずしも同一ではないということだ。著者は感染症危機管理の組織モデルとして、アメリカのCDCにたびたび言及し、CDCが軍を模倣した細分化されたシステムであることを説明している。一方で、そのような理想的なシステムを備えたアメリカが新型コロナパンデミックで、世界最大の感染者数を出すことになったのはなぜなのだろうか、と考えさせられるのである。

またWHOに関しても、感染症危機時には、平時の組織とは切り離された参謀組織が起動すると説明されている。そのようなシステムを兼ね備えた組織が、なぜ、新型コロナ対応で世界的な非難を浴び、外部の調査パネルが立ち上げられるに至ったのだろうか。おそらく大戦略のレベルで、優れたリーダーシップを伴わなければ、制度はうまく機能するとは限らないということなのだろう。アメリカは優れた危機管理システムを備えながらも不幸にも、実際の危機が生じたとき、科学を軽視し、専門家を非難する人物が大統領だったわけだから。

何が危機管理のボトルネックだったのか

危機で味わった痛みは、不思議なことに時間と共に、忘れ去られる部分も多い。しかし、感染症はこれが最後ではない。近年、気候変動や都市化、ポピュリズムと連動した反ワクチン運動等を理由として、数々の新興・再興感染症が途上国のみならず、先進国でも頻繁に見られていることを踏まえれば尚更である。すなわち、感染症の脅威は今後も持続的に続くと考えたほうがいい。

2021年10月に就任した岸田文雄内閣総理大臣は、その所信表明演説で、「これまでの対応を徹底的に分析し、何が危機管理のボトルネックだったのかを検証します。そして、司令塔機能の強化や人流抑制、医療資源確保のための法改正、国産ワクチンや治療薬の開発など、危機管理を抜本的に強化します」と述べた。その過程においては、本書が間違いなく、参照されることだろう。同時に、制度の運営には優れたリーダーシップが伴わなければならないことも、忘れてはならないだろう。