『創意に生きる 中京財界史』(城山 三郎)

 城山三郎(当時の著者名は本名の杉浦英一)の処女作。20代の若き日の著者が慶応年間から昭和初期までの中京地域に現れた企業家の歴史を丹念に辿る。

 当時のアメリカでの企業者史研究に基づいて、著者は経済人を(1)創意の人、(2)模倣者、(3)現状維持者、(4)怠惰者の4タイプに分類している。いつの時代も経済のエンジンを担うのは「創意の人」だ。彼らが起点となり、その成功を「模倣者」が追随し、競争が生まれることによって経済発展が生まれる。

 明治維新後の近代化する日本にあって、武士階級の多くは「現状維持者」だった。本書の冒頭で紹介される慶応年間の「紅葉屋斬込み事件」は象徴的だ。藩財政の窮乏に苦しむ尊王攘夷派の藩士150人が金鉄組という徒党を結成、「物価騰貴は洋物輸入から起こる」とばかりに輸入商の紅葉屋に廃業要請をする。紅葉屋は表面的には要請を受け入れ、金鉄組に500両を握らせて手持ちのストックを売り尽くすまでの営業継続の猶予を願う。その日の閉店後、紅葉屋は直ちに「洋物の商いが差し止められる」と宣伝して回った。洋物を求める客が殺到する。その後も紅葉屋は廃業予告を逆用しながらも、こっそり横浜から仕入れ、洋物を売り続けた。盛況を極める紅葉屋に激怒した金鉄組は店に斬り込み、商品を破壊する。ところが紅葉屋はすぐに横浜に急行して仕入れ、営業を再開。この事件によって紅葉屋の名前は広く知られ、遠方からも取引の申し込みが相次いだ。現状維持者のあがきがかえって新興商人の繁盛を助けることとなった。明治10年代には「武家の商売」の大半は破綻の憂き目を見た。

 一時の商機をとらえて成功しても、不況になると「怠惰者」は脆い。明治期に大銀行となった北浜銀行の名古屋支店長中西万蔵は名古屋で1台しかなかった自動車を乗り回し、十円札をろうそく代わりに燃やすという派手で享楽的な人物だった。広小路に「八層閣」という高層ビルを建て、名古屋の芸者のほとんどを動員して豪華な竣工披露宴をとり行った。直後に第1次世界大戦勃発にともなう経済混乱が押し寄せる。旧支店から引っ越しが済まないうちに北浜銀行はあっけなく破綻した。

 明治14年に始まる松方財政のデフレ政策は政府と密接な関係にあった政商の保護に傾いた。官営工場の払い下げは政商たちに大財閥を築かせる契機となった。ところが、保守的で慎重な名古屋の財界人は中央政界と距離を置いていた。名古屋の企業家には中央の財閥のような貪欲さがなく、この時期に飛躍の機会を逸することとなった。

 しかしそうした中にも果敢にリスクを取る企業家が登場する。本書の主要な登場人物の一人である奥田正香はその代表格だ。奥田は相手が首相でも頭を下げなかった。「とりあえず頭を下げておけば済む」という姑息な根性を軽蔑した。はっきりした価値基準の持ち主で、相手や状況にかかわらず、自分の信念に従って行動し、実力だけで人間を評価した。封建的土壌には珍しい近代人だった。

 奥田正香は明治29年に明治銀行を設立すると、すぐに日本車輛製造株式会社を創業している。当時、鉄道敷設計画が全国で進んでいた。名古屋が木材集散地であることに注目した奥田は鉄道車両の製造を思いつき、広大な工場を建設する。すぐに他社も参入するが、投資に次ぐ投資で競合企業を蹴散らす。日露戦争後の鉄道拡張で日本車輛は空前の大好況となった。それ以外にも名古屋電力、東邦瓦斯、三重紡績といった中京経済の主要企業を傘下に持ち、「奥田のイキがかからぬ会社は、名古屋では成り立たない」とまで言われるようになった。

 奥田をドンとして、それに続く若い世代からは独自の志を立てた創意の人が次々に出てきた。その筆頭が後のトヨタの祖業を興した豊田佐吉だ。木製人力織機の開発に成功し、名古屋に移ってきたのが明治29年。三井物産の資本を受けて合名会社井桁商会を創業する。

 ところが、技術に没頭する佐吉は営業を優先する三井物産と衝突する。研究開発のための十分な時間と資金が認められない。佐吉はやむなく井桁商会を飛び出して豊田商会を興す。その後、豊田商会は豊田式織機株式会社へと発展し、明治41年の広幅鉄製織機は好景気を受けて大ヒットとなる。しかし、紡績業界が反動不況になると経営陣と再び衝突。ついに明治43年、常務であった佐吉は突然解任される。

 傷心の佐吉はアメリカ大陸横断の旅に出た。先進国のアメリカの織機は彼のものと比べて回転数は低く、振動が激しく、故障も多かった。これで自信を取り戻した佐吉は在米中にアメリカでの特許を申請している。

 2度の挫折を経て再起した佐吉の豊田式自動織機は世界を席巻する。昭和に入ると、世界最高の技術を誇っていたイギリスのプラット社が特許権譲渡を申し込むまでになる。特許権使用料は100万円。名実ともに世界最高の評価を勝ち得た。

 佐吉の死後、後を継いだ喜一郎はこの100万円を元手に国産自動車の試作に乗り出す。当時の日本には自動車国産化の機運があり、名古屋でも名古屋商工会議所を中心に大隈鉄工、愛知時計、日本車輛、岡本自転車がドイツ製自動車を手本に分担試作に乗り出した。これに対して、喜一郎は独力で自動車試作を進め、ついに昭和10年に純国産車第1号を完成させた。今日のトヨタ自動車の原点である。

 豊田佐吉は現在も語り継がれる企業家だが、彼だけではない。その後歴史の中に埋もれた同時代の創意の人を本書は数多く取り上げている。例えば鈴木政吉。三味線職人の政吉は自然と音楽が好きになり、愛知師範学校の音楽教師に唱歌を習っていた。そこで三味線に似ている洋楽器、ヴァイオリンに遭遇する。見様見真似で作った政吉のヴァイオリンは名古屋のハイカラの間で評判になる。自分のヴァイオリンの出来はどの程度のものか。政吉は上野の東京音楽学校の外国人教師を訪ねて試奏してもらうと、「タイヘン、ケッコウデアリマス」。

 自信を得た政吉は、林という資本家から資金を調達し、量産に踏み切る。しかし突然林から、「林ヴァイオリン」に社名を変更しろ、いやなら貸金を返済しろ、と迫られる。ものづくり一筋の政吉は豊田佐吉と同じような苦境に陥った。政吉は社名変更を突っぱね、工場を閉鎖、職工全部を解雇し資金を返済する。ところが、解雇した職工が政吉のもとに集結する。「賃金はいらないから生産を始めよう」――ほどなく量産が軌道に乗り、鈴木ヴァイオリンはロンドンの日英博覧会で絶賛を浴びる。鈴木ヴァイオリンは発展を遂げ、第1次世界大戦が終わるころには欧米で知られるブランドになった。

 佐吉がアメリカに、政吉がイギリスに渡ったのと同時期に、岡本松造はイギリスのコベントリーにいた。明治の先進的な若者の目を惹いたのは自転車だった。自転車の部品製造で起業した松造はやがて自転車本体の製造に乗り出す。しかし、十分な工作機械がなく、形だけはできても耐久性がない。10年間苦闘した挙句、世界第一の自転車生産拠点コベントリーを訪れたのだ。英語はまるで分らない。車体製作の技術を知りたい一念で、勝手に工場の中に入ってひたすら車体製作の現場を見つめた。コベントリー滞在50日で松造はすっかり技術とノウハウを見極め、自転車国産に向けて確固たる自信を得た。

 ものづくりだけではない。明治の名古屋では、「美濃万」という洋服商がモダンボーイたちのたまり場になっていた。常連の一人が青木鎌太郎。洋服を着こなして自転車を乗り回す開明的な若者だった。神戸でドイツ人が経営している商館に入り、貿易実務を習得した鎌太郎は、28歳のとき愛知時計の創業者に見込まれて支配人になる。貿易の才覚をいかんなく発揮し、愛知時計の中興の祖となった。

 本格的な評伝と比べれば一人一人についての記述はあっさりしている。もともと中部経済新聞の連載記事だったこともあって、構成はまとまりを欠く。しかし、本書の醍醐味は多種多様な創意の人々が織りなす群像劇にある。自己の情熱と才能だけを恃みに頭角を現し、また失意のうちに挫折する企業家たちの姿を通じて、明治大正期の日本のダイナミズムを鮮烈に描くことに成功している。

 VUCA――Volatility(変動性)・Uncertainty(不確実性)・Complexity(複雑性)・Ambiguity(曖昧性)――の時代だという。それはそうなのだが、今に始まった話ではない。いつの時代も人々は「今こそ激動期!」と言ってきた。メディアで「今こそ平常期!」という言説があったためしはない。経済と商売に限って言えば、いつでもどこでも「激動期」というのが本当のところだ。

 本書を読んでつくづく思う。明治維新から昭和初期の企業家が経験した変化や不確実性、複雑性、曖昧性は今日の比ではなかった。明治維新はもちろん、世界大戦や日露戦争、それに伴って押し寄せる好不況の波の中でのVUCAは現在のそれとは桁が違う。企業家は極端なVUCAにどのように対応し、どう乗り越えていったのか――若き日の城山三郎が今に伝える創意の列伝は今日の経営者に勇気と洞察を与えてくれる。