「彼岸花が咲く島」「貝に続く場所にて」で第一六五回芥川賞を受賞した両氏の初対談。

 互いの作品、創作における過去と未来の捉え方、当事者性について──。


「文學界 11月号」(文藝春秋 編)

■色彩と描写

 石沢 対談をするのは初めてなので、とても緊張しています。李さんの作品は『五つ数えれば三日月が』、『星月夜』、そして『彼岸花が咲く島』を拝読しました。母国語ではない日本語で書かれているだけでも素晴らしいのですが、その評価枠を超えていると思います。ご自分の言葉、表現、言語体系を作られて書かれていると思います。『彼岸花が咲く島』はいままでの作品とは文章のリズム、そして作品に漂う色彩感が異なるような気がします。まるで口承文学のように、語り手が波や風など自然の音に合わせて伝えていくリズムがある。次に色彩についてですが、過去作では東京や台湾を描いていて、硬質でありながら繊細で、ガラスのようなしなやかさと強さを感じました。ですが、今作ではもっと自然に寄り添った、植物的な色彩がある。新しい表現を獲得されたのだなと思いました。

 さらに言語の流動性についての視点も興味深いです。様々な出自の人や文化が集まると、当然言語的な変容もみられますよね。例えばドイツでも、トルコからの移民が多いので、若い世代のドイツ語にもトルコ語が混ざっていることがあります。今挙げたのは小さな混ざり合いの一例なのですが、李さんの小説では言語の流動性が、ある土地や特別な文化圏においてどのように実を結ぶのかを扱っていると思いました。そして、その特殊状況に民俗学的な構造を与えて、過去から未来へと時間を語っている。ノスタルジックな構造はディストピア小説でもとても重要な機能ですが、行き止まりという時間の停滞を強く意識させます。ですが、この島には流れる時間性がある。そこに、李さんの文字や言葉遊びの感覚、そして情緒的な慈しむ眼差しがあふれて、本当に素晴らしいと思いました。

 李 ありがとうございます。私も石沢さんとの対談、すごく緊張しています。芥川賞のスピーチでも思いましたが、石沢さんの日常的な言語の語彙はものすごく広いですよね。そして『貝に続く場所にて』を読ませていただきましたが、こんな文章を私は生涯かけても書けない。たとえば1ページ目にある「その光線は色彩を鮮やかにしながらも、同時に全てを白と黒に還元してゆく」という文章に線を引きました。なんでこんな文章が書けるんですか? まずそれが聞きたいと思って。

 石沢 普段から、五感の情報を視覚的に捉えることが多いからでしょうか。昔から音を聞くと、それを色彩で捉えてきました。色彩ではなく映像の断片のこともあります。文字の組み合わせを色で見たりするので、視覚情報が多すぎるんですよね。あと、知識がない分だけ、それを補足するように色彩イメージが後付けで作られているのかもしれません。ドイツに来てから友人とワインを飲む機会が増えましたが、みんなワインに詳しくて、これは松の味だとか、どこどこの土の味だとか言う。それを私の舌は、感じ取ることができない。それで、味に対して感想を聞かれる度に困り果てる。分からないまま味を読み取ろうとしているうちに、色彩の方が入り込んでくる。これは青っぽいとか、これは緑色に少し光がさして黄色っぽいとか、赤の下に暗い青が沈んでいるとかいうふうに。だから、本当はワインの味を分かってはいないんですよね(笑)。

 李 すごい才能じゃないですか。本当に羨ましいです。小説の描写で一番難しいのは、視覚以外の情報を、いかにして言葉で伝えられるかということだと思います。聞いた音や声、声の性質、あるいは香り、それをどういうふうに言葉に落として描写するか、いつも四苦八苦しながら書いています。私はワインはあまり飲まないけれども、食べ物の匂いとか味とか、そういうのも色彩に置き換わるって、天賦の才としか言いようがない。本当に作家に向いていると思います。

 石沢 ですが、色彩の感覚は限定的なものなので、あまりそれに頼り過ぎるのもどうかと考えたりもします。そして、この視覚的な印象に基づく描写は、美術史研究で訓練をしたことで、さらに鍛えられたのでしょう。カタログの解説や論文では、作品内容の描写も欠かせないものとなっています。「どこかに焦点を当てつつも、満遍なく要点を抑えて描写するように」と言われてきたことが、もう身に沁みついているのかもしれません。

 李 石沢さんが芥川賞の記者会見で「絵画の記述描写を練習してきた」とおっしゃっていたのを記事で読み、まさにそれが生きているなと思っていました。読みやすい小説では決してないので、ゆっくり味わわないといけない。読みにくいって、欠点では決してない。小説あるいは文学表現はそもそも色々なものを内包しているし、映像や画像とは違って、文字だけで情報を伝えようとしているから、芸術的な表現を求めようとするとどうしても読み難さが出てくる。ある種の読者はすらすら読める小説を求めるんですけれども、でもそれだけが文学の全てではない。例えば、『貝に続く場所にて』で葉っぱの隙間からこぼれる光を、「蜂蜜の透明感と粘りを湛えて流れ込み、この午後の時間や場所ごとそのまま琥珀の中に閉じ込めようとしていた」と描写するところ。こぼれ落ちる光を、まず蜂蜜というものと結びつけて、さらにはその透明感と粘りというものを持ってきて描写している。ひたすらそういう描写に浸りつつ、その才能に打ちのめされながら読んでいました。

 石沢 ありがとうございます。李さんにそう言っていただけると、少し自信が出ます。李さんは空気というか気配を書くのがとても上手ですよね。ちょっとした言葉で、すごく柔らかく、触ろうと手を近づけてふと止めるような躊躇いや揺らぎの気配を書いている。小説のテーマとしては力強いですが、描写自体はすごく繊細。人工物の繊細さじゃなく、植物的な、しなやかでも決して折れないイメージがあります。あとは、夜の描写がすごく美しいですね。視覚的なものが隠されて、沈んで見えないからこそ、においや音や気配が浮き彫りになる。それを拾い上げて、浮かび上がらせていくのが李さんの描写の力だと思っています。

■距離と特殊性

 李 石沢さんが今回の小説の中で書いているような、距離を測りかねる感覚の書き方もとても繊細だと思いました。記憶との距離、あるいは幽霊となって戻って来た人との距離。どう測ればいいか分からないものを書かれていますよね。

 石沢 距離って、実はとても大事なものではないでしょうか。見えないのに、肌身にじわりとまといつく生々しいものとしての距離。特にコロナ禍になってから、インターネットなどで自分と他のものの距離を無理に押し広げたり、距離があるからこそ捉えにくいものを軽んじたりする傾向が強くなっているように思われます。自分から無遠慮に相手に踏み込んでいくのに、人が踏み込んでくることを嫌がる人たちが多いのかもしれません。今回、震災について書きましたが、こんなにも時間が経って、いまさら書く意味があるのか、と考える人もいるでしょう。でもそういう言い方自体が、既にそれを過去のものと片づけ、単なる主題としてしか見ていない。主題ではあるけれども、それだけに収まらないものが常にある。だから、自分と何かの間に常に横たわる距離と、その認識が反映される距離感について見なおさなくてはならないと、書きながら思っていたんです。

 李 とても同意します。石沢さんの作品を「震災を描く」という大きなくくりで語られることが多いと思いますが、それはテーマではあるけれども、それに留まらないものがあるから書かずにはいられないのだろうと思います。私はセクシャル・マイノリティの人たちを書いてきたんですけど、そうすると本当に毎回、「同性愛が題材ですけれども」と言われる。題材だけれども、本当に書かなければならない現実や切実なものがあるから、書いている。そこはテーマや主題でくくってほしくないなという思いはありますね。

 石沢 震災文学だったりLGBTQ文学だったり、名前は必要でしょうけど、名前だけにとどまってしまうと、その枠組み以外の部分は切り取られ、作品から汲み取られるものも減ってしまいますよね。

り・ことみ 一九八九年、台湾生まれ。二〇一七年「独り舞」で群像新人文学賞優秀作を受賞し、デビュー。二一年『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨新人賞、「彼岸花が咲く島」で芥川賞を受賞。他の著書に『五つ数えれば三日月が』『星月夜』がある。

いしざわ・まい 一九八〇年、宮城県生まれ。東北大学大学院文学研究科修士課程修了。現在、ドイツ在住。二〇二一年「貝に続く場所にて」で群像新人文学賞を受賞し、デビュー。同作で芥川賞を受賞。

この続きは、「文學界」11月号に全文掲載されています。