おろかで無能な藩主。非人道的な政策で島原の乱を引き起こした暗君「松倉親子」の愚行【前編】

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暗君とは、おろかで無能な統治者の事を指します。江戸時代に唯一罪人として斬首になった藩主が松倉勝家(まつくらかついえ)。

松倉勝家の父親の松倉重政(まつくらしげまさ)もまた暗君でした。親子2代にわたって肥前国島原藩(初期は肥前日野江藩)の藩主として、領民を悲惨な運命に導くのです。その結果が島原の乱へ……。

今回は江戸時代の最悪の藩主と言われる松倉親子が、島原の乱の原因を作った暗君と言われる理由について解説します。

島原陣図屏風 戦闘図(秋月郷土館蔵)

藩主となった松倉重政

松倉重政は暗君と呼ばれていますが、島原藩の藩主となる前は名君になると言われたほどの片鱗を見せていました。まずは藩主となる前の松倉重政についてみてみましょう。

活躍が認められて大名へ

父松倉重信は、大和郡山城主の筒井順慶(つついじゅんけい)の重臣として仕えていました。石田三成の懐刀の島左近とともに「右近左近」と呼ばれるほどでした。

父重信の死後、重政は家督を継ぎます。関ケ原の戦いでは単身で参陣して徳川家康に戦功を認められ、大和国五条二見城主となり1万石を与えられました。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)

大名になった重政の働き

ついに大名となった松倉重政は、諸役の免除(夫役や軍役、本年貢以外の租税を免除すること)を行い、商業の振興を図って五条新町を完成させます。領内整備を推し進め城下町を発展させ、商業都市として栄えさせたのです。重政のための祭りが開かれる程に名君の片鱗をのぞかせていました。

松倉重政の暗君への変貌

「大坂夏の陣」で松倉重政は戦功をあげ、キリシタン大名の有馬晴信の領地であった島原藩(この頃は藩の名称は肥前日野江藩)4万3千石に移封となります。この島原藩への移封が、重政を暗君へと変貌させます。

領民からの過酷な搾取

重政は、領民に対して過酷な搾取を始めます。領民の生活を守るべき藩主とは到底思えない、過酷な搾取の原因としては次のようなものがあります。

元々あった原城と日野江城を壊し、新たに島原城を再建築(1国1城制に従うため)。4万3千石にもかかわらず、10万石の藩主に匹敵するような城を築城。検地で領内の石高を実績の倍近くに見積。幕府への忠誠アピールで、分不相応な江戸城改築の公儀普請役(こうぎふしんやく)を請負。幕府へのアピールとして、キリシタンの根拠地ルソン攻略のための遠征準備費用の捻出。

自らの見栄や幕府へのアピールのために領民から異常なまでの搾取を続け、領民の生活は困窮します。また、年貢を納められない農民に対して残忍な拷問や処刑が行われていました。

キリシタンへの厳しい弾圧

当初はキリシタンを貿易のため黙認していましたが、江戸幕府のキリシタン政策に従い弾圧を開始します。そして将軍徳川家光に弾圧の甘さを指摘されると、徹底的な弾圧へと豹変したのです。

キリシタンに対し「吉利支丹」という文字を顔に焼印。キリシタンの指を切り落とすなどの非道な拷問雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンへの残忍な拷問や処刑

キリシタンへの弾圧は、もはや非人道的としか思えない程でした。

前編まとめ

前編では、松倉重政の暗君へと変貌する行動について解説しました。暗君と呼ばれるには十分すぎる、領民への搾取やキリシタンへの弾圧でした。

後編では、父を上回るほどの暗君松倉勝家について解説します。

おろかで無能な藩主。非人道的な政策で島原の乱を引き起こした暗君「松倉親子」の愚行【後編】