裏切り者?名将?築城の天才・藤堂高虎の江戸城縄張りと、石垣に見る驚きの築城術

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戦国時代から江戸時代にかけて、日本各地に数多くの城郭が造営されましたが、その中で「名城」とされる城郭をプロデュースしたのが藤堂高虎(とうどうたかとら)です。

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代表的なものは宇和島城、今治城等の伊予国(愛媛県)や、津城、伊賀上野城等の伊勢国(三重県)といった城郭が挙げられます。

藤堂高虎が手掛けた城郭は、今でも城跡として遺っているものも多く、その名残を感じられるところに「城好き」の間では、彼が「築城の名手」として知られているのではないでしょうか?

藤堂高虎 Wikipediaより

最初に藤堂高虎について、少々触れてみようと思います。

藤堂高虎について

出生地は近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)で、藤堂家は先祖代々、当地の小領主でしたが戦国時代に没落し帰農しています。元服すると近江国の領主・浅井長政に仕えるも、小谷城の戦いで織田信長に敗れてしまいます。

織田信長

やがて近江国を去り織田信長に仕えた時期もありますが、程なく浪人となりました。その後は豊臣秀長を始めとし主君を数回変え、最終的には徳川家康に仕えています。

主君に忠義を尽くすことが美徳とされた当時、このような藤堂高虎の生き方は決して褒められるようなものではなかったでしょう。それが、これまで藤堂高虎の評価が数々の城を手掛けた実績ほどのものではなかったことの要因と思われます。

しかしながら、その緻密な築城術、その規模の大きさ、理にかなった縄張り…それらを通して、「藤堂高虎」という武将がいかに「名将」であったのか、江戸城の構造から高虎の能力を見てみましょう。

藤堂高虎の築城センスが反映された江戸城

徳川家康が小田原征伐の功として関八州を与えられ江戸に拠点を移しました。当時の江戸は武蔵国のへき地と言えるような場所…葦が繫る湿地帯であったと言われます。

徳川家康 Wikipediaより

 

太田道灌が関東統治の拠点として千代田城(江戸城前身)を築城したのは100年以上も前のことで、城はだいぶ風化してしまった状態であったと想像できます。このような場所に「天下の城」を築くのですから、壮大なプロジェクトであったことでしょう。

徳川家康は江戸城の屋台骨とも言える外堀工事と石垣普請を藤堂高虎に命じました。

江戸城外堀

江戸城外堀は城を中心に「の」の字型に伸びています。その総延長は約16km、現在の千代田区と中央区に相当する範囲を網羅していました。この大規模な外堀工事は関ケ原の合戦後に始められ、家光時代の寛永期に完成を見ることになるので、約30〜40年間に渡って行われた大工事であったことがわかります。

外堀の範囲は大名屋敷、武家屋敷、町人街を全て包括しており防御性に富んでいます。また、螺旋状に伸びている外堀から枝分かれするような形で水路が張り巡らされており、物資輸送も効率的に対応できるようになっています。

軍事機能と都市機能を併せ持った縄張りこそ江戸が発展する大きな要素であり、藤堂高虎の築城センスが反映されています。

(左)江戸城石垣(右)熊本城石垣

また、藤堂高虎は石垣からその特徴が見えてきます。上図は江戸城石垣と熊本城石垣を比較したものです。

熊本城は加藤清正得意とする「そり」が特徴的である「武者返し」であるのに対し、江戸城の石垣は高く直線的で水面から30mあります。高石垣の方が防御性に優れている一方で、堀を有する城は地盤が軟弱になる傾向があるため高さのある石垣は造りにくいとされています。

江戸城や伊賀上野城などの石垣が現存しているところに安定的な高虎の築城技術を見ることができます。

江戸が百万都市になり約260年に渡って繁栄を続けたのは、築城の天才・藤堂高虎が全面的にプロデュースした「江戸城」にあったことは言うまでもないでしょう。

今も尚、「東京」が日本の首都であることは藤堂高虎が都市としての「完全な下地」を江戸に敷いてくれたことに他ならないのではないでしょうか。