東京五輪を見ていると、自分のなかに染みついた「弱気」を強制的に自覚させられる。

 グループリーグ第2戦のメキシコ戦を観ながら、18年ロシアW杯のベルギー戦を思い出した、と前回の記事で書いた。実はメキシコ戦で、ロシアW杯のコロンビア戦も思い出していた。

 相手のハンドで開始6分に先制点を奪い、しかも11対10の数的優位に立った。ところが、39分に同点に追いつかれている。ペナルティエリア外での直接FKを、蹴り込まれたのだった。最終的には大迫勇也のヘッドで勝利したが、快勝でも楽勝でもなかった記憶がある。

 メキシコ戦は2点のリードを奪い、相手が退場者を出したのは68分だった。コロンビア戦より状況は難しくなかったが、それでも1点を失い、アディショナルタイムには2対2に持ち込まれそうなピンチもあった。

 ニュージーランドとの準々決勝も、試合前から悪い想像ばかりが膨らんでいた。2000年のシドニー五輪準々決勝が、記憶の引き出しから出てきた。客観的に判断して「勝てるだろう」と思われたアメリカにPK戦へ持ち込まれ、中田英寿が外してベスト4入りを逃した。

 対戦相手との力関係は、アメリカ戦に似ていた。ニュージーランドからすれば、「PK戦に持ち込むことができた」と、ポジティブに考えられる。それに対して日本は、「PK戦に持ち込まれてしまった」という感覚に近かっただろう。僕自身は「格上のチームの負けパターンに陥っている」との不安に縛られていった。南アフリカW杯のPK戦も思い出した。

 僕の心のなかには、負の歴史が刻まれている。追い詰められると、「弱気」が表面化してくる。

 平成生まれの選手たちは違うのだろう。物心がついたころからJリーグがあり、日本はアジアで強国と見なされている。彼らの心には、「世界で勝つ日本の姿」が刻まれている。日本サッカー夜明け前の暗闇を知る僕とは、観てきたもの、触れてきたものが根本的に違う。「PKに持ち込まれてしまった」ことを、そのまま「自分たちは追い詰められている」とは考えないのだ。

 来年のW杯で日本が決勝トーナメントに勝ち上がり、PK戦に臨むことになったとする。日本の選手たちは、試合を観るファンは、日本が負けるかもしれないという思いに捉われないのだろう。PK戦で負けた試合ではなく、勝った試合を記憶のなかから引っ張り出す。そして、「あの試合も勝ったのだから、今回もいけるだろう」と思うことができるはずだ。

 国際試合で勝つことで、苦しんでも勝つことで、歴史が積み重なっていく。プレーする選手も、観衆も、自分たちを信じることができる。目に見えるものではなく、数値化もできないが、自分たちを信じる力はその国を支える大きな力になる。

 準決勝で対戦するスペインは、準々決勝を宮城で戦った。首都圏から出ていない日本よりも移動距離が長い。日本特有の蒸し暑さと、連戦による蓄積疲労を考えても、コンディションは日本に有利では、との予測は立つ。

 しかし、そうした外的要因を跳ねのけ、結果を残していくのが強国だ。それこそが「歴史」や「伝統」であり、「プライド」や「威信」でもある。

 振り返れば日本は、昨秋にアウェイでブラジルを破った。今年3月には、アルゼンチンを下している。自分を信じることのできる結果を残してきて彼らは、強国にひるまないメンタリティを育んできた。そうやって考えれば、スペイン相手にも正面からぶつかり合い、勝利をつかむことはできると思うのだ。