JR名取駅。改札口近くには名取市乗合バス「なとりん号」の案内が貼ってあった(筆者撮影)

東日本大震災10周年を機に東北の太平洋岸をたどるルポは、前回の宮城南部編で岩沼市まで北上したので、今回は北隣の名取市から始める。主に2021年6月11日に取材した記録である。出発点はJR名取駅。この日の第一の目的地は、同市の海岸沿いにある漁業の町、閖上(ゆりあげ)だ。


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名取市内のバス路線網も、民間の路線バスから名取市乗合バス「なとりん号」に移管されている。その中で、最後まで民営で踏みとどまっていたのが、名取市中心部と閖上を結ぶ系統であった。市営となったのは2013年4月1日。震災の約2年後である。

持ちこたえられなかった民営路線バス

閖上も、津波で壊滅した。運転可能な区間でバスの運行を再開しても住民、ひいては利用客が戻らず、運行していたミヤコーバス(宮城交通の子会社)も持ちこたえられなかった事情があるのだろう。宮城交通、ミヤコーバスは宮城県全域に路線網を持っており、津波で営業所やバスが流出するなど、大きな被害を受けている。路線バスの経営自体、どこの会社でも苦しいところを襲った大災害だった。


名取市乗合バス「なとりん号」(筆者撮影)


名取市震災メモリアル公園の慰霊碑(筆者撮影)

JR名取駅前7時50分の名取トレイルセンター行きバスに乗って、その閖上へ向かう。日中でも1時間半に1本程度は走っており、利用客もそれなりに戻っているのか、戻すために運転本数を確保しているのか。かさ上げされた新しい住宅街の人口は増えているそうだが、バスは閑散としていた。

均一運賃ではなく、区間制運賃なのも市営バスにしては珍しい。路線バスだった名残と思われるが、全線乗っても250円と安い。復興途上の空き地が広がりヒバリの鳴き声だけが響く、震災メモリアル公園で下車。慰霊碑に手を合わせる。新しい閖上の町の「まちびらき」が行われたのは、被災から8年後の2019年5月26日だった。ここの名物と言えばカレイだ。改めて食べに訪れ、漁港の復興を感じたい。

閖上から先、どう進むかが思案のしどころだった。北側を流れる名取川の向こうは、もう仙台市若林区。「なとりん号」も仙台市バスも、市境は越えない。行政にとって市境は国境にも等しい。大きな需要への対応に迫られない限り、越境する公営バス路線は設定されないものだ。


仙台市バス中野バス停(筆者撮影)

閖上にいちばん近い仙台市バスのバス停は中野。スマートフォンを駆使してルート検索すると徒歩30分ほどだ。汗だくになって急ぎ、なんとか9時28分発のK500系統交通局前行きに間に合わせた。路線図を眺めて、できるだけ海に近いルートをたどる約束だが、やはりバス路線は仙台市中心部から放射状に延びるものばかり。わずか7分で着いた六郷小学校前で降り、10時16分発の512系統長屋敷経由荒井駅行きに乗り継ぐ。

海岸から5kmは離れており、穀倉地帯の中の集落との印象の藤田バス停の側に、津波の浸水域を表す標識を見かけ、認識不足を再び思わされる。何度、被災地へ取材に来ても感じることだ。すぐ近くを通っている仙台東部道路の盛土が防潮堤代わりとなって津波を食い止めたそうである。しかし、見渡す限りの平坦地。対策がないまま津波が来ていれば、どれだけ被害が大きくなったことか。伊達政宗は、度重なる津波を受けていた海岸部を避け、高台を選んで仙台城と仙台の町を築いている。

荒井駅のバス案内は完璧だけど

いかにもニュータウンの駅といった荒井に10時43分着。2015年に開業したばかりで、同じ仙台市交通局なので、ここには地下鉄東西線の案内はもちろん、路線バスの時刻表、発車案内も完備していた。仙台市バスだけではなく、運転本数は少ないものの、ミヤコーバスの時刻表も掲示されている。これを「珍しい」と言わねばならないのが、残念ながら実情である。


仙台市営地下鉄の荒井駅(筆者撮影)


荒井駅ではバス案内も充実していた(筆者撮影)

MaaS時代ながら、組織の壁を越えた情報提供は、まだまだ不十分だ。全国を旅していて、遺憾ながら鉄道側がバスに無関心な例をよく見る。そう言えば、JR名取駅改札口近くには「なとりん号」の案内が貼ってあったが、場所は名取市が管轄する東西自由通路だった。

その発車案内に助けられて、海岸近くを一巡してからJR仙石線の陸前高砂駅へ向かう、1日3本だけのT18系統が11時29分に出ることがわかった。しかし、バス停名からして見逃すわけにいかない「震災遺構仙台市立荒浜小学校前」へ行く20系統には乗れなくなる。ここは順番を入れ替えて、翌6月12日の土曜日、もう一度、荒井駅から往復した。

20系統のバスには、若者を含めて数人ながらも利用客があった。1時間に1本程度は走る生活路線だが、彼らの目的は震災遺構として公開されている旧荒浜小学校の見学だ。ここは倒壊も免れ、児童や教職員、地域住民など320人の命を守ったところ。東京あたりではもう薄れたかもしれない震災への意識は、地元では10年経っても忘れていない。


震災遺構荒浜小学校と仙台市バス(筆者撮影)

T18系統も、海岸に近い岡田地区などをひと回りする。途中で宮城野区に入るが、地形的には引き続き平坦な田園地帯だ。津波への備え、「避難タワー」が随所で見られる。利用客はほとんどおらず、バスはむなしく左右へハンドルを切り、私にだけ次のバス停の案内を流す。この付近に仙台市交通局の岡田出張所があり、被災するまでバス運行の拠点となっていた歴史を知ったのは、帰宅してからだった。

フェリー埠頭経由は運休中

七北田川を渡ると工業地帯に入り、12時06分に陸前高砂駅着。そのまま12時23分発の仙石線で、多賀城へ移動した。中野栄―多賀城間で多賀城市に入る。多賀城の手前で途中で交差する鉄道は、貨物専業の仙台臨海鉄道だ。拠点駅の仙台港は、フェリー埠頭に近い。


仙台市バス陸前高砂駅行き(筆者撮影)

なお、先述の荒井駅発着のミヤコーバスは、もともと土休日のみ運転だが、現在は新型コロナウイルス感染症流行により運休中。より海に近い仙台うみの杜水族館、仙台港フェリー埠頭を経由し多賀城駅まで走り、名古屋―仙台―苫小牧間の太平洋フェリーと接続していた。コロナ禍が落ち着いたら、このバス系統に乗って仙台臨海鉄道沿線を歩き、フェリーへ乗り継いで利用してみたい。

仙台港地区は宿題として、次いで七ヶ浜町方面へ向かおうと考えた。12時28分に多賀城へ着くと、12時33分発のミヤコーバス菖蒲田行きが客待ちしていた。急ぎ、案内を眺めると、七ヶ浜町民バス「ぐるりんこ」も市町境を越えて多賀城駅前まで来ているようだが、先に進んでおくにしかずと乗り込む。

七ヶ浜町は日本三景の1つ、松島の南側の半島にある。東北地方の市町村の中で、面積では最小の町だが、人口は1万7000人あまりある。松島の続きのような複雑な形の丘陵が中央部にあり、その周囲を平坦な浜が囲んでいる地形だ。その丘陵地にあるのが七ヶ浜ニュータウン汐見台。1980年から入居が始まった歴史がある。そうした高台の住宅地と多賀城駅を結ぶアクセスとして、町民バスのみならず、民営の路線バスが生き残っているのだ。汐見台団地線と称し、1〜2時間に1本程度の運転本数がある。

震災により海岸部分が壊滅して以降、七ヶ浜町の行政や商業の中核は丘陵地へと移りつつある事情は、容易に想像できる。ミヤコーバスは、そうしたエリアをこまめに回る。ただ、汐見台中央などを経て、13時ちょうどに着いた終点の菖蒲田は、ほとんど何もない海岸べりだった。


七ヶ浜町民バス「ぐるりんこ」(筆者撮影)


JR本塩釜駅。この駅も津波で被害を受けた(筆者撮影)

菖蒲田からは、町民バスのパンフレットと地図を見比べつつ、時刻表を解きほぐして半島を一周する。まず、菖蒲田海水浴場前を13時42分に出る6系統(本塩釜駅発)に乗車。南岸を走り、途中、これも高台の住宅地にマメに立ち寄りつつ、13時53分に宮前というバス停に着く。すると13時57分に7系統(多賀城駅行き)が来て乗り継げ、仙台火力前など半島の北東岸を回れる。

14時14分に汐見台中央に着くと、多賀城駅行きの8系統が14時20分到着。北岸のまだ経由していないエリアを通ってくれる。14時38分に遠山地区避難所前に着けば、すぐ14時40分発の5系統本塩釜駅行きが姿を見せた。運賃は町内相互間100円、多賀城市や塩竃市内までまたがって乗ると150〜350円だ。

実情に合わせた柔軟な設定

そして、いずれもマイクロバスではあるけれど、これまで乗った公営バスの中ではひときわ利用客のにぎわいがあったのも印象に残った。地形が険しい土地柄であるから、自転車や徒歩では厳しい層がバスを頼っているのだろう。


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買い物や病院は隣の大きな市が頼り。多賀城市も塩竃市も実情に合わせ、柔軟に七ヶ浜町民バスの乗り入れを認めている。その反面、ミヤコーバスと競合する多賀城駅―汐見台中央間などの停留所間では、町民バスへの乗車を認めていない。民間バス会社への配慮だ。少ない要員とバスを有効に活用しつつ、実情に合わせた柔軟な設定を行っていると見てとれた。

著名な観光地である松島を目の前にして、今回は本塩釜駅で終了とする。鉄道路線がもともとなく、バスで巡らない限り実情がわからない地域ばかり。まだまだ被災地は広い。そして、公共交通機関には「縦割り」は馴染まない。頭を柔らかくして考えないといけないとも感じたのである。