運河駅近くで利根運河を渡る東武アーバンパークラインの60000系電車(撮影:鼠入昌史)

千葉県の北西、利根川と江戸川に挟まれた一帯に野田という町がある。言わずもがな、野田といえばしょうゆだ。しょうゆといえば野田といってもいいかもしれない。


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野田に工場があるキッコーマンのしょうゆを人生で一度も口に入れたことがない、という人は少ないだろう。すなわち、野田は日本人の食卓を支えている町なのである。

ただ、いかんせん野田はそれほど離れていない東京の人にとっても印象が薄い。筆者とて野田=しょうゆくらいのイメージで、ほかのことは何も知らない。そもそもいったい野田はどんなところなのか。

“野田”の名を冠した鉄道路線

そういえば1つ知っているものがあった。東武野田線である。

東武野田線は大宮駅を起点に野田や柏を経て船橋まで、弧を描くように結んでいる東武鉄道の中核路線だ。いまでは「東武アーバンパークライン」という愛称の定着に執念を燃やしているようで、野田線という名を聞くこともあまりなくなった。が、本来はしょうゆの町・野田の名を冠した鉄道路線なのだ。

となれば、野田のことを知りたければ野田線、もといアーバンパークラインを知ることが第一歩である。将を射んと欲すればまず馬を射よ。昔の偉い人も言っていた。目的地は、ひとまず柏駅。野田市を含むアーバンパークラインの14駅(藤の牛島―柏間)を管轄するのが、東武柏駅管区だからである。


左から柏駅管区長の大根田さん、流山おおたかの森駅長の久保庭さん、野田市駅長の佐藤さん、七光台駅長の竹倉さん(撮影:鼠入昌史)

「そもそもアーバンパークラインは、野田から柏まで、しょうゆを運ぶために作られた千葉県営鉄道がルーツなんですよ。それが北総鉄道・総武鉄道と変遷してきて、東武鉄道の路線になりました。野田市内には、キッコーマンの工場につながる線路もあった。いまでは廃止されて駐輪場などになっていますが」

教えてくれたのは、東武柏駅管区長の大根田文雄さん。つまり、アーバンパークラインは野田のしょうゆがあってこそ、生まれた路線でもあるのだ。もちろんいまではしょうゆ輸送からは引退している。

「いまではメインは通勤通学路線ですね。内側にはJR武蔵野線があって、その外側で、つまりはアーバンパークラインは大環状線のような役割を果たしています。全区間を通して乗るような人は少なくて、短い区間を乗ったり降りたりして、つねにお客さまが多い区間ですかね。ベッドタウンがあって、ローカル線らしいところもあって、まさにアーバンパークラインなんです」(大根田さん)

中心になるのは、やはり管区長が駅長を兼ね、JR常磐線とも乗り換えられる柏駅になるのだろうか。

急成長の流山おおたかの森駅

「柏駅もそうなんですが、いまでは流山おおたかの森駅のほうが中心になっていますね」(大根田さん)

柏駅は日本で初めてペデストリアンデッキができた駅だとか、かつてはそごう・高島屋・マルイなどの百貨店が軒を連ねて若者たちも集う“千葉の渋谷”的な存在であった。JR柏駅のお客の数も、千葉県ナンバーワンの座を長らく保っていたほどだ。

ところが、近年はお客の流れが変わりつつあるという。つくばエクスプレスの開業だ。その影響で、アーバンパークラインとつくばエクスプレスの乗換駅である流山おおたかの森駅が急成長。一躍、柏駅管区における中心的な役割を担うようになる。

このあたりの事情について、柏駅管区の副管区長で流山おおたかの森駅長でもある久保庭雅彦さんに教えてもらおう。

「昔もこちらのほうで勤務していたことがあるんです。そのときは、見渡す限りの空き地でしたからね。2005年に駅が開業したころもまだまだで、手すりにはオオタカが留まっていたくらいですから(笑)」

このお話、いまの流山おおたかの森駅を訪れるとまったくもって信じられない。ただ、駅の近くの森には実際にオオタカが生息している。そこに敬意を表し、新しく生まれた駅と町が流山おおたかの森となった、というわけだ。

「転勤して戻ってきたらショッピングモールができて、周囲にはウチのマンションもできて、もう一変していましたね。朝の通勤時間帯はたくさんのお客さまがアーバンパークラインからつくばエクスプレスに乗り換える。夕方には逆になりますね」(久保庭さん)

まさに、パークからアーバンへと変貌した流山おおたかの森駅。“野田線の柏駅”から“アーバンパークラインの流山おおたかの森駅”へ、覇権が移ったというべきだろうか。

かつて沿線に“東洋一の競馬場”

柏駅と柏の街については、いまもにぎやかでそこには文句のつけようもないが、ほかに何かないですか……。

「実は、いまは豊四季台団地になっているあたりに、昭和の初めごろに競馬場があったんです。柏競馬場といいまして、周辺もあわせて開発して関東の宝塚にしよう、という意欲があったといいます。1928年に競馬場ができて、1933年には柏競馬場前駅も開業しています」(再び大根田さん)


車窓からかつての柏競馬場前駅付近を見る。痕跡は……ない(撮影:鼠入昌史)

当時の地方競馬では、1周1200m程度の規模が一般的だった(今でも案外そんなものである)。ところが柏競馬場は1周1600m。当時は“東洋一の競馬場”と言われていた。そして周辺にはゴルフ場までオープンし、たくさんの行楽客を集めたという。

競馬場とゴルフ場は戦中に軍需工場になり、戦後復活するもまもなく廃止、今の船橋競馬場に移転してしまう。そうして関東の宝塚計画も幻に終わった。ちなみに、わずかな戦後の復活期には牝馬ながら1937年の日本ダービーを制したヒサトモが走って勝利を挙げたという記録も残っている。

競馬場の跡地はもうすっかり住宅地になっていて痕跡はほとんど見当たらない。柏競馬場前駅も同様だ。大根田さんに言われた場所を意識しながら電車の車窓を眺めてみたが、まああっという間に通り過ぎてしまうし、もちろん面影もない。歴史というのは残酷なものなのだ。

そして流山おおたかの森の隣、運河駅は駅のすぐ近くを流れる利根運河を渡った先に東京理科大学のキャンパスがある学生の駅。利根運河は江戸川と利根川を結ぶ運河で、しょうゆの輸送には大いに貢献したという。

この運河駅をはじめとするいくつかの駅と住宅地の中を抜け、野田市駅にたどり着く。野田市駅付近は高架化工事の真っただ中。すでに線路は空中へと持ち上げられていて、周囲を見渡すことができる場所にホームがある。ホームから見えるのは、もちろんキッコーマンの工場だ。


高架上の野田市駅のホーム。右手の地上では旧線跡の工事が進む(撮影:鼠入昌史)

高架下には立派な駅舎が目下建設中。建設中なので、改札口は仮のもの。小さな駅舎を抜けて外に出る。駅前広場も工事中のようで、トラックがひっきりなしに行き交うような道を抜けて少しだけ野田市駅の周りを歩く。

古い商店やホテルのようなものもあって、古き野田市駅前の風景がかすかに残る。キッコーマンの工場の目の前からアーバンパークラインの線路に向かってまっすぐに駐輪場が連なっているが、これがかつてしょうゆを運んでいた線路の跡だ。

「野田市の駅前に来ますとね、日によるんですけどしょうゆの独特な香りがこう、ふわーっと漂ってきましてね。まさにしょうゆの町なんだなあと思いますね」

こう話してくれたのは、柏管区で野田市駅長を務める佐藤修一さん。

キッコーマンと東武の町

「昔は駅に側線もたくさんあって、しょうゆの輸送基地にみたいになっていたんです。東武鉄道の職員も多く暮らしていまして、野田市といったらキッコーマンか東武鉄道か、と言われたくらいで。あとは野田市の名物でいいますと、ホワイト餃子っていう名物もあるんです」(佐藤さん)

ホワイト餃子は千葉県民の(というか野田市民の?)ソウルフード。本店は野田市駅……ではなく、お隣の愛宕駅から歩いて15分ほどの場所にある。

「愛宕駅もしょうゆの駅なんです。こちらはキッコーマンではなくてキノエネ醤油。この駅も今年の3月に高架の新駅舎ができたばかりです。昔、しょうゆは高瀬舟で運ばれていたので、愛宕駅の新駅舎は船の帆をイメージしたデザインにしています」(佐藤さん)

野田のしょうゆ運搬は、古くは江戸川や利根川、利根運河をゆく高瀬舟。それが鉄道の時代になっていまのアーバンパークラインで運ばれるようになり、それから変わってクルマの時代へ。そんな移り変わりが、愛宕駅の真新しい駅舎に刻まれている。

野田市駅から愛宕駅にかけての高架化は、線路こそ空中に持ち上がったが工事はまだ続く。つまりは地上にあった古い線路を引っ剥がして更地にする工事だ。線路が地上から空中に上がると、それまで地上にあった踏切は無用の長物になる。愛宕駅の近くにはそんな“廃踏切”も残っていて、こちらは鉄道ファンにとっての見どころ、というところだろうか。


高架化の廃止になった踏切を境にして、奥はすでにレールがなく、手前はレールが残る(撮影:鼠入昌史)

鉄道ファンにとって注目のポイントは、まだ先にもある。アーバンパークラインは、単線と複線の区間が入り交じっているところに特徴がある。全体でいうと、春日部―運河間の18.0kmが単線区間。それ以外の44.7kmが複線区間だ。つまり、野田市駅や愛宕駅を含む高架区間は単線、ということになる。川間―南桜井間でアーバンパークラインは江戸川を渡るが、その橋梁も単線である。

ところが、単線区間の存在は沿線がパークからアーバンへと生まれ変わって増えてきた通勤のお客をさばくためにはやっかいだ。そこで、南桜井駅や梅郷駅では駅構内をぐーっと延ばし、事実上の複線区間を設けている。これによって、対向列車が駅に到着するのを待って行き違いをする必要がなくなり、運転本数を増やすことができる、というあんばいだ。

「東がパークで西がアーバン」な駅

ところで、野田市駅と愛宕駅から柏駅管区の端っこ・藤の牛島駅までの駅の中にもちょっとした見どころがあるという。教えてくれたのは七光台駅長の竹倉義人さん。


七光台駅の跨線橋から。線路の左(西)側が住宅地、右側は緑が生い茂る(撮影:鼠入昌史)

「七光台の駅の東側と西側のコントラストですね。西側には新しい住宅地が広がっていて、子どもたちも多い。でも、反対の東側は森なんです。森というか湿地帯、底なし沼、なんていう人もいます。ウグイスが鳴いたり、夏にはカブトムシやクワガタを駅のホームでも見かけることができますよ」

もとは西側も沼地で、住宅地の開発には相当手間取ったというエピソードもある七光台駅。訪れてみると、確かに東西のコントラストは圧倒的だ。東側はほんとうに何もなくて木々が生い茂るばかり。西側は立派なニュータウン。東がパークで西がアーバン。まさしくザ・アーバンパークライン。

野田というしょうゆの町からはじまった東武野田線の歩み。それは、100年以上経ってしょうゆの輸送といういかにも野田らしい役割から、沿線の宅地化によって通勤路線へと変わってきた。アーバンパークラインは、町と鉄路の変遷を物語る、そんな愛称なのである。