雑誌『Number』が東京五輪を前に送り出した「東京に、凱歌を。」号に込めた、諦めと、絶望と、それでも消せない祈りとを分かち合う。
凱歌だけは絶対にないとわかっていたとしても…!
雑誌を買いました。真実の報道を司る文芸春秋社から発売されている『Number』です。今回は東京五輪直前特集号ということで、巻頭には池江璃花子さんと羽生結弦氏の対談も掲載されています。すべてがテキストではないものの、総計16ページに及ぶ注力記事です。期待以上の内容でしたので、詳細はぜひ本誌でお読みいただければと思います。
↓羽生氏とZOOMで手を合わせる会があったら参加したい…!
\池江璃花子×羽生結弦の初対談/
- Number編集部 (@numberweb) July 15, 2021
本日発売(首都圏基準)のNumber最新号「オリンピック開幕直前特集 東京に、凱歌を」には #池江璃花子 選手と #羽生結弦 選手の巻頭ロング対談を14ページにわたり掲載。多くのご要望に応え、対談の様子をほんの少しですが動画で公開します!https://t.co/TISqcn0z81 pic.twitter.com/54CZfb1JJm
雑誌というのはメッセージだと思っています。単に情報が羅列されていればいいというものではなく、それを作った人たちが何を伝えたくてそれを作ったのかが表れている媒体だと思います。テレビや新聞も大なり小なりそうなのでしょうが、テレビは制約と労力が多く、手触りは冷たくなります。新聞は果たすべき責務が多く、主張は薄くなります。雑誌はちょうどいい塩梅でそういうことができるものだろうと思います。音楽のアルバムのように、自分たちがどんなパーツを選び、何を捨てたかによって、言外の主張を繰り出す素地があります。
前例のない事態のなかで迎える東京五輪、Numberは「東京に、凱歌を。」と表紙に刻みました。Numberがこの構文を使うのは半ば諦めているときです。ほとんど絶望しているときです。無惨な未来を察しているときです。2003年、暗黒のなかにいた日本ラグビーがワールドカップに臨もうとしたとき、Numberは「神様、日本ラグビーに『奇跡』を。」と表紙に刻みました。もちろん当時の関係者は激怒したわけですが、それは偽らざる本音だったと思います。かつての日本ラグビーは「必敗」を背負ったチームでしたから。
とりわけ、「凱歌を。」と綴るあたりに、この絶望の深さを察せずにはいられません。「歓喜を。」や「祝福を。」や「勝利を。」ならまだあり得たかもしれない。しかし、戦勝を祝う喜びの歌はあり得ません。今はコロナ禍の真っただ中。どうして「歌」が許されましょう。今この東京で、五輪の凱歌が流れることは絶対にありません。この祈りの文は、勝利と喜びを期待しながらも、それが決して叶わないことを悟っているのです。諦めと絶望を覆い隠すようにしているだけで、そんなものはないと悟っているのです。
#Number最新号 「<オリンピック開幕直前特集>東京に、凱歌を」、本日発売です!(首都圏基準)#Tokyo2020 #東京五輪 #オリンピック #池江璃花子 #羽生結弦 #内村航平 #阿部一二三 #石川佳純 #吉田麻也 #石川祐希 #侍ジャパン #平野歩夢https://t.co/TISqcn0z81 pic.twitter.com/MtQlcDE5s1
- Number編集部 (@numberweb) July 15, 2021
その絶望のなかで作られた誌面は、ひとつのメッセージを備えて、いや、ひとつのメッセージを求めてアスリートたちのもとを彷徨います。巻頭対談の池江璃花子さんと羽生結弦氏。内村航平さん。石川佳純さん。張本智和さん。桃田賢斗さん。阿部一二三さん。平野歩夢さん。石川祐希さん。萩野公介さん。ここで誌面には野村証券提供の特集ページが挟まり、後半に野球・サッカー・バスケ(渡邊雄太さん)の記事が掲載されています。
扱いとしては野球以降も同じ特集記事ですが、前半部と後半部は物理的に区切られています。その区切りは「本当に言いたいこと」を隠しつつ、「本当に言いたいこと」をあえて示すような区切りなのだと思います。全体が同じ特集記事ではあるけれども、前半部におさめられた記事こそが、自分たちが伝えたいメッセージを特に込めた部分なのであるという。
取材対象に選ばれた選手たちは、もちろん全員が今大会注目の選手であることは間違いありません。ただ、本当にこの顔ぶれでよいのかなという部分はあります。金メダルを獲れるかどうかだけで選ぶなら、もっとほかの人選もあるでしょう。セレクトも決して五輪全体を象徴するものではありません。陸上選手がいない。レスリング選手もいない。五輪特集という観点ではバランスが悪いなと思います。
しかし、そこには通底するものがあります。
「何故、やるのか」という問いです。
この顔ぶれを見たときに、まずそれぞれが背負った大きな期待というのを感じます。競技者として早くから注目を浴び、日本一そして世界の頂点へと羽ばたいたスター性を備える顔ぶれです。一方で、必ずしも順風満帆ではなく、大きな挫折や遠回りも経験してきた顔ぶれです。白血病。理想の断念。世代交代。震災。不運。死闘。夏冬。壁。転落。歓喜と喝采に包まれたグローリーロードではなく、獣道を歩んで東京を目指すスターたちです。今五輪を迎える心境を問えば、笑顔いっぱいで「楽しみです!」と答えるはずもない面々です。どんな選手も苦労知らずなんてはずはありませんが、とりわけ「苦労を知っていそう」な面々です。
苦労を重ねて、重たいものを背負って、それでも何故彼らがこの東京五輪を目指してきたのか。挫折や遠回りの日々に何を思い、その先の何を目指してここにやってきたのか。この取材は、選手たちに何かを問うというよりも、選手たちに何かを教えてもらうための特集のように僕には思えます。特にそれが明確になるのは、特集前半部の最後に萩野公介さんを置いたことです。
萩野さんは高校時代のロンドン五輪で世界のスターと真っ向戦い銅メダルを獲り、リオ五輪では世界の頂点に立つ金メダルを獲りました。子どもの頃から天才と謳われ、栄光に満ちた競技生活でした。しかし、それからの5年は挫折の日々でした。心理的なものなのか、故障の影響なのか、勝利から遠ざかり、記録も出なくなりました。「萩野は終わった」という声すら上がりました。今大会も出場権こそ得たものの、自身の本業である400メートル個人メドレーでの出場ではなく、メダルからは距離がある位置。リオと同じ栄光は難しいでしょう。現状を客観的に見れば、こうした特集記事に加わる取材対象ではありません。
それでも、何かを求めに行った。
萩野さんへの取材にあたり、萩野さんを指導する平井伯昌コーチから「目標と目的の違いを取材テーマのひとつに置いてほしい」という提案があったといいます。その提案の言葉に、僕は「これか」と思いました。もしかしたら、この言葉で取材する側の意識までも鮮明になったかもしれないなと思います。目標は「東京五輪出場」や「金メダル」など明確であるけれど、その目的とは何なのか。「何故、やるのか」「そんなにしてまで」「挫折と苦悩と遠回りのなかで」。今まさに自分たちが抱えるモヤモヤしたものを、自分自身では答えにたどりつけそうにない問いの答えを、この取材を通じて求めているのだ。そう思い至りました。
その答えを萩野公介さんはこう言います。
「やっぱり泳ぐことが好きなんです」
「泳ぎで人生を表現したい」
そこに栄光があるかどうかではなく、泳ぐことは生きることなのだと。好きなんだと。それ以上はないんだと。そう言います。一度は「競泳がつらいです」と泳ぐことからも距離を置いた萩野さんが、たどりついた答えはまさにこの号を象徴するような、誰よりも萩野公介から聞きたい答えでした。
もしかしたら、その答えは今一番言いづらくて、我慢しなければいけない言葉だったかもしれません。エッセンシャルなものしか許容されない世界のなかで、「好き」なんて個人的感情は許されないのだと、みんなが我慢をしています。東京五輪などという愚かな祭典を目指す選手たちは、一部の人たちからは自分勝手で思いやりのない「社会の敵」とさえみなされています。
同じ側に寄り添う家族・支援者・関係者・ファンも厳しい逆風にさらされています。「正気ではない」「狂っている」「人殺し」そういう言葉が、正義の名のもとに振り下ろされています。それぞれの人生があり、それぞれの生き様があり、それぞれの正しさがあることは「正義」のもとでは考慮されません。正義は我にあり、と思えば途端に人間は残酷になります。
何故、やるのか。
それでも、なお。
一体、何を求めて。
それはスポーツ・グラフィック誌を自認するNumberにとっても、自問自答せざるを得ない問いだったことでしょう。Numberであれば「今こそ、中止を。」という特集を組むこともできたでしょう。編集部がそう思ったなら、そうすることもできたはずです。朝日新聞だって社説でそう書いているのです。多少憎まれはするかもしれませんが、永遠に出禁とはなりますまい。文春なら、仕方ない。
でも、そうはできなかったのでしょう。諦めと絶望を悟ってはいても、そうはできなかった。東京に凱歌は流れないことを知っていても、それを祈る心はどうしても消せなかった。どうしてもそうなってしまう自分たちの心の答えを求めた一冊なのだと思います。選手たちを励ますようにしながら、自分たち自身を励ましているような。
何年もこの日を楽しみにし、たくさんの知識を備え、大体のことは知っているよ、と思う熱烈な人にこそ、この一冊を分かち合いたいと思います。そういう熱烈な気持ちを今この東京で見つけることはとても難しく、メディアに流れるのはさっきまで懸念を示していたのと同じ声で「ガンバレ〜!」の原稿を読み上げる白々しい映像ばかり。二枚舌の集いです。しかし、この一冊を読んでいる時間は、その白々しさから離れて、自分の本心と向き合うことができる時間になると思います。
2021年、今この東京に凱歌が流れることはありません。
それでも、未来のいつかどこかで、凱歌を歌える日は来るかもしれません。
「神様、日本ラグビーに『奇跡』を。」と綴った表紙から12年後、そのときに願った以上の奇跡が日本ラグビーには起きました。夢に見ることはあっても、あり得ないと自ら否定してきたような出来事が、現実になりました。さらに4年後、それ以上のことが日本で起きました。夢、そのものでした。奇跡はあった。奇跡以上があった。だから、いつか、きっと。そんな切なる願いを込めて、僕はこの東京五輪・パラリンピックを見守るのです。
いつの日か、その喜びを、歌えるように願って。
何年後、何十年後になろうとも、いつかこの凱歌を歌うのだと誓って!
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