高架橋もろとも津波で破壊された島越駅は、少し久慈側に移転新設された(写真:久保田 敦)

鉄道ジャーナル社の協力を得て、『鉄道ジャーナル』2021年8月号「三陸鉄道の希望」を再構成した記事を掲載します。

三陸鉄道は2011年3月11日の東日本大震災による津波被害から3年を経た2014年4月、5日に南リアス線盛ー釜石間、6日に北リアス線宮古ー久慈間の運行をすべて再開し全通した。その年は開業30周年でもあり、沿線は開業時さながらに沸いた。

そしてその年、間に挟まるJR山田線宮古ー釜石間の復旧について、鉄道として維持する地元の強い意向により、JRから三陸鉄道に移管することが決まった。結果、この区間が再開する2019年3月23日、三陸鉄道は南リアス線36.6kmと北リアス線71.0kmに55.4kmを加え、盛ー久慈間を通して全長163.0kmの「リアス線」となった。旧国鉄の特定地方交通線や、整備新幹線の並行在来線転換により誕生した第三セクター鉄道の中でも、圧倒的に長い距離を持つ路線である。

だが、それも束の間、7カ月後の10月12日、令和元年台風19号による被害で、盛ー釜石間と宮古ー田老間以外の全線の7割相当が再度不通に。復旧に5か月を要して2020年3月20日、もと山田線区間の釜石ー陸中山田間を最後に再び全通した。

しかし、現下は昨年来の新型コロナウイルスによる災難が収まるところを知らず、遠来の観光客を呼び込めない状況が続いている。

三鉄の手に移された宮古駅から北へ

宮古は人口5万だが、3万人規模の大船渡、釜石、久慈を大きく凌ぐ三陸最大の市である。盛岡からのアプローチもまずは宮古であり、三陸鉄道は本社を置く。この宮古から北と南へ、震災復旧後のトピックとなるポイントを中心に見ながら、たどってみた。ここでは久慈までを紹介しよう。


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まず宮古駅は、旧JR駅が宮古市に移譲されて三鉄の管理になった。盛岡ー宮古間となった山田線の乗り入れは続いているので、マルスを置いた窓口も三鉄の手で営業している。隣接する旧三鉄駅舎は全館本社機能となった。

ホームはJR用の1〜3番線(2面3線)と三鉄用0番線(1番線の先端部)があったが、今は0〜2番を三鉄、3番をJRとしつつ、駅舎前の利便を考慮して1番線は一部JR列車も利用する。

車両基地も宮古に集約された。新たな検修庫が釜石方に設けられ、ホーム付近にかけて車両が留置されている。一方、南リアス線盛、北リアス線久慈の旧車両基地は出先の滞泊設備とされ、盛と久慈に配属されていた社員計70人は15人ずつに所帯を縮小した。

機能を集約して効率化されたが、旧山田線区間を抱えたために車両と要員の総数は増えている。車両は8両増えて26両に、社員数はJRからの出向を含めて40人増え、計135人になった。

宮古駅のもう一点の見どころは、隣接する市役所庁舎である。旧庁舎は閉伊川河口で津波の直撃を受けながらも復活したが、耐震性の劣化を理由に移転を決め、保健センターや市民交流センターともども駅裏に隣接させた。JR山田線移管開業を前にした2018年10月に開庁している。

駅舎側からの連絡跨線橋や庁舎2階のフロアはガラス張りで、カフェのカウンター席に座れば駅や車両基地が目の前に見える。自由に出入りできるので、列車待ちのひとときを過ごしてもよい。

新田老駅も総合事務所と一体で開業

さて、宮古13時27分発の久慈行きは36-700形単行であった。2013・14年に6両が誕生した新潟トランシス製標準スタイルの車両で、震災後、クウェートから500万バレルの原油支援を元に被災各県に支援金を分配、岩手県がその一部を車両購入資金に充てて導入されたものだ。

クウェート支援による車両は、ほかにレトロ車両(36-R3)とお座敷車両(36-Z1)1両ずつもある。この後、36-700形はJR山田線移管時にもJRからの資金提供を受けて8両増備され、保有26両中の14両を占めるようになった。


行政の事務所と一体化して田老の市街地に新設された新田老駅(写真:鉄道ジャーナル編集部)

その列車で踏み出し、目指したのは新田老駅。現在は宮古市域となった田老町は田老駅が玄関だったが、中心から外れていたため、短いトンネル1つを隔てて新駅が作られた。ここも宮古市の出先、田老総合事務所と一体化され、旧事務所から移転に合わせて昨年5月に開業した。

高架ホームから事務所1階に下りると、無料貸自転車の貼り紙。付近の観光スポットへの足として市民以外を対象に貸し出していた。ありがたく拝借してペダルを漕ぐと、すぐに巨大城壁のような津波除け防潮堤に達する。

その防潮堤沿いに1・2階を破壊されながら倒壊を免れた「たろう観光ホテル」が震災遺構として保存されている。さらに閘門をくぐってから漁港を離れると、三陸の名所の一つ、山王岩にたどりつく。断崖の磯に打ち付ける波は「潮騒」そのものだ。土産店や駐車場が賑わう観光地の様子はなく、偶然の貸自転車に導かれた“発見”のようで心地よかった。

引き返して堤防沿いの国道をたどると、田老駅は近い。駅は築堤上にあり、もともと高い防潮堤を望む駅として知られていたが、震災後はより巨大な防潮堤と水門が建設され、民家が点在した農地、昆布の干場はメガソーラーに生まれ変わった。それで今や日中の様子は信号場と思えるほどだ。

ただし、内陸に入ると県立宮古北高校があるのと、新田老駅は狭い街中のため、パーク&ライドで列車を利用するとすれば田老駅のほうが適している。

次の列車で島越へ向かった。現れた車両は開業時からの36-100形と36-200形の2両編成だった。

このタイプは震災の影響を含めて全19両中の11両が廃車され、現在は8両となっている。三鉄は国鉄特定地交線転換初の第三セクター路線のため、以後の量産タイプのレールバスや軽快気動車と違うスタイルをしており、それが独特の“三鉄らしさ”を今に伝える。2両編成のうちの1両(36-109)は、車内を「あまちゃんのロケ風景写真展」としている。

2013年度前期のNHK「朝ドラ」は、震災復興支援の一助にと三鉄沿線を舞台とし、三鉄は「北三陸鉄道」の名で重要な役を務めた。その当時のロケ風景が素朴なスタイルで飾られている。

このほか、2005年と06年に宝くじ助成金で導入されたレトロ車両2両(36-R1・R2)もあり、それで26両となる。

「三陸の地下鉄」と呼ばれるほどの長大トンネルを複数抜けてたどり着く島越駅は、もと北リアス線内では震災復旧の最後の開通区間にある。

鉄道建設公団の建設による近代的で頑丈な高架で谷を渡っていたが、津波はそれをすべて破壊した。そこで、海岸の防潮堤に次ぐ第二の堤防とするべく築堤に改められた。

駅は130mだけ久慈側に移され、可愛らしい駅舎が建つ。旧駅時代から、隣の田野畑駅ともども宮沢賢治の童話の世界観でデザインされたものだ。

駅を出て旧駅に足を運ぶと公園に改められ、一部を壊されながら耐えた宮沢賢治の石碑と、駅施設の中で唯一の遺構となった数段のコンクリート階段が残されている。

だが山肌の2軒を除いて約120軒の集落は消滅した。断崖絶壁の北山崎を巡る観光船乗り場に至る道が延びる目の前で、新たな水門建設が続けられている。

ラストコースは15人の高校生とともに

引き続き久慈を目指す。普代駅は物産センターを兼ね、背後を通る「三陸沿岸道路」の普代ICが最寄りとなったので、「道の駅」に改めるべくトイレの新設工事等が行われている。7月の新装開業を目指している。


観光客が多い時間帯の列車ならば徐行する景勝の大沢橋梁、安家川橋梁とも素通りし、無数のトンネルで貫いてきた海岸線を離れると線路はようやく平地に出る。

陸中野田駅は野田村の市街地で県立久慈工業高校の最寄り。発時刻は夕刻17時57分とあって男女15人ほどの生徒が乗車して、宮古界隈以来、久しぶりに2桁となった。

久慈まで乗り通し、18時25分発の宮古行きで折り返す。久慈駅界隈には県立高校3校があり、帰宅の高校生は20人程度の乗車だった。陸中野田と普代の下車がまとまっており、以南はまた片手に満たない人数となった。