人間は触覚から逃れられない(写真:Ushico/PIXTA)

生命進化の過程では、脳が生まれる前から存在するために、「0番目の脳」とも言わる「皮膚」。

日本の皮膚研究の第一人者、傳田光洋さんは、およそ120万年前、人類は体毛を捨て、体表の感覚器を再び使うことで脳を肥大化させ、結果として数々の危機から難を逃れられたと言う。

また、傳田さんは触覚、皮膚感覚こそが、人間の創作、芸術作品の本質と密接に関わるのではないかと問います。

「人間の『皮膚』に隠れた壮大すぎる生存戦略の要諦」(6月15日配信)に続いて著書『サバイバルする皮膚 思考する臓器の7億年史』より一部抜粋、再構成し、お届けします。

皮膚の感覚が人間の創造に関わる

多くの芸術家や科学者が、その創造に際して重要なのは言葉で語られる意識ではなく、意識になる前の何か、ありふれた表現だと直感の大切さを述べている。それでは、その直感はどこから、どのようにもたらされるのだろうか。

マルセル・プルーストの長い小説『失われた時を求めて』(吉川一義訳、岩波文庫)。400字詰原稿用紙で1万枚と言われるこの小説は、ごく一部を除いて、すべて一人称、語り手の「私」の経験と意識の移ろいが書かれている。ぼくのこの本(『サバイバルする皮膚 思考する臓器の7億年史』)は原稿用紙300枚ほどだ。大変長い小説であることがわかっていただけると思う。

その価値を実感するには、面倒でも全巻読むことをお勧めするけど、ここでは敢えてぼくなりに短く内容を書いてみる。

七篇からなる小説の六篇までは、「私」の幼少期から青春期、第一次世界大戦を経た壮年期までの記憶が詳細に語られる。少年時代、別荘地での思い出。思春期、海辺のリゾートでの恋。恋人と結ばれ、やがて恋人の死によって終わる記憶。パリの晩餐会でのブルジョワや貴族のとりとめのない会話などが詳細に描写される。

最終部、第七篇で「私」は圧倒的な啓示を受ける。

「時間の秩序から抜けだした一瞬の時が、これまた時間の秩序から抜けだした人間をわれわれのうちに再創造し、そのエッセンスを感知させてくれるのだ。そうであれば、この人間が自分の感じた歓びを信じるのも理解できる。時間の埒外にある人間であれば、未来のなにを怖れることがあろう?」

「真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえに本当に生きたと言える唯一の人生、それが文学である」

「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる」

「新たな光が私のうちに射してきた。その光は芸術作品こそが失われた『時』を見出すための唯一の手段であることを気づかせてくれた光のように目覚ましいものではなかったが、その光のおかげで私は、文学作品の素材はことごとく私の過去の人生にあることを悟った」

さて、この「私」の意識をもたらす「失われた時」への覚醒には、3つのきっかけがある。有名なのは「ハーブティーに浸したマドレーヌの味」だ。小説の最初のほうで登場するため、多くの人が知っている。少年時代を過ごした別荘地での記憶がすみずみまでよみがえる。

しかし、もう2つのエピソードは皮膚感覚なのだ。

皮膚がよみがえらせる記憶

パーティーの帰り、不ぞろいな敷石を踏む。その瞬間、ベネチアのサン・マルコ洗礼堂で、やはり不ぞろいなタイルを踏んだときの記憶が現れ、ベネチアに滞在した際の光景が生き生きとして立ち現れる。

もう1つは、海辺のリゾートでの記憶だ。ここで「私」の恋愛が始まるのだが、ホテルで身体を拭くタオルの糊がききすぎていた。その記憶は「私」のこころの奥底に眠っていたのだが、パリの貴族の晩餐会で提供されたナプキンがやはり糊のため固かった。そこから海辺で過ごしたときが「外的知覚につきまとう不完全なものをとり払われ、現実を離れた純粋なものとなって私の胸を歓喜でいっぱいに膨らませたのである」(前出)。

これらの「私」の経験は、皮膚感覚が、人間の無意識の奥底に潜んでいた「純粋な」記憶を見出す重要な役割を担うことを示している。そしてプルーストは1人の人間にとって、最も貴重なものは、そのようにして「失われた時」からよみがえった記憶であり、そしてそれが文学、芸術の本質であるとする。

皮膚感覚は、なぜ無意識をよみがえらせることができるのだろうか。

ぼくは、人間の感覚の中で、嗅覚、体性感覚、そして皮膚感覚については言語で語りえないからではないかと考えている。人間の意識は言語と強く結びついている。人間の意識はつねに言語で表現ができ、言語で表現しうることが意識だと考える。ヴィトゲンシュタインによる哲学の定義がそれにかさなる。

「哲学は、語りうるものを明晰に表現することによって、語りえぬものを示唆するにいたる」

「およそ考えうるものは、ことごとく明晰に考えうる。いい表しうるものは、ことごとく明晰にいい表しうる」(『論理哲学論考』藤本隆志・坂井秀寿訳、法政大学出版局)

視覚情報、聴覚情報、味覚情報は言語で語れる。嗅覚、触覚(体性感覚)を言語で語るのは難しい。どこかで出会った見知らぬ人について、語ることを想定してみる。

「その男は私より10センチほど背が高く、私より痩せていた。面長の顔に縁なしの眼鏡をかけ、紺色のスーツを着ていた」「彼は、私に『君はどこから来たのか』と低い声で尋ねた」「彼は私にキャンディーをくれた。口に含むと甘酸っぱい味がした」

しかし、たとえばその人物の体臭については「タバコの臭いがした」「カビ臭い体臭だった」などと、「たとえ」を引用しないと具体的な表現が困難である。そして、その人物と握手したときの感触も「紙やすりのようにざらざらした手だった」「ふわふわとマシュマロのようにやわらかかった」などと語らざるをえない。

一方で、特に触覚には、それをもたらす相手と自分との人間関係、さらに言えば、自分の経験が大きく影響する。ぼくは不自由なことにヘテロセクシャルな男性だ。視覚的には、怒りをあらわにした大男、魅力的な女性、それぞれが、触覚的には、同じ体温、同じ圧力、同じ摩擦係数でぼくの手に触れても、ぼくの感情は大きく異なる。しかし彼らが赤いシャツを着ていれば、どちらも赤く見え、88鍵のピアノの右端の鍵を叩けば、ぼくに絶対音感があれば、4.2キロヘルツの音が聞こえる。

意識は環境から外からの情報を編集して作られる

視聴覚情報に比べて、触覚は、その個人の個性、意識、無意識双方の経験からもたらされた記憶、それらと強く結びついている。プルーストは、それこそが時の流れを超えて、人生の意義、価値ある芸術を生み出すと主張した。

意識は、環境から外からの情報を編集して作られる。その編集のしくみは、時代や文化の背景によって異なってくる。触覚は個人の歴史と強く結びついているが、一方で意識というフィクションを作るしくみからは自由なのではないか。そのため、触覚をきっかけにして感じられる世界、たちあらわれる無意識は、ときには人間の、あるいは場合によっては生きとし生けるものに共通する世界のなりたちを、ぼくたちに示すのではないだろうか。

人間は、眼で見たほうが正確な情報を獲得できるのにもかかわらず、触覚による情報のほうを信頼する、という興味深い研究結果が報告された(Fairhurst MT. et al. (2018) Sci Rep8:15604)。

カードの上に、プラスチックでTの字をさかさまにしたパターンが浮き出している。水平の部分の長さは3センチ。垂直方向の部分の長さがいろいろある。被検者は、これを指で触る。目で見る。そして水平の線より垂直の線が長いか短いか答えさせる。そして、それぞれの答えに自信があるかどうか、7段階の数字で答えさせる。1が自信なし。7が自信最高。

実験の結果、線の長さの正しさでは眼で見たほうが上だった。ところが被検者は触って判断した答えのほうに自信を持っていた。

触覚から逃れられない人間

人間は進化の過程で、視覚による情報感知能力の精度を上げてきた。しかし、情報の信頼性という点では触覚のほうを信頼しているのだ。目の前に何か、興味を惹くものがある。ふと、手を伸ばして触りたくなるという人間の習性は、いまだに人間が世界を知ろうとするとき、触覚に重きを置いている。触覚から逃れられないことを示している。人間のこころの起源が、全身の皮膚を世界にさらしたという事実であるということは、いまだにぼくたちの判断にまで影響を残しているのだ。


このことは、体毛を無くした人類の祖先から、正確な情報を把握するために、まず触って確かめてきた名残だと思う。視聴覚による情報伝達、情報処理が劇的な進歩を遂げた現在でもなお、人間は、視たことよりも触ったことに確かさを感じるのだ。言い換えれば人間は、触覚を信頼しているのだ。

情報工学が発展し、特にこの四半世紀の間に現れたインターネットの技術は、驚くべき勢いで世界中に広がっている。日本でも、今やインターネットなしでは生活に不自由するぐらいになっている。現在のインターネットで伝えられるのは視聴覚情報だけだ。近代史の中で、言葉で語られる「意識」が重要視されてきた結果だろう。視聴覚情報が電気的なシグナルに変換しやすいのも、その理由の1つだ。

しかしながら、ぼくたちは、おそらく、体毛を失ってからの120万年の歴史のために、未だに触覚から逃れられないのだ。