四国の香川県と関係はあるのか?関東武士「香川一族」の歴史と不思議なご縁

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神奈川県のローカル鉄道・JR相模線は茅ヶ崎駅(茅ケ崎市)から橋本駅(相模原市)まで約33km18駅を結んでおり、茅ヶ崎駅から数えて3駅目に「香川(かがわ)駅」という駅があります。

「ねぇ、この駅(地名)は四国地方の香川県と何か関係があるの?」

以前そう訊かれ、調べたことがありましたが、一言で答えるのは難しかったので

「一応『あると言えなくもない』という結論になりますが、詳しく説明すると少し長くなりますよ。聞きますか?」

と答えたところ「ふーん。じゃあいいや」との事でした。

今回は神奈川県の地名・香川と四国の香川県を結ぶ歴史的なご縁について紹介したいと思います。

近いけれどイコールではない、香川一族と香川県の関係

香川氏の家紋・九曜巴。Wikipediaより(画像:WTCA氏)

まずは、神奈川県の香川について。この辺りはかつて相模国高座郡香川村と呼ばれ、相模国に勢力を伸ばしていた鎌倉(かまくら)一族の一人・助大夫高正(すけのたいふ たかまさ)が地名をとって香川高正と称しました。

その子・香川権大夫家正(ごんのたいふ いえまさ)は源頼朝(みなもとの よりとも)公の挙兵に敵対して滅ぼされますが、その子の香川五郎景高(ごろう かげたか)は源氏に従い、源義経(よしつね)から経の字を拝領して香川経高(つねたか)と改名。

経高の子・香川三郎経景(さぶろう つねかげ)は承久の乱で武功を上げたことによって安芸国(現:広島県西部)と讃岐国(現:香川県)に所領を賜り、経景の子である香川刑部大輔景則(ぎょうぶのたいふ かげのり)が讃岐国へ移住したと言います。

その後、香川一族は室町幕府の管領・細川(ほそかわ)氏に仕えてその家中に頭角を現し、応仁の乱(応仁元・1467年〜文明9・1477年)で活躍して細川四天王(香川元明、香西元資、奈良元安、安富盛長)に数えられました。

応仁の乱。「真如堂縁起絵巻」より

戦国時代には讃岐国の西半分を治める守護代となっており、毛利(もうり)・織田(おだ)・長宗我部(ちょうそかべ)と言った強大な勢力と渡り合い、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)によって改易(領地を没収)されるまで、乱世を闘い抜きます。

「こういう香川一族の歴史に基づいて、讃岐国は香川県になったのだろう。坂東武者の末裔が県名になったなんて凄いなあ!」

……と、昔は思っていたのですが、調べてみると「香川」という名称(香川郡。現:高松市)は奈良時代以前からあったようで「香河」「介加波(けかは)」などと表記されていたそうです。

 

【香川県と香川一族、それぞれの由来】

香川県…古代律令時代からあった讃岐国香川郡に由来。
香川氏…相模国高座郡香川村に由来。後に讃岐国へ移住。

とても近いけれどイコールではない、とても不思議な香川一族と香川県のご縁。もしかしたら、香川どうし互いに惹かれ合っていたのかも知れませんね。

※参考文献:
太田亮『姓氏家系大事典 第1巻』姓氏家系大辞典刊行会、1934年11月
青井常太郎 編『讃岐香川郡志』大和学芸図書、1978年11月
「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大事典 37 香川県』角川書店、1985年10月