FC東京時代の星大輔【写真:Getty Images】

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【元プロサッカー選手の転身録】星大輔(元横浜FM、町田ほか)前編:“タレント軍団”マリノスで揉まれて選手の土台を築く

 世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。

 その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生をかけ、懸命に戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「Football ZONE web」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。

 今回の「転身録」は、日本代表が勢揃いしていた横浜F・マリノスでキャリアをスタートさせ、計7クラブに所属した星大輔(40歳)だ。生まれ育った町田に拠点を置くFC町田ゼルビアをJ2昇格に導き、2011年限りで現役引退。町田のクラブスタッフ、町田市議会議員を経て、現在は元Jリーガー初の東京都議会議員当選を目指している。前編ではプロとしての厳しさに直面しながらも、13年間を戦い抜いた“プリンス”のキャリアを振り返る。

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 Jリーグ通算160試合・20ゴール。アマチュアリーグのJFL(日本フットボールリーグ)も経験と、キャリアを振り返れば、紆余曲折の連続だった。

 1986年、メキシコ・ワールドカップ(W杯)でアルゼンチン代表MFディエゴ・マラドーナが伝説の5人抜きゴールを決める衝撃的な光景をテレビで見て、星の中で「マラドーナみたいになりたい」と目標が見つかった。サッカーにのめり込み、中学1年生だった1993年にJリーグが開幕。プロサッカー選手になることを夢見て、ボールを追いかけた。

 高校進学時、Jリーグのユースチームに入るか、高校サッカーを経てプロになるかで頭を悩ませる。「選手権に出たい」という気持ちもあり、桐蔭学園高行きも視野に入れていたが、「Jクラブのトップチームに上がるため」「プロになるため」に、町田市内にある都立高に通いながら、横浜FMのユースで自分を磨く選択をした。

 1999年、晴れてトップチームに昇格した横浜FMには、GK川口能活、DF井原正巳、DF松田直樹、MF三浦淳宏、MF中村俊輔(現・横浜FC)、FW城彰二ら錚々たるメンバーが揃っていた。ルーキーイヤーは公式戦出場こそ叶わなかったが、日々の練習を含めてすべてが刺激的だったと星は振り返る。

「もう衝撃でした。(合併で)フリューゲルスから代表クラスのメンバーが入ってきて、練習についていくのでいっぱいいっぱいでした。でも、『ここが日本の基準』というか、『この中で戦えないんだったら試合には出られない』と。波戸(康広)さんは比較的年齢も近くて、怪我をした時には一緒にリハビリもしました。常に自分と戦っているというか、そのプロフェッショナルぶりは一番近くで見させていただきました。松田直樹さんも練習と試合での熱量が一緒で、ボールを取ってしまうとそのまま足ごと持っていかれる(笑)。こちらが恐怖感を覚えるくらい、戦う気持ちが凄かったです。中村俊輔さんも、こんな技術の高い選手は今まで見たこというくらいで。皆さん、口数が多いわけではなかったですけど、プレーで教わりました」

サッカー選手として支えとなった柱谷幸一との出会い

 翌2000年にFC東京へ移籍し、同年8月にレンタルとなったJ2大宮アルディージャで待望のJリーグデビュー。FC東京に復帰した02年には、1stステージ第2節の敵地・浦和レッズ戦(1-0)でスタメン出場を果たし、自身初となるJ1公式戦でMF小林成光の決勝ゴールをアシストする輝きを放った。この年はリーグ戦9試合の出番にとどまるが、その後にJ2モンテディオ山形で主力として活躍するきっかけを掴んだ。

「開幕戦で鹿島アントラーズに(4-2で)勝っての2戦目。J1デビュー戦、そして(02年6月に)ワールドカップが開催される埼玉スタジアムのピッチだったという意味で、印象深い試合の一つです。『やっと来たか』と。退場者が1人出て、DFを入れないといけない状況で後半13分に退きましたが、あの約60分間は今でも記憶に残っています。本当にスタートラインでした。高卒で2〜3年で終わる選手はたくさんいます。自分も大宮でなかなかフィットできず苦しんだなかでも、諦めずに続けることが大切だと学べたからだと思います」

 星のキャリアを語るうえで、欠かせないのが元日本代表FW柱谷幸一との出会いだ。山形、京都サンガF.C.、栃木SCで、監督と選手として一緒に戦い、足が速いサイドアタッカーとして大きな期待をかけられた。

「(2002年限りで)FC東京を退団した後、行くところがなかなか決まらなかったなかで、柱谷さんが声をかけてくださって、そこからのご縁です。山形、京都、栃木……、かなり評価していただきました。京都に移籍した05年当時、私もまだ24歳。『若いチームをまた作っていきたいんだ』『お前みたいなワイドで仕掛けられる選手が必要だ』とオファーをいただいて行きました。柱谷さんが求めるプレーをできたのもあるし、私も柱谷さんが考えているサッカーがすっと入ってきて、上手くフィットできたと思います。当時は、右のワイドでどんどん仕掛けていきましたね」

 2008年には柱谷からのラブコールに応える形で、カテゴリーを落としてJFLの栃木へ移籍するも、開幕前に左足アキレス腱を断裂。長期離脱を余儀なくされたこの大怪我は、のちに31歳で現役引退を決断する一因となるが、一度は契約を切られ、練習生扱いになりながら、再びピッチに戻るまで星が諦めることはなかった。

「京都の最後の年(07年)は怪我もあって、トップパフォーマンスを見せられませんでした。カテゴリーがJFLに落ちるのもハードルになっていた部分で、(栃木移籍を)なかなか決断ができず、年が明けてしばらくした時に返事をして、柱谷さんには『(決断が)遅いんだよ』と怒られましたね(笑)。ただ、初経験だった人工芝の影響なのか、開幕前に左足アキレス腱を断裂してしまって。栃木では柱谷さんと1試合も一緒に戦えず、リハビリの日々でした。丸1年プレーしていなかったので、一回契約を切られましたが、状態も上がってきたところで、もう少し様子を見させてくれとクラブからも話をいただいて、練習生を経て、09年4月に再契約をしてもらいました」

地元クラブの町田をJ2昇格に導く“有終の美”

 2010年、「どこかのタイミングで、地元でプレーしたい」という思いを実現させる形で、町田へ移籍。当時JFLのチームをJリーグに昇格させる一心で2年間プレーし、11年にはJFL最終節のカマタマーレ讃岐戦(2-0)でシーズン初ゴールを決め、J2昇格に貢献した。現役ラストイヤーの11年は、まさに満身創痍だったという。

「足の骨折、アキレス腱断裂、グローインペイン症候群を経験して体はもうボロボロ(苦笑)。2010年の夏以降は朝起きるのもやっと、グラウンドに行くのもやっとで、騙し騙しでやっていました。2011年開幕前、『今シーズン、しっかりチームを昇格させて辞めよう』と自分の中で決断して。東日本大震災直後だったので、昇格することで、町田から日本を復興させるという気持ちもありました。(ランコ・ポポヴィッチ)監督と唐井(直)ゼネラルマネージャー以外には、引退のことは伝えずにシーズンに臨んでいました。サブが多かったですけど、1年間戦い抜くことができて、最後にゴールも決められて良かったです」

 惜しまれながらも選手生活にピリオドを打った星は、町田のクラブスタッフを経て、現在は町田市議会議員として日々奔走している。現役時代、セカンドキャリアに向けて「準備は特にしていなかった」と明かす一方で、地元への思いが次なる道に一歩踏み出す勇気となった。

「引退してから動向を決めた形ですが、キャリア終盤はいろんな本を読むようになったり、少し意識が変わっていました。きっかけはアキレス腱を断裂した2008年、西が丘のJISS(国立スポーツ科学センター)で何カ月もリハビリするなかで、陸上、体操などたくさんのアスリートの方々と接したこと。個人アスリートの方は、何歳で引退して、いくら貯金が貯まっていて、投資をして、と明確なビジョンを持っている。食事の時はそんな話ばかりで、私も紹介してもらった投資の本を読みました。引退発表の直後には、以前所属していたクラブから『引退すると聞いたけどどうするんだ』『こっちに戻ってこないか』とオファーもいただきました。ただ、自分が何をしたいのか、何ができるのかまだ定まっていないけど、地元で最後にプレーさせてもらったので、この町田でなんとか仕事をしていきたいと思いました」

 少年サッカーの盛んな街として知られた町田に貢献したい――。そんな思いが、セカンドキャリアで星を突き動かす原動力となっていく。(文中敬称略)(Football ZONE web編集部・小田智史 / Tomofumi Oda)