日本の都市は痩せやすい?

東京のような大都市をイメージして話をしていきますが、まず日本の都市の大きな特徴を挙げると、かなり高密度で、公共交通が高度に発達しているという点があります。この特徴がある都市は、ダイエットに例えると「痩せやすい身体」なのです。

「「ネイバーフッドシティ」の条件と都市計画のゆくえ」の写真・リンク付きの記事はこちら

すでに日本の都市計画として法制度も整い、近年大きな流れができている戦略が「コンパクトシティ」ですが、これはダイエットと同じで「太った都市」の脂肪を落として、拡がった市街地をギュッとスリムにすることで、二度と太らない身体(=都市)にしましょうという話です。そのためにまず市街地を縮小すると同時に、公共交通を鍛える必要があります。

「都市が太った原因」は自家用車の発達にあるので、クルマに乗らなくて済むようにみんなで公共交通を使って動く癖をつけましょう、ということです。でも、少なくとも東京は公共交通が発達しているので結構スリム。つまり、この点で言えばパリの「15分都市」のような徒歩圏内の暮らしをつくる都市モデルを持ち込んだとしても、東京にはすでに同様の健康さはあるんです。

では、何が不足しているかというと、民間の手によって、民間の建物を徒歩圏内に必要な機能に「変化させていく」ことだと思います。行政主導で新たに公共施設をつくるのではなく、既存の建物を利用して、民間によって図書館や福祉施設などがつくられていけばよいのではないでしょうか。つまり、建物が高密度にある都市に「暮らしを支えるために必要な機能を徒歩圏内に揃える」という戦略を取り入れ、すでにある建物の部分部分を必要なものに変換していけば「15分都市」はできるということです。

でも、その「必要な機能のセット」をつくったうえで、いま徒歩圏内にあるものを見たときに「うちの近所にあるの、ほぼ住宅なんだけど」っていう人は多そうですよね。それを使うしかないんです。人口減少に伴って時間が経てば空き家は必ず増えてきます。なので、ゆっくりとした動きかもしれませんが、そこに必要な機能をスムーズに埋め込んでいく。そうやって徒歩圏内に必要な機能を揃えることは、日本でも簡単に実現できるだろうと思います。

日本の都市は合意形成に時間がかかるので、政府が新しく公共施設をつくるには、5年や10年、20年といった時間がかかります。しかし、空き家を使えば圧倒的に早く、楽に進めることができます。ぼくが最初に空き家を活用したまちづくりプロジェクトに取り組んだときに徹底したのは、基本的に「市役所を絶対に巻き込まない」ことや「ご近所に挨拶はするけど意見は聞き過ぎない」といったことです。

もちろん、礼儀を欠くというつもりではまったくなく、変えるのは「空き家だけ」でよくて、合意形成の相手は空き家の持ち主だけでいいからです。説得すべき相手が増えるほど、喋り方や説得の方法などすべてが中庸なものになってきますが、持ち主ひとりに絞って対話すれば相手の悩みや解くべき問題が見えて、その人向けの方法が提案できます。そうすることでサクッとものごとが進みます。最初に取り組んだプロジェクトでは、1年足らずでひとつの空き家を新しい地域拠点として再生させることができました。

なので、1人ひとりの気持ちを変えれば都市が変わっていくという意味では、都市にはとても「やわらかい」部分がある。とはいえ、同じ方法で全員に話をして街が変わるかというと絶対変わらないし、1カ所だけが変わっても都市全体が変わるということはなかなかないので、同時に「しぶとく」もあります。つまり、いまの都市を「15分都市」に変えるには「ここがやわらかいな」というところに入っていって、少しずつ変えていくしかないんです。

余った空間を「読み替えていく」

コンパクトシティとは、簡単に言うと中心点をひとつ定めてそこに集中投資をするという戦略です。公共建築や病院をまとめて「中心」の魅力を上げれば、住宅などの周囲の機能が寄ってきてコンパクトになるでしょうという考え方ですが、その「中心」はひとつに絞りきれません。なぜなら、中心であろうが周縁であろうが、空き家はあちこちに出てくるので、そういう住宅地のほうが、やわらかくて変えやすい可能性があるからです。つまり、中心部に集積させていくことをコンパクトシティの前提としてしまうと、このようなほかの可能性を見落としてしまうかもしれません。

コンパクトシティは悪いわけではないですが、「ここを中心にする」と決め込んで、土地を買い集めながら必要な施設を増やして30〜40年かけて都市をつくってもしょうがないと思うわけです。それよりも、あちこちに増えてくる余った建物に「今年はここに病院を、ここには保育園をつくりましょう」というように、都市に必要な機能を柔軟に入れ替えていくほうが、暮らしてる人の豊かさは向上するはずです。

都市をOSに、都市に必要な機能をアプリに例えるとすると、余った空間を柔軟に使い倒すさまざまなアプリが、民間の手で開発されていけばよいと思います。とはいえ、仮に空き家をオフィスに変えられるアプリができたとしても、当然それを使えるのはアプリをダウンロードしてる人だけになってしまいます。つまり、「アプリ化」をひたすら進めると、排除されてしまう人が出てくる可能性があるわけです。なので、アプリを開発するときにはそれを使えない人やそこに乗れない人たちへの配慮をきちんと組み込んでおかないとまずいですよね。

ぼくは、都市は万人のためにあるものだと思っています。日本ではほとんどの道路を無料で使えますよね。つまり、都市というOSは本来は無料で万人が使えるものとしてあるはずなので、アプリがそれを使ってただ稼ぐだけというのはズルいですよね。公共空間である都市を私的な空間に変えていくという、ある種の収奪行為だと思います。

だからこそ、アプリはそれを使えない人にもきちんとサーヴィスするべきだということです。利用者数のうち何割かはアプリ外の人が使えるようにするなど、ある種機械的に、思い切りよく弱い人向けのサーヴィスをアプリのなかにビルドインしていくべきだと思います。

コミュニティと隣人愛

自著の『平成都市計画史』のなかで、コミュニティは「土地」で結びつく仲間で、アソシエーションは「目的」で結びつく仲間だ、という整理をしました。収入も価値観も異なる人たちが土地を介して結びつくコミュニティを田舎くさいものと感じる人もいると思います。もちろん、暮らしのすべてで付き合いが強制されるようなものではなく「必要な事柄について同じ土地に住む人たちのなかで、資源を融通し合って助け合う関係をつくっていく」という程度のものがコミュニティだと考えています。

アソシエーションとコミュニティでは人々は異なる結びつき方をしているので、どちらもつくっておかないとこぼれ落ちる人が出てきてしまうのですが、自著のなかでは、平成期を通じてアソシエーションが育ち過ぎ、逆に町内会のような既存のコミュニティが弱くなってしまった、という整理をしています。

ただ楽観的に言うと、この先「同じ土地で再生エネルギーなどを一緒につくって分けましょう」というような、何らかの共有財産を管理する組織が新たに立ち上がって、コミュニティとして育つという可能性はあると思います。基本的に、土地で結びついたコミュニティなるものが、なるべく多く生まれて、日本中を埋め尽くしてほしいなと思っています。

結局、なぜコミュニティが大事かというと、当たり前ですが「アソシエーション」は目的外のことはしないからです。例えば、「アフリカの子どもたちを助けよう」というアソシエーションでは、アフリカに住む子どもたちを助けることはできても、自分の家の隣に住んでいるアフリカ系の家庭で飢えている子どもにはたどり着かない可能性があります。でも、コミュニティというつながりでは「隣のあの人が困ってるな」と気づくことはできますよね。

同じ土地に住んでる人に対する「隣人愛」って、「ちゃんとご飯食べてる?」ってくらいのちょっとした愛だと思います。でも、「隣人愛がそこにあるから近隣という単位が成立する」と考えるとわかりやすいですよね。

いま、世界の都市で行なわれている「ネイバーフッド」を起点にした都市政策の本質はおそらくそこにあって、「ネイバーフッドシティ」の目指すべき本質は隣人愛なのではないでしょうか。近隣のある一定の範囲を「自分の範囲」だと決めて、その中で助けるし助けられる。それができる都市をつくっていきましょう、ということなのではないかと思います。

饗庭 伸|SHIN AIBA
1971年兵庫県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。博士(工学)。同大学助手などを経て、現在は東京都立大学都市環境学部都市政策科学科教授。専門は都市計画・まちづくり。主な著書に『都市をたたむ』『平成都市計画史:転換期の30年間が残したもの・受け継ぐもの』〈ともに花伝社〉、『津波のあいだ、生きられた村』〈共著・鹿島出版会〉など。