自国開催の東京五輪。そのサッカー競技を日本の候補選手たちはどう捉えているのだろうか。かつて五輪は、世界の若手の品評会と言われた。五輪本大会には、欧州のクラブのスカウトが大挙して駆けつけたものだ。サッカー後進国の若手選手にとって、五輪は世界へ羽ばたく登竜門としての役割を担っていた。

 五輪の最終メンバーに選ばれて、五輪本大会で活躍すれば、欧州のスカウトの目に止まるかも知れない--。

 たとえば、中田英寿、城彰二、前園真聖など、1996年アトランタ五輪に出場した日本人選手たちは、それをモチベーションにしながら、選手間で出世を争うように、強化合宿や強化試合に励んでいた。

 アトランタ五輪は、1968年メキシコ五輪以来、28年ぶりの出場ということで、日本サッカー界は、現在以上に盛り上がっていた。にもかかわらず、日本がオーバーエイジ枠を使わなかった理由も、若手選手の品評会というコンセプトを重視したことにある。

 ところが、世界の若手の品評会という使命は、2004年アテネ五輪あたりになると、ワールドユース大会(現U-20W杯)に取って変わられることになった。情報化社会が進むにつれ、いかにサッカー後進国であっても、好素材が23歳になるまで、手つかずの状態でいるはずがない。欧州のスカウトが見逃しているはずがないとの認識が、常識的になった結果だ。

 2008年北京五輪になると、サッカー競技が五輪に存在する意義は、集客しかなくなった。五輪でメダルの価値が最も軽い競技。男子サッカーは、そう言われてはや10数年が経過する。

 現在選ばれている候補選手27人のうち、13人がすでに欧州組だ。オーバーエイジの3人を除いた24人中でも10人に当たる。五輪で活躍するか否かは、欧州クラブでのプレーが可能か否かと、深い関連性がないのが現状だ。五輪の代表選手に選ばれることと、選手としての明るい将来に、特に大きな関係がないことが分かっている中で、選手たちは何をモチベーションに、この合宿に参加しているのか。

 活躍すれば、日本代表への道が開けるからだろうか。日本代表の活動日程と重なっている現在、監督を務めるのは横内昭展氏だが、本大会で采配を振るのは森保一監督だろう。A代表と兼任する監督のお眼鏡に叶えば、先は多少なりとも明るくなる。プロ選手にとって、欧州のよいクラブから声がかかるのと、どちらの方にメリットがあるかと言えば微妙な問題になるが、五輪代表に選ばれるメリットはあると言えばある。

 だが、このコロナ禍だ。通常とは異なる集団に入り、行動を共にすることになれば、感染のリスクは増す。基本的な話を持ち出せば、ギャラは限りなく低い。ビックリするほど安い日当で拘束されている。五輪チームに限った話ではない。それは代表チームに招集された選手も同じだ。

 お金ではなく名誉のために、代表選手は戦っている。名誉とは選手としての箔や価値を意味するが、それらは代表に選ばれなくても得られる時代だ。日本代表絶対の時代は終わっている。4年に1度のW杯で活躍することも重要だが、それだけで箔や価値は決まるわけではない。五輪チームとなるとなおさらだ。五輪代表選手に選ばれても、特段、何かが変わるわけではない。かつてと時代は確実に変わっているのだ。

 何が言いたいかと言えば、選手はもっと大切に扱われるべきだと考える。五輪代表の選考レースが佳境を迎えているいま、その戦いを追いかけていると、なおさらそう思う。監督が、選手を振るいに掛けるという行為は、監督に与えられた特権であり、重要な仕事だ。その選考レースを、我々メディアも楽しむように伝えているが、回を重ねる毎に何か、変だぞと違和感を覚えるようになっている。