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言いたいことはわかる、よし、一緒に見よう!

あるのか、ないのか。心を強く持ちつづけないと、そこに向かう努力すらも困難であるという難局のなかで刻一刻迫ってくる東京五輪・パラリンピック。僕は一瞬の揺らぎもなく「ある」「あって欲しい」を祈念する立場から今日も健康管理と安心安全の追求に余念がありません。日程表とにらめっこしながら観戦計画を立てました。大会日程にあわせた有給も取得しました。まだ手元には届いていませんが、毎日1競技という頻度でチケットを確保しているはずのパラリンピック観戦に備え、「午前中は個人作業、邪魔しないで」というアピールを日々同僚たちに展開しています。出社はしません。会食はゼロです。

それは徒労に終わる行為かもしれませんが、むしろ充実した気持ちです。そういうことをしているとき、「あぁ、自分はこの全部がなくなるかもしれないと思ってもなお、これをやりたいと思う気持ちがあるんだ」と嬉しくなるのです。面倒臭がりをこじらせて、何ひとつやる気が起こらない自分ですが、胸に炎が燃える瞬間はあるのだと気づくのです。それは五輪が持つ「夢」のチカラの一端だろうと思います。この日のために、この目標のために、頑張ろうという。アスリートは心身と技術を鍛え、開催都市は自分たちの環境を世界の人をお迎えするためにアップデートし、人々は多様な世界に心を向ける、そういうことをさせる世界最大級のチカラが五輪・パラリンピックにはある。価値がある。湿気った心さえ燃やすほどの夢があると、こんな状況だからこそ気づくのです。

そんななか、国内スポンサーにも名を連ねる朝日新聞が、26日の朝刊にて「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」とする社説を掲載しました。通常なら社説2本ぶんのスペースを充てる「一本社説」という体裁で、強い意志をこめた社説でした。おっしゃることには一理ある。これもまた正しい意見だと思います。互いの正しさは対立しているかもしれませんが、いろんな意見があるのが世界です。主張と議論は自由闊達であるべきだと思います。


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意見は対立する立場ではありますが、その対立を分断にまでつなげたくはないな、というのが率直な気持ちです。そりゃあ一言二言、「スポンサーをしながら中止を述べるのか」であるとか「ジャパンコンソーシアムから外れて中継も止めるべき」であるとか「要求先はIOCが適切だということを認識しながら首相に言う政局スタイル」であるとか「冬の北京五輪のことは言わない親中スタイル」であるとか「パラリンピックについての意見はクチを濁すスタイル」であるとか、言ってやりたいような気持ちも生まれはしますが、最後にはやはり思い直すのです。対立はしていても、やっぱり朝日新聞やテレビ朝日とも一緒に五輪・パラリンピックを迎えたいな、と。

世間ではマスゴミなどという言葉もあるように、社会におけるメディアへの不信感というものは根深く存在します。感心しない報道姿勢というのもあります。ただ、負の面ばかりではなく、やはりこうした人たちが世界を股にかけて飛び回り、夜も朝もなく駆け回り、まだ何の日の目も見ていないような頃からたくさんの人たちの人生を追いかけ、記録してくれていることが僕らの生活ににぎわいをもたらしているのは確かなことです。特にスポーツというのは、ライブ中継であったり速報であったりの価値がとても高いエンターテインメントです。誰かがカメラを担いでいって、映像を送ってくれなければ、何とも寂しく、物足りないものになります。

朝日新聞やテレビ朝日がメディアとしての活動をすることによって生まれた実りというのもたくさんあると思うのです。主催する夏の甲子園は何十年にも渡って僕を含めたたくさんの野球ファンを楽しませてくれました。サッカー日本代表の試合や、水泳、体操、バドミントン、フィギュアスケートなどの中継を通じて、名場面を届けてきてくれましたし、その競技に多少なりとも還元をもたらしもしたでしょう。「勝ち馬に乗る」傾向は感じなくもないですが、それだけよく情報分析ができ、費用を惜しみなく投じてきたということでもあります。

そうしたメディアの活動があって、スポーツや五輪・パラリンピックというものは世界で広く愛されるものになりました。日本にいながらにしてヨーロッパのサッカーが見られたり、アメリカの野球が見られたり、南半球のラグビーが見られたりするのもメディアがあるからです。その結果、五輪は「商業主義」と揶揄されるほどの大きなお金が動く舞台となりました。何十億もの人がそれを見るからこそスポンサーもつきますし、活躍した選手はスターにもなります。それを支えたのがメディアの活動であり、彼らが拡大させた価値は五輪における収入全体の7割を占めるとされる「放映権料」というものにつながりました。アメリカNBCは2032年までの夏冬6大会ぶんの中継に約8000億円を支払っているとされます。日本ではNHKと民放連が形成するジャパンコンソーシアムが2018年大会から2024年大会までの夏冬4大会ぶんで約1100億円を払っているとされます。世界中から「その価値にお金を払いたい」というメディアが集っています。もちろん朝日新聞・テレビ朝日もその一員です。

そのお金は、すべてではないもののIOCから各競技団体に分配され、競技の運営や成長に役立っています。「IOCがどれだけガメているか」というのは一旦置くとして、各競技団体が「五輪から離脱して勝手にやろう」とは思わない程度には潤っているのでしょう。ヨーロッパのサッカーやアメリカの野球などのように、自らのチカラで興行を拡大させることができたところ以外にとって、五輪が生み出す循環というのは大切なのです。死活問題なのです。清く正しいアマチュアリズムではいい家には住めませんし、生活の心配をせずに競技に打ち込むことはできません。僕は、自分を楽しませ、勇気や感動を引き起こしてくれる人たちに幸せになってほしいですし、その奮闘に見合う程度には豊かになってほしいと思っています。もちろん自分のできる範囲でチケット代も払いますが、もっと大きなお金が取れるならどんどん取って欲しい。それは非難されるようなことではありません。お金は生きるためにとても大事なものです。

だから、朝日新聞も、テレビ朝日も、「中止だ」という意見はそれはそれとして、引き続きこの五輪・パラリンピックというものに関わり、メディアとしての仕事をしてほしいと思うのです。彼らも慈善事業ではありませんし、一度払ったものが返ってくるわけでもないでしょう。新聞が売れなければ新聞社は潰れます。CM枠が売れなければテレビ局は潰れます。主張は「中止だ」であっても、商売まで止めるわけにはいきません。それはこの難局にある全員が直面する課題です。とりわけ批判を浴びる飲食店や夜の街だって「みんなコロナにかかれー!」なんて思っているわけがないのです。誰だって健康がいいし、みんな健康なほうがいい。病気をうつしたくもうつりたくもない。早くおさまってほしい。ただ、心ではそう思っていても、今を生きるためには店を開けねばならない状況もあるのです。

僕はそうした苦境にある人と、朝日新聞やテレビ朝日は同じだと思うのです。心では「閉められるものなら閉めたい」と思いながら営業をつづける飲食店と、表向きは「中止だ」と叫びながら中継はしようとするメディアは、命とお金の間で戸惑いながら揺れ動くまったく同じものです。それはおかしなことではなく、命とお金はものすごく近くてほとんど重なるものですから、そのふたつで揺れ動くのは当たり前なのです。右手と左手のどっちが大事かを考えるようなもので「どっちも大事」しか答えはないのです。だからこそ、安心安全を追求しながら、抑制と挑戦とのバランスを取る必要があるのです。「どうにかしてできるように考えを変える」しかないのです。

そのバランスを取ることは可能だと確信しています。

すでに海外からの観戦者の受け入れは断念しました。関係者・メディアの来日数も大幅に削減されます。彼らは「バブル」のなかにおさめられ、行動を抑制されます。これまでも世界各地で同様にして大会が開催されてきましたが、バブルは十分に機能しています。五輪の規模での挑戦は初めてではあるものの、IOC側での用意により選手のみならずボランティアらも含めてワクチンを接種してもらう準備が進んでいるといいます。検査と隔離と抑制だけではなくワクチンというプラスの要素を備えてのバブルは、前向きに評価できるものです。リスクは永久にゼロにはならない以上、どこまで対策をしても「賭け」だと表現することはできるでしょうが、知性と科学と実績に基づいて勝算を高めて行なう賭けです。にもかかわらず、そうした準備と抑制のなかにある人たちを「変異株」扱いするのは差別的であると僕は思います。小学生が同級生をバイキン扱いするのと何も変わらないと思います。インド人を見たら変異株と思う、そういう腐った心根があるのだろうと呆れかえる想いです。いや、やっぱり「差別的」じゃないですね、明確な「差別」です。今すぐ変異株扱いは撤回し、謝罪すべきです。

彼らは世界から集い、世界に「光」を放つのです。

東日本大震災のあと、スポーツはがれきをどかすのにも建物を再建するのにも直接役立ちはしませんでしたが、なでしこジャパンや楽天イーグルスや羽生結弦選手の奮闘にどれだけの勇気や元気をもらったか。どれだけの「光」をいただいたか。コロナ禍のなか、あの「光」を託されたのは東京であり日本です。もっと過酷な状況にある国や地域、人々に、あの「光」で勇気や元気が生まれるかもしれない、そういう機会を預かっているのが東京であり日本なのです。日本のみならず、世界に「光」を放つ大会になるよう、どこまでやれるかはわからないけれど、精一杯尽力するのはホストの努めです。自分たちが楽しむための大会ではない。ホストとしての役得はもちろんあるけれど、自分のためではない、みんなのための「光」を預かっているのです。やれる限りやらなくてどうするのか。一日100万回のワクチン接種で足りなければ200万回だ、そういう尽力ができなくてどうするのか。必敗の状況にも諦めずに戦うアスリートたちから何を学んだのか。世界のなかのひとりとして僕は率直にそう思います。

かつて思い描いたすべては到底満たされないでしょうが、できうる限りのことをし、何かを諦め何かを除きながら、残った「光」を大切に届けることはできます。満たされないことに対して「犠牲を払う」のは覚悟の上です。観衆である僕は会場に入れないかもしれない。スポンサーは十分な効果が上がらないかもしれない。選手も万雷の拍手と歓声のなかで生涯最高の瞬間を手にすることはできないかもしれない。開催都市に祝祭のにぎわいは生まれないかもしれない。それも致し方ないことと受け入れる、そういう覚悟で「光」をつなぐのです。僕はそれを無意味なこととは思いません。「光」の価値を信じています。そうやってもがく人たちの姿は、さぞや愚かで滑稽に見えるでしょう。公道を走らない聖火リレーなんて愚かで滑稽ですよね。密を避けると言いながらドガチャガとコカ・コーラのクルマが先導するのは愚かで滑稽ですよね。しかし、愚かで滑稽であっても「犠牲を払う」覚悟のある人たちの決断です。形式上だけでもアレをやれば「スポンサーとしてお金を払う体裁」が整うのです。効果は薄くても、「一応やった」と企業としても株主に対しても体裁が整うのです。「光」がつながるのです。まさしく聖火をリレーするように。僕は、その滑稽さがカッコイイと思うのです。苦しみながら何かをやると、得てして滑稽になり、笑われるものですが、まぁ一緒に笑われましょう。致し方ありません。




だから、朝日新聞ともテレビ朝日とも「犠牲を払い」ながら、一緒にこの難局に向き合っていきたいと思うのです。新聞を買ってくれる人に対して、ああいうスタンスを取らなければならないというのは理解できますし、一方で払った放映権料は回収せねばらないというのも理解できます。「どっちも大事」です。だから、面従腹背でも面背腹従でもいいですので、それはそれ、これはこれで、変わらずにやっていきたいと思うのです。その映像が、その記事が、僕の好きなものを拡大させるのですから、意見が対立していようが敵であるはずがありません。撮りためた映像と、集めたエピソードを存分に奮って、素晴らしい記事を書き、素晴らしい中継をしてほしいと思います。

以上にて、僕の社説「夏の東京五輪 スポンサーおよび中継からの離脱を朝日新聞とテレビ朝日に求めない」を終わりたいと思います。「それはそれ、これはこれ」で一緒に頑張っていきましょう!これまでも、これからも!

↓「それはそれ、これはこれ」でいいと思います!


↓日本と世界に広がれ、「できるできるできるできる」の心!


できないと思えば何もできない!

どうにかしてできるように考えを変える!

そういう情報を発信するチカラもまた、メディアにはあるはずです!



夢に向かって頑張り、世界に「光」を放ち、それをレガシーとする、の心!