次世代の演歌界を担う存在として注目を集める歌手・中澤卓也。甘い歌声とマスクで女性を中心に大人気の25歳は、歌手になる前にはプロのレーシングドライバーを目指して活動していた。しかし4輪レースへのデビューを目前にして、資金難でプロへの道を断念。その後、音楽の世界へ進んだ中澤だが、現在、その夢に再び本気で向き合っている。NHK紅白歌合戦の出場も期待されている演歌界のプリンスは、なぜまたステアリングを握る決意したのか?


歌手になる前、プロのレーサーを目指していた歌手の中澤卓也

 レースを再開することになったのは、約1年半前に開設した僕のYouTube公式チャンネルがきっかけです。もともとファンの方々に歌をお届けするためにスタートしたのですが、そのチャンネルの中にモータースポーツの楽しさと奥深さを紹介する特別編「爆走!卓也くん!!!」を作ったことが始まりでした。

 音楽の道へ進んだ後もレースが好きで気にはなっていましたが、全然見ていませんでした。やっぱり見たら、夢を諦めなくてはならなかった当時の悔しい気持ちを思い出しそうだったから。でも、歌でご飯を食べられるようになって、レースを見てももう乗りたいと思わないだろうと考えて、最近、また見るようになりました。

 そのタイミングで「爆走!卓也くん!!!」をスタート。はじめはレーシングシミュレーターを体験する程度で終わるのかと思っていたんです。でも、レース界との人脈ができ、スーパーGTでチームマネージャーをしていた方の勧めもあって、久しぶりに新東京サーキットでレーシングカートに乗ることになったんです。

 カートのステアリングを握るのは8年ぶりだったのですが、たとえ撮影でサーキットに行くとしても、周りになめられたくなかった。パッとマシンに乗って、「初めて見るヤツだけど、アイツ、速いな」って思われたいなって部分がどこかにあるんですよね(笑)。


レースについて楽しそうに語る中澤

 だからサーキットを訪れる1カ月前から、移動時間や歌番組の楽屋でも新東京サーキットに乗った人たちのオンボード映像を見まくって、どこでブレーキとアクセルを踏んで、どんなラインを採っているのかを研究し、全部、頭に叩き込みました。自分の中でシミュレーションしてから、サーキットに向かいました。

 ステアリングを握ってコースで2、3周したら、レーサーを目指していた時の感覚や闘争心など、すべて蘇ってきました。9歳でレーシングカートを始めたのですが、やっぱり小さい頃から続け、身体に染みついているものは消えないんですよね。タイムもよくて、レース関係の方たちが「速いね」と興味持ってくれて。レースをしたいという気持ちがもう止められなくなりました(笑)。

 それから定期的に新東京サーキットに通うようになり、最近では富士スピードウェイに走りに行って、コースライセンスを取得しました。新東京サーキットにはプロのレーシングドライバーが時々練習に来ていますが、そこで昨年度のスーパーGT300クラスのチャンピオン藤波清斗選手とお会いする機会がありました。

 僕はその時、ミッション付きのカートを初めてドライブして、まずまずのタイムを出すことができました。すると藤波さんが、僕が走っていたマシンに乗ってくれたのです。僕より全然速いだろうと思っていたら、なかなか僕のタイムを上回れなかったんです。最終的には藤波さんが僕よりもコンマ2秒ほど速いタイムを出しましたが、僕の走りを認めてくれ、「本格的にレースに出ないか」という話を持ってきてくれました。

 藤波さんとつながりがある方が来年、入門用の4輪レース「Vita(ヴィータ)」に出場するためにチームを作るので、そのドライバーをやってくれないか、と。自分の速さを買ってくれる人がいたのはすごくうれしいですね。

 僕の所属事務所もレース活動にとても協力的で、「やらないで後悔をするより、とことんやってほしい」と言ってくれています。子どもの頃に地元の新潟・長岡のカートコースに毎週のように通って培った技術や力がどこまで通用するのか。行けるとこまで挑戦すると決めました。

 目標はスーパーGTのGT300クラスかスーパー耐久への参戦です。来年のVitaをスタート地点として、どういうルートで目標にたどり着くことができるのか。今、いろいろと検討していますが、人脈は築けてきているので、まずは自分がどれだけ技術を磨き、実績を積めるのか。あとは話題性を高め、スポンサーを用意できるのかにかかっていると思います。全力で準備を進めています。

 新東京サーキットへは月に数回は練習に行っていますし、最近、スーパー耐久などに出場しているロードスターのモータースポーツのベース車両を購入しました。これでいつでも練習できます。移動中も、スーパーGTのレース動画をずっと見てGT300のドライバーたちはどんなドライビングをしているのか、チェックしています。

 シート獲得のチャンスは、いつ何時、転がってくるのかわからないので、常に準備をしておかなければなりません。チャンスは限られています。チャンスが訪れた時に初めてコースやマシンに慣れるのでは遅すぎます。映像を見ながら各コーナーの走行ライン、ギアチェンジのタイミング、エンジンの回転数などを頭にたたき込こんでおけば、パッと乗った時でも力を出せると思っています。

 もちろんフィジカルも鍛えていますし、最近はカート時代に取り組んでいた反射神経や動体視力を鍛えるトレーニングも再開しています。Vitaの参戦に向け、今から体重を絞ってちょっとずつレーサーの身体に戻しています。


今、再びレースに挑む中澤。目標はスーパーGTデビューだ

 僕の原動力になっているのは、やっぱり15歳の時の挫折です。小学3年、9歳でレーシングカートを始めた時から、プロのレーシングドライバーになることしか考えていませんでした。高校は全国で初めてモータースポーツ科を設置した地元の私立開志学園高校に第1期生として進学。そこで入門用フォーミュラカーレース、スーパーFJに参戦するメンバーに選抜され、期待に胸を膨らませていました。「いよいよ4輪デビューか。結果を残してステップアップできれば、夢のスーパーGTにデビューできるかもしれない......」と。しかし、現実は甘くなかった。

 レースに出場する際には、マシンの管理費やエントリーフィーなどは学校で負担してくれますが、ヘルメットやスーツなどの備品、遠征費、クラッシュ時の修理代などは自分で払わなければなりません。そのため個人スポンサーを見つける必要がありましたが、そこでつまずいてしまった。自分の力がどこまで通用するかわからないまま、資金の問題で夢を諦めなければならなかった。その現実を当時はすんなりと受け入れられず、自分自身の心がグチャグチャになり、無気力な生活を1年くらい送っていました。

 あの頃は子どもで自分のことしか考えられませんでしたが、両親も相当悔しかったはず。特に父親はメカニックとして僕が9歳の時からずっと一緒に戦っていました。週5日は会社で仕事して、週末は僕のレースや練習に付き合って、走った翌日はマシンのメンテナンスをしていました。カート時代はもちろんですが、私立高校のモータースポーツ科に入学させるために銀行から融資を受けてまで背中を押してくれました。それなのに僕が突然、レースをやめてしまった。父親とはケンカになり、家庭内がギクシャクしたこともありました。

 その後、17歳の時、祖母の勧めで出場した地元開催の「NHK のど自慢」をきっかけに、現在のレコード会社の方に声をかけてもらい、歌手の世界に入りました。両親は歌手デビューした時にももちろん喜んでくれましたが、今になってレースへ復帰したことにすごく喜んでいます。やっぱり心の中にはレーシングドライバーにしたかったとの思いが絶対にあるはず。その夢を叶えて、もっと喜ばせてあげたい。スーパーGTのような格式あるレースに出場し、結果を残すことが一番だと思っています。

 ただレース活動を再開したら、「歌がダメになった」と言われたら、それは最低だと思います。歌手としてもトップを目指したいし、レーシングドライバーとしてもしっかりと結果を残したい。レーサーと歌手を両立させ、どっちも本気でやりたい。それが今の僕の夢であり、一番の親孝行だと思っています。

【profile】 
中澤卓也 なかざわ・たくや 
1995年、新潟県長岡市生まれ。15歳までプロのレーサーを目指した後、17歳で『NHK のど自慢』に出場し、見事に「今週のチャンピオン」に輝く。放送を見ていたレコード会社からスカウトされ、音楽の道へ。2017年1月に「青いダイヤモンド」でデビュー。同年の日本レコード大賞新人賞受賞。21年1月には6枚目のシングル「約束」をリリースし、次世代の演歌・歌謡界を担う若手として期待されている。憧れのドライバーは「ミスターGT」の異名を持つ脇阪寿一(現スーパーGT・TGR Team SARD監督)。