刑務所はエリートヤクザにとって「学びの場」である(写真: ookinate23/PIXTA)

一般社会とは、まるで常識が違うヤクザ社会。彼らは、なぜ刑務所のことをあえて「大学」と呼ぶのか? 暴力団取材のプロである溝口敦氏と鈴木智彦氏の共著『職業としてのヤクザ』から一部抜粋・再構成してお届けする。

溝口敦(以下、溝口):ヤクザにとって組への貢献というのは、懲役に行くか、お金を運ぶ、その2つしかない以上、金儲けに不器用な者は、自分の体をかけて、懲役に走ることによって、ようやくヤクザとしての自分の存在価値を証明することができる。

鈴木智彦(以下、鈴木):今はもう、懲役に行ったら、人生を棒に振ることになる。だから老い先の短い高齢のヤクザが、金のため、最後のご奉公を買って出る。でも、そういうヒットマンは体力がありません。

溝口:それは、年寄りが行くのと若いのが行くのではね。

鈴木:若いほうが身体能力も高いし、精神的な粘りも利く。6代目山口組の中核組織である弘道会の組員が岡山で池田組若頭(神戸山口組幹部)を殺害しましたが、捕まったのが32歳の若い組員でした。ああいうのを見ると、あっ、弘道会は、こんな若く将来ある若い衆をヒットマンに使えるんだ、と評価されます。

溝口:それだけの人的資源、経済的資源もあるし、求心力もあると。

鈴木:そうですね。人材がいてお金もあって、何より精神的に充足させられるんだということ。ただ、ヤクザの殺しはスキルではなく、性根です。根性の勝負です。最終的には腹が据わったヤツが怖い。軍隊のように、老兵に勝ち目がないわけではありません。

ヤクザが読む本とは?

溝口:昔なら若いころにそういう組のために重要な働きをする仕事をし、そして、刑務所の中で過ごす。出所すればある程度ヤクザとしての格は上がりますが、なかでも出世する人は刑務所内でよく本を読んで勉強している印象があります。

鈴木:刑務所を「大学」と呼びますもんね。

溝口:法律や経済の専門書を読んで、シノギで法の網の目をかいくぐるスキルアップにつなげたりする。ほかにも刑務所内での努力はあって、例えば6代目山口組組長の司忍は収監されている間、刑務所内で筋肉ムキムキマンになる筋トレに精を出しましたけど、曲がりなりにも78歳にして彼は立派な体と健康を維持していられるわけです。

溝口:ちなみに司は若いころ、出身母体の弘道会が名古屋を統一するための戦いで、大日本平和会系の組と抗争した際、12年ぐらい懲役に行っています。

山一抗争(1981年、山口組四代目を竹中正久が継いだことに反発した山広組組長・山本広が一和会を結成。終結までに25人の死者を出した抗争)のときには、一和会の中核団体である山広組系の組の若頭をさらって、脱会届を書かせるなど、かなりの働きをしていました。彼にもそれなりの暴力的な功績があったのでしょう。

鈴木:しかし、あまりに長く収監されすぎてしまうと、それはそれでヤクザとしてのチャンスを逃すことになります。

溝口:そういうことですね。抗争において組長クラスは、功績を得る仕事をしたうえで、自分は捕まらないということが大切。

鈴木:兵隊には兵隊の、部隊長には部隊長の役目がある。

溝口:今は指示したことがわかったら実行犯でなくても組長が殺人教唆で捕まることになり、懲役20年は行くでしょう。そうすると、その間が空白になって、組運営に加わるなんていうことは到底できなくなる。だから、捕まらないようにしなければならない。

もはや親が子をかばうような時代ではない

鈴木:実際は、暴力団において親分が関知しない殺人などありえません。裁判になったときのことを考え、直接的な表現を避けるなど、教唆にならないテクニックを駆使しても、リスクを覚悟し、はっきり意思表示をしないと組員は動けません。

昔のように親分は子分を庇ってくれません。顔色を見て、心情を察して殺したなんて言ったら、勝手なことをしやがってと処分されかねない。親分が教唆してない殺しなんてない。にもかかわらず、捕まらないということは、子分が絶対に口を割らないからです。つまり、親分がそれだけ心酔されていて、組織も統率されている。


その前提として、ヤクザ組織が維持できるのは、人柱になってくれた組員のおかげである。彼らあってのわれわれだ、実行犯の犠牲のおかげだ、いつも感謝しよう、みんなで称えましょうという気風はヤクザの基本です。雑誌のインタビューでも、抗争での物故者や実行犯を必ず称賛します。

溝口:6代目山口組の2次団体、司興業組長の森健司から、若頭の高山清司の言葉を聞いたことがあります。「懲役に行ってくれる者がいるから、わしらはうまい飯を食えるんだ」というのが高山の口癖なんだと。場合によっては、現役の組員よりも懲役に行った組員を大事にする。そういう伝統があるから、弘道会は抗争に強いんだと、森健司は言っていました。