【高木 敦史】常識がすべて跳ね返される、ロシアのSF映画『キン・ザ・ザ』その深すぎる中身 27年ぶりにアニメ版でリメイク

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カルト的人気の映画がまさかのアニメ化

唐突ですが、砂の出てくる映画って好きなんですよね。

『インディー・ジョーンズ』『マッドマックス』『ノー・カントリー』『ザ・ビーチ』『漂流教室』……挙げればキリがありません。別に砂が好きというわけではなく、砂にまみれた映画が好きなんです。なんでだろう。前世がサボテンだったのかもしれません。

さておき、そんな砂映画好きとして公開を心待ちにしていた映画があります。ロシアのアニメーション映画『クー! キン・ザ・ザ』です。

『クー!キン・ザ・ザ』の公式webサイトより

これはザ・砂映画であるとともに、映画好きにとってある種の驚きと賞賛をもって迎え入れられる作品でしょう。というのも、SF映画の歴史に燦然と輝く名作『不思議惑星キン・ザ・ザ』のリメイクなのですから。それも、監督自身の手によるアニメ化です。

『不思議惑星キン・ザ・ザ』は、ゲオルギー・ダネリヤ監督によって1986年に発表されたソ連のSF映画です。当時ソ連で記録的な興行収入をあげ、日本でも1991年、2001年、2016年とちょこちょこ公開されてカルト的人気を誇っています。

舞台は1980年。冬のモスクワにいた二人の地球人・ウラジミールとゲデバンが、たまたま異星人と出くわしたことによりキン・ザ・ザ星雲の惑星プリュクに飛ばされてしまい、ウエフとビーという二人の異星人の助力を得ながら地球への帰還を目指す物語です。

キン・ザ・ザはめちゃくちゃ変な世界

キン・ザ・ザの魅力を語るにはどうしても多角的になります。たとえば画面作りには、日本の古い……昭和の特撮ヒーローモノに通ずるザラザラとした手触りが感じられます。

舞台や登場人物、小道具のデザインもなかなかに味があります。見渡す限り砂漠の世界で、みんな北斗の拳みたいなファッションだし、お寺の釣鐘みたいな飛行機に、鼻にぶら下げた鈴、観覧車みたいな家……などなど。

設定もかなりディストピアです。上級民族に支配された完全なる階級社会で、ズボンの色でランク分けされ、逆らったら終身エティフ(棺桶閉じ込めの刑)です。そんなシビアな社会なのに、住んでる人々は皆ユーモラスです。ちょっと外した間に、ヘンテコなポーズ。極めつきは、異星人の駆使する謎の言語「キュー」と「クー」。

惑星プリュケにて「キュー」は公言可能な唯一の罵声語。「クー」はそれ以外の全ての表現です。なんでそれで成立するのかというと、彼らにはテレパシー能力が備わっているからです。ずっとクークー言ってたまにキューと人を指さす異星人たちを前にして、地球人の二人は最初こそ面食らいます。ですが、中盤にはすっかり馴染んで良いタイミングでクーできるようになっていきます。

『不思議惑星キン・ザ・ザ』公式webサイトより引用

見ている側も、気づけば違和感なくクーを受け入れていることでしょう。我々にはテレパシーはありませんが、日常的に謎の言語で会話を成立させていることはしょっちゅうですしね。「どうも」「ヤバい」「マジで」とか、流行りのネットスラングとか。互いの背景を共有し、行間を読んで、意味を察する。行間を読む力が高度に発達したとき、それはテレパシーと差のないものとなるのでしょう。

ただし、背景の共有とコミュニケーションの簡易化は必ずしも良い結果を生み出しません。時に極端な差別意識や格差構造をもたらします。たとえばキン・ザ・ザには、極端な分断があります。

常識の維持ために社会がひずむ

キン・ザ・ザの世界の人々は大きく「パッツ人」と「チャトル人」に分けられています。惑星プリュクはチャトル人の星なので、パッツ人はチャトル人に絶対服従です。また、マッチが貴重品で、これを持っていると黄色いズボンや赤いズボンがはけて、お辞儀を二回してもらえたりします。その他、徹底した差別と階級制度があり、人々は皆マッチを求めてあれこれ画策します。

地球人二人はなぜかパッツ人と判定されてぞんざいに扱われます。ですから、地球帰還の方法を探るためにとにかくマッチを死守・活用します。個人的にこの映画でもっとも魅力的だと感じるのは、この地球人二人が極限状況下でも徹底的にポジティブであるところです。

いきなり遠い星に飛ばされてそれからずっと一秒先には死んでもおかしくない状況が続くのに、とにかく前向きで貪欲なのです。どうやって地球に帰るか。そのために何をするか。恐怖や怒りに支配されることなく目先の危険に立ち向かうその姿を見ると、毎度勇気が湧いてきます。今回アニメ版の公開に先立ちDVDを見返しましたが、やっぱり勇気が湧いてきました。

パッツ人とチャトル人という大きな分断のある社会で、地球人二人には「なぜマッチが貴重品なのか」も「ズボンの色で差別される意味」も一切語られません。わかるのは、キン・ザ・ザの人にとってそれらの価値や格差がただ「常識」だということのみです。

キン・ザ・ザの社会がどのように形成されていったのかは不明ですが、一般的に考えれば最初は言葉でしょう。人が言葉を用いて主張を組み立て、他者とやりとりすることで共同体が生まれ、やがて社会となります。

その過程では、物事を円滑に進めるための様々な作法が生まれますね。法律であったり、暗黙のマナーであったり。やがて作法は常識として固定化され、そうするとそこにはもはや複雑な言葉など必要とされません。やりとりは合理化・簡略化され、人々の行動は個々の願望よりもいつの間にか存在していた常識に沿うことが優先されます。社会をひずませず維持するために常識が生まれたはずなのに、常識の維持のために社会がひずみ始めます。

キン・ザ・ザもまたひずみきっています。虐げられた人々は、自分が虐げる側に回るべく、下層同士で騙しあいを繰り返しています。頭にあるのはマッチのことのみで、目標は赤ズボンです。最初はきっと「権力者は赤ズボンをはいている」だったのが、いつの間にか「赤ズボンをはいていれば権力者である」という逆転が生まれたのでしょう。結果、どんな手を使ってでも赤ズボンさえ手に入れば偉い、となる。

赤ズボンを得た人は傲慢になり、逆に赤ズボンを得られなかった人は取るに足らない落伍者という烙印を押されます。常識が固定化され、言葉が簡略化されたことで誰もそこに疑いを持てなくなっています。赤ズボンに意味はなく、ただそれはかつて存在した価値の抜け殻です。

日本でも、物質主義から脱却してこれからは心の時代だ……なんてまことしやかに語られた時期がありましたが、そうして残っているのは抜け殻となった言葉だけと感じている方も少なくないのではないでしょうか。

「努力したから成功した」が「成功した人は努力した」はては「成功してない奴は努力してないのだ」と変わり、「安全な商品だから有名になった」が「有名だから安全に違いない」「無名なものは出来損ないだ」と変わった様を幾度となく見てきました。

本来なら「努力」「安全」に宿っていた価値が、「成功」「有名」に移動します。「成功」も「有名」も、本質部分の失われた抜け殻ですが、その抜け殻に人々は群がります。獲得量に応じてランク付けされ、競争が生まれ、勝者と敗者に分けられ、社会に分断が生まれます。

知らない社会と接したときの「照れ」

一個人から見たとき、社会とは「自分以外の全ての人間の総体」ですから、それは必ずしも自分のために存在しているわけではありません。なので至るところで知らない常識、知らない言葉、知らない価値観と接する機会があるでしょう。

新しい学校、新しい部活動、新しいサークル、新しい会社--そういうものに初めて参加したとき、なぜだか照れを感じた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

たとえば自分なんかは、未だに「エモい」という言葉の正確なニュアンスをつかめていません。なので「エモい」は使いたくないし、使わざるを得ないときには恥ずかしさを伴います。これは「エモいが存在する社会」に対して内心でどこか警戒しているからだと思っています。

「エモい」を使うことは、「エモい」という言葉の存在する社会を信用することと同意です。「エモい」を使うのが照れくさいのは、勇気を出して使ってみたら「それは違う」と拒否されてヘコんだ、騙された--というような、感情の毀損を恐れているのでしょう。

キン・ザ・ザに迷い込んだ地球人二人も、最初の「クー」は苦笑いしながら渋々のやつでした。しょうがねえなぁ。郷には入れば郷に従えか。そんな感情を隠しもしなかった。しかし状況が想像以上であることを知り、騙され奪われ続ける中で、いつしか二人が発する「クー」からは照れや迷いが消えていきます。彼らは地球への帰還のために、キン・ザ・ザという社会を信用したということです。

個人的に思うのは、この感情的な「照れ」を超えさせる何かにこそ、抜け殻ではない価値があるということです。実際、照れを超えたことでようやく彼らは異星人たちに違和感なく受け入れられ、異星人たちと対等に渡り合えるようになります。

というわけで「誰にも促されずに率先して自分からクーするシーン」は(すごく何気ない一コマですが)今回見返した際にいちばん発見があった瞬間でした。なんていうか、多様性の欠片もないキン・ザ・ザの社会に多様性の気配を感じたのです。

この作品に出てくる地球人二人と異星人二人の関係性で良いなと思うのは、互いの社会を「バカげている」と見下しあっていることです。「この星の連中はマッチのことしか頭にない。まったくバカげている」「地球? ズボンの色で階級が決まらない社会なんてバカげている」と、互いに互いをうっすらバカにしながらも、道中それなりに共存しています。

彼らは照れのない「クー」を経ることで、お互いの理解し得ない価値観を許容はせぬまでも、なんかそういうのがあるんだなと認知するに至りました。意味不明なことを言われてもきっと何かしら意味・目的があるんだなと耳を貸し、時には交渉を試み、拒否されてもゴネずに次の方法を模索する。助けを求めるけれど、助けに期待しすぎない。

行動の主軸は「こうしてほしい」ではなく、あくまで「こうしたい」である--「認知」が「尊重」に繋がり、「尊重」が「自立」を促す構図です。

互いに許容しないからといって交流を絶ったり敵対したりせず、むしろ相互理解を深めていく。彼らの距離感は心地よく、ともすれば正しい意味での異文化交流だといえましょう。

先ほど、個人にとって社会は自分以外の全てと書きましたが、同時に別の一個人から見たときには自分を含めた全ての人間が社会です。同じ人は二人といませんから、同じ社会を共有できる人も二人といません。ならば社会における目的--ひいては幸福も、二つとして同じものはないはずです。

とすると、昨今頻繁に語られる社会においての多様性とは、幸福の数が増えることだと思います。個々人が自分の幸福のイメージを明確化することにより、自分以外にも各々固有の幸福が存在することの認知や、どれが正解だと決めつけず尊重することに繋がるのではないでしょうか。

……なんて、検閲の厳しかったソ連の映画から多様性を見出すのもおかしな話ですが、そんな中で作られた映画であるからこそ、地球人二人の行動に幸福への前向きさや勇気が宿っているのかもしれません。

リメイクとしての「キン・ザ・ザ」

以上、やや話が逸れながらも自分なりのキン・ザ・ザの魅力を大いに語ってみました。オリジナル版では年長者の男性ウラジミール・マシコフが、少々頼りない若者ゲデバンを導いていく姿が印象的でした。

今回公開されたアニメ版は、時代が21世紀に置き換わり、主役の二人も変更されています。年長者のウラジミール・チジョフはやや偏屈で、対して若者トリクは柔軟でしたたかです。結果、若者により年長者の意識がアップデートされていくような作りになっています。

ひょっとしたら、現代の年長者はもう抜け殻になっているってことの示唆かもしれませんね(自戒を込めて)。

主役の変更によりストーリー展開も少々変更されていますし、その他の細部……携帯電話が登場したり、ウエフとビー以外にもマスコット的なロボットが出てきたりしますが、おおよそはオリジナル版を踏襲しています。

地球人二人の前向きさも相変わらずですので、オリジナル版とアニメ版で大きく印象が変わるということはないでしょう。また、実写ならではのチープな魅力は失われましたが、個性的なアニメーションの豊かな映像表現により、また別の魅力がふんだんにあります。

緊急事態宣言の延長により、公開スケジュールの変更もあることでしょう。気兼ねなく映画館に行けるようになるまでまだ時間がかかるとは思いますが、この映画はそんな不自由な今にこそ大きな勇気を与えてくれる作品だとも思います。早く宣言の解除される日が来ることを願っています。

ちなみに、自分は『クー! キン・ザ・ザ』を4月4日の先行上映で鑑賞しました。この日は監督の命日であり、この作品は監督の遺作でもあります。

ネットで情報を見て「これは急がないと満席になるぞ」と慌てて予約したのですが、当日いざ劇場に行ったら割とガラガラでした。コロナ禍で映画館に行く人が減っているとはいえ結構ショックで「こんなの自分の信用した社会じゃない!」と憤ったりもしたことをご報告しつつ、今回はこの辺で!