志村けんさん

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 新型コロナウイルスのパンデミックが発生してからおよそ1年が経過。収束どころか変異株の感染が拡大しつつある中、我が国は2度目のGWに突入した。厚生労働省の発表では、4月中に日本国内の累計感染者数は50万人を突破し、合計死者数は1万人を超えた。そのうちの1人となった、タレントの故・志村けんさんの死は日本中を震撼させた。

 志村さんの一周忌を迎えた2020年3月29日、各局では追悼特別番組が放送され、高視聴率を記録。改めて偉大な喜劇王の姿が再確認された。芸にストイックだったという志村さんだが、かつての師匠で「ザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)」のリーダーの故・いかりや長介さんとの確執は知られるところだ。

 志村さんが高校2年の17歳のとき、当時の人気バンドだったドリフへの弟子入りを志願。雪が降りしきる中、いかりやさんの自宅へ押しかけ、およそ12時間も待ちぼうけをしていたという話は有名だ。

 弟子入りを断られても食い下がらない志村さんの根性が買われ、まずはドリフの付き人として芸能界に足を踏み入れた。1974年、ようやく志村さんはドリフの正式メンバーに昇格。その後、『8時だョ!全員集合』(TBS系)に出演すると「東村山音頭」で大ブレークを果たした。

 「メンバー内で最年少だった志村さんですが、同番組のころからリハーサルで罵声を飛ばす厳格な存在。打ち合わせやリハーサルは四六時中行い、スタッフにも高いレベルを求め続けたそう」(芸能ライター)

 2020年4月に報じられたニュースサイト『シュージョプライム』では、志村さんの厳しさはメンバーや、いかりやさんに対しても同様だったことが報じられている。

 記事によれば、同番組のネタの大部分をいかりやさんが担当していたが、志村さんは「俺のほうがもっとウケます」と反発していたという。1982年ごろになると、ネタ作りの限界を感じたいかりやさんがドリフの中心的存在となった志村さんにコントを委ねる形となったよう。だが、両者の仲が険悪になっていったことも事実。ついに85年9月に同番組は終了することになる。

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 さらに、1998年まで放送された『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)においては、いかりやさんの作るコントに志村さんが出演を敬遠し、88年ごろには両者の対立が収録にまで影響を及ぼす事態に。

 番組の降板を要望した志村さんに対し、スタッフによる折衷案から、いかりやさん、仲本工事、高木ブーの3人と、志村さんと加藤茶の2人体制でのコントに。両者は同じ番組に出演していながら、リハーサル日も収録日も別々だったという。

 当時、月刊誌のインタビューで、志村さんは「僕は今のいかりやさんが面白いと思わない」とバッサリ。続けて、「コントは今一緒にできない」とまで言い放っている。

 ところが2001年末、ドリフが出場した『NHK紅白歌合戦』が両者を雪解けへと導いた。同番組では『全員集合』の衣装を5人がそろって着用し、メドレー曲を披露。その合間に往年の“少年少女合唱隊コント”をやることになるのだが、本番の前に行った全員でのネタ合わせが志村さんの心境に変化を及ぼし「不思議なんだけど楽しかった」とうれしそうに話していたと報じられている。

 一方のいかりやさんは、2003年6月発売の自著『だめだこりゃ』(新潮文庫)で「志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていた」と志村さんを高く評価した。 志村さんの追悼番組では、いかりやさんが亡くなる直前のメモ書きが紹介され、「志村がえらい」との走り書きが。確執から和解まで10年以上を要した両者だが、まぎれもなく盟友であったに違いない。