Automobili Lamborghini S.p.A.

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2021年の干支は丑年。そして雄牛のロゴをもつランボルギーニの創設者であるフェルッチオ・ランボルギーニの生誕105周年の年でもある。フェルッチオ・ランボルギーニは、1916年4月28日、イタリアのフェラーラ県チェント市にあるレナッツォの町で生まれた。当時は伝統的に家業は長男が継ぐものであったため、農家を営むアントニオとエヴェリーナの長男として生まれたフェルッチオの将来は決まっているも同然だった。

【粘り強く、頑固な性格だったランボルギーニの創設者と、彼の精神が宿る名車たち】(写真22点)

だが、若き日のフェルッチオは大地より機械に心惹かれ、子どもの頃から農場の作業場で午後を過ごすことを好んだ。牡牛座の典型のようなフェルッチオは実践的で粘り強く、頑固。早くからボローニャ随一の整備工場で働き始めたフェルッチオは、そこで様々な機械について学び、第二次世界大戦が勃発する頃には経験豊かでかつ評価の高いメカニックとなっていた。

その後、徴兵を受けた彼は、ロドス島に駐在する第50混成機動車部隊に配属される。航空機の牽引に使用するディーゼルトラックやトラクターなど、ロドス島内のあらゆる軍用車両の整備を担当する部隊で、フェルッチオは戦局の変遷に伴い、イタリア軍、ドイツ軍、英国軍の車両の修理に従事することになる。「ときには壊してもいた」と後に述懐しているというのは興味深いエピソードだ。終戦後、フェルッチオはロドス島で自身の最初の会社となる小さな修理工場を立ち上げた。

1946年にイタリアに帰国すると、フェルッチオは復興支援策の一環として交付されていた助成金を利用し、チェント市に自動車の修理や多目的小型車を製造する整備工場を開いた。整備工場を営むかたわら、地元農業の危機的状況を目にしたフェルッチオは、ロドス島で修理したトラクターを思い出し、古い軍用車両の部品を使って小規模農家でも手の届く安価な農業用トラクターを製造するアイデアを思い付いたという。

最初に手掛けたのはモーリス社製のトラックの改造で、フェルッチオはメインの改造に加えて自身の発明による燃料気化装置を搭載した。このトラックは1948年2月3日、チェント市の守護聖人の祭りで披露され、11台が売れたという。この成功が、フェルッチオを実業家の道へと進ませることとなった。フェルッチオはモーリス社製のエンジン1000基を購入するため、財産すべてを担保にして銀行から融資を受けた、この時、父の許しを得てランボルギーニ家の農場も担保にしていている。

1963年、イタリア有数の実業家となったフェルッチオは、世界最高のグランツーリスモの製造を決意する。ここで必要になるのが、グランツーリスモ用のロゴだ。ランボルギーニの名を冠したそれまでのトラクターには、三角形の中にFLC(Ferruccio Lamborghini Cento)の文字が配された、シンプルなシルバーのマークが付いていた。地元で名の知られたグラフィックデザイナー、パオロ・ランバルディに相談すると、ランバルディはフェルッチオに自身がどのような性格だと思うかと尋ねた。フェルッチオは「雄牛のようにtamugno(タムーニョ、厳しく、強く、頑固であることを指す方言)だ」と答え、フェルッチオが牡牛座であったこともあって、あのアウトモビリ・ランボルギーニの雄牛のロゴが誕生したのだ。

イノベーションと技術的好奇心(今日では「イノベーション」とひとまとめに言うもの)は、フェルッチオ・ランボルギーニと、世界最高のエンジニアである彼の仲間たちを象徴する特徴だ。1966年に発表されたミウラはグランツーリスモの歴史を塗り替え、試乗したジャーナリストたちはそれを表現するために「スーパーカー」という新しい言葉を生み出さなければならなかったほどだ。

1971年にプロトタイプが製作されたカウンタックはあまりにも画期的であったために、その後の17年間で1999台が生産され、1999年にディアブロが後を継いだ時点でも、いまだ色褪せない魅力を放っていた。そのディアブロは、ランボルギーニが初めて4WDモデルを登場させたスーパースポーツカーとなったのだ。1973年から1974年にかけ、フェルッチオはランボルギーニを手放すことになったが、彼の改良へのあくなき情熱と古い慣習に縛られない精神は引き継がれている。その精神は、彼が1993年2月20日にこの世を去ったあとも、今なおランボルギーニを特徴づけているといえるだろう。