【近藤 大介】伝説のスクープ記者が明かす台湾、中国、東アジアの「裏面史」 米中覇権争いに揺れるアジアの真実とは

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かつて産経新聞大阪本社に、伝説のスクープ記者がいた。1990年入社の吉村剛史である。100kgを超える巨体をくねらせ、重要事件のキーパーソンたちを、次々にネタモト(情報源)にしていった。やがてその活動範囲は関西圏に収まりきらなくなり、中国語や台湾語の素養を活かして、東アジアへと広がっていった。

コロナウイルスが中国・武漢で静かに猛威を振るい始めた2019年の年末、吉村は29年籍を置いた産経新聞社を辞してフリーランスになった。それから一年あまりが経ち、先週、初の単著『アジア血風録』(MdN新書)を上梓した。この本の出版を記念して、同い年のアジア・ウォッチャー、近藤大介と吉村剛史が、台湾、中国、そしてアジアの裏面史について、2時間にわたって語り合った――。(撮影/西崎進也)

李登輝元総統が語った「日本人への遺言」

近藤: このたびは、けったいな本を出されましたね。タイトルが、『アジア血風録』。まさに吉村さんのジャーナリスト人生を凝縮したようなネーミングではないですか。

吉村: ありがとうございます。すでに30冊以上も出している近藤さんと違って、私の場合、今回が初めての単著だったもので、まとめるのに一年もかかってしまいました。おかげで順調だった減量が足踏みし、また体重が戻ってきました(笑)。

近藤: 30本のポテンヒットより、1本の場外ホームランの方が、ファン(読者)の心に響くものですよ。中国、台湾、ベトナム、韓国……と、まさに「アジア秘史」のオンパレードですね。

吉村: いろんなネタモトに恵まれたのだと思います。

近藤: 私も同業者だから分かりますが、スクープ記事になる貴重な情報というのは、長年、足で稼いだ取材を積み重ねた末に、ある日突然、ご褒美のように降ってくるものですよね。もしくは、長年にわたって熟成した人間関係を築いた末に、ふと漏らしてくれる。この「長年にわたる」という部分がないと、成り立ちません。

吉村: 確かにそうですね。

近藤: その点、吉村記者はこれまで数々のスクープ記事を世に出してきましたね。山口組5代目組長の引退と6代目の内定、宅間守(池田小児童8人殺害犯)の死刑執行、中国人偽造団によるニセ一万円札事件……。

また、『アジア血風録』のメインディッシュとも言える第2章の「台湾篇」では、80ページにわたって、台湾関連の珠玉のスクープ秘話が書かれています。

今回初めて知ったのですが、総統を引退したばかりの李登輝(り・とうき)氏が、2001年4月に来日して、倉敷中央病院で心臓カテーテル手術を行う際のビザ申請をスッパ抜いたのは吉村記者だったんですね。あの時は、台湾の前総統が国交のない日本を訪問するということで、「一つの中国」を主張する中国から強い圧力がかかっていて、「ホントに来るの?」という感じでした。

吉村: 本にも書きましたが、羅福全代表(台北駐日経済文化代表処代表=台湾の駐日大使に相当)と大阪のホテルで懇談中に、李登輝氏本人から羅代表の携帯に電話が入り、「日本政府からビザが出ることになった」と告げたんです。それで急いで社に戻り、当時は僚紙『夕刊フジ』関西総局の司法・行政担当でしたが産経本紙朝刊用に「李登輝氏一両日中に訪日ビザ申請」という記事を書いた。実際に訪日してからも、大阪と倉敷の滞在に同行しました。

近藤: あれからもう20年になりますが、あの時の訪日は、1ヵ月遅かったら、森喜朗政権から小泉純一郎政権に交代していて、親中派の田中真紀子外相が就任したので、難しかったかもしれませんね。

ところで、「李登輝総統から最も好かれたジャーナリスト」とも言われた吉村記者が、最初に李氏を取材したのはいつですか?

吉村: 「最も嫌われた…」かもしれませんが、1999年の台中大地震の時です。当時私は、産経新聞本紙関西空港支局の記者だったんですが、台湾で巨大地震が発生したという一報が入った。それで台湾に土地勘があり、北京大学留学経験者ということで急遽、台北支局の応援に派遣されたんです。被災地に急行したら、死者2400人以上という阿鼻叫喚の中、李登輝総統がダム崩壊も懸念される現場にヘリコプターで降り立ちました。

その時、「産経新聞」の腕章を見て、「おお、こんなところまで来ているの。危ない場所だから気をつけて」と、日本語で気さくに声をかけてくれたんです。それでこちらも、ここぞとばかりに今後の対応策などを聞いて記事にしました。

近藤: 産経新聞社は、中国で文化大革命期の1967年、当時の柴田穂北京支局長が文革批判報道で中国から追放されたため、日本の大手メディアで唯一、台北に支局を置いた。その後、古森義久中国総局長が北京に赴任するまで、31年間も北京に支局を置かなかった。それで、台湾では特別視されていましたね。

吉村: その通りです。私は司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズなどのファンなのですが、第40巻の台湾紀行は、当時の産経の吉田信行台北支局長が、李登輝総統との面会などをアレンジしました。このシリーズの出版元はライバルの朝日新聞社なんですけどね(笑)。

近藤: 李登輝総統に、初めて単独インタビューを行ったのはいつですか?

吉村: それは総統を退任した後、私が『夕刊フジ』関西総局担当だった2002年です。緊張しながら桃園・大渓ご自宅の玄関に入ると、私を出迎えるため、裸足で自ら応接室に掃除機をかけている姿が目に飛び込んできました。その光景を見て、台湾の民主化を象徴していると思ったものです。

その後、台湾大学社費留学時代(2006年〜2007年)や台北支局長時代(2011年〜2014年)を含めて、何度もお話を聞きました。支局長退任の時も挨拶に伺いましたし、最後にインタビューしたのは、2018年7月、95歳の時でした。

インタビューに応じる台湾の李登輝元総統。著者にとって最後の面談となった2018年7月8日、台北市(吉村剛史撮影)

近藤: 李登輝総統は、まさに吉村さんにとって師匠のような存在だったんですね。私は一度だけ、2004年に台北北郊の自宅で2時間ほどインタビューさせてもらいました。応接間は白い胡蝶蘭で溢れていて、それまで飲んだことない馥郁たる凍頂烏龍茶をいただきました。名刺を交換したら、住所も電話番号もなく、ただ「李登輝」と金の3文字だけ刻まれた名刺でビックリしました(笑)。

吉村: ハハハ、でも気さくな方でしょう。

近藤: そうですね。開口一番、「ここは中国大陸と違って自由な国だから、何でも聞いてくれ」と促されました(笑)。

「22歳まで日本人だった」と言って、旧き良き日本語で流暢に語るものだから、言葉が刺さるんですよね。私が「国家のトップとして、大きな決断を下す時に心掛けていたことは?」と聞いたら、かっと私の目を見据えて、「それは信仰だよ。後ろには、もう神しかいないだろう」なんて言ってね。21世紀の日本人を叱る老翁という感じで、重い宿題を与えられたような面持ちでご自宅を後にした記憶があります。

吉村: 私が刺さった言葉と言えば、最後にインタビューした時に言われた「私は死に物狂いだった。お前、死に物狂いになったことがあるか?」ですね。こちらが問うたのは、「台湾は台湾のまま、22世紀を迎えることができるでしょうか?」。

それまでは、「テレビで『暴れん坊将軍』をみて理想の指導者の姿を考察しているよ」なんて言っていたんですよ。それが台湾の未来について質すや、温和な表情が消えて、一瞬困惑したような様子を見せ、強い調子の日本語で切り返してきた。李登輝氏は、核心を突かれて思わずホンネが漏れる時は、「オレ」「お前」と、まるで旧制高校の学生に戻ったような「書生口調」になるんですね。

近藤: それで、台湾はあと80年あまり生き残れると答えたんですか?

吉村: 「大丈夫だと思うが、民進党も国民党も、台湾が22世紀を迎えられるように、政府を変えていかないと」――それが答えでした。

その後、日本についても厳しい言葉がありましたよ。「日本はいつまでもアメリカを頼ってばかりいてはダメだ。憲法を修正(改正)して対等な協力関係を結び、自立しなければならない」「アジアを不安定にさせている最大の要因は、中国の覇権主義にあると言ってよいと思う。しかしアジアがむしろそのような状況にあるからこそ、日本と台湾は関係をより緊密化していかねばならない」……。

まさに「日本人への遺言」という感じでした。

森喜朗元首相、台湾での「舌禍事件」

近藤: その李登輝元総統も、昨年7月、97歳で大往生されましたね。その時の弔問外交のことが、『アジア血風録』に詳しく記されています。あの女性蔑視発言で先々月、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長を辞任した森喜朗元首相は、昨夏に台湾でも「舌禍事件」を起こしていたんですね。

吉村: 厳密には弔辞原稿作者の過失ですね。李登輝元総統が死去したのが、昨年7月30日で、森元首相が弔問に訪れたのが8月9日。その時、森氏が読み上げた弔辞が、一部で疑問視されたのです。

ただ、あの一件で興味深かったのは、普段は対立関係にある台湾の民進党と国民党の関係者たちが、それぞれ森氏の弔辞の異なるくだりを問題視したことでした。

近藤: それは興味深いですね。

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吉村: まず民進党側ですが、森氏は弔辞で、台湾ラグビーの先駆者で日本統治時代に日本代表チーム主将も務めた柯子彰(か・ししょう)選手に触れ、「私の父と柯子彰選手が、国籍を超えて、同じラグビーボールを追いかけました」と述べたのです。

柯子彰選手が活躍した時代の台湾は、大日本帝国が領有していたわけで、「国籍」は超えていない。李登輝世代には日本時代に誇りを持っている人々も多く、日本の元首相から日本時代を否定されたかのような違和感を訴えたのです。

次に国民党側は、森氏の弔辞の「あなたは台湾総統の経験者として、私は日本国総理として、それぞれの立場はありましたが……」と述べた部分にカチンと来ました。台湾は、いかに形骸化したとはいえ現状“中華民国憲法”の下にあり、彼らの立場では「中華民国総統」です。民進党だって独立綱領を棚上げしている。

対中国の関係で日本側がこの呼称を避けたい場合には、「台湾の総統」もしくは単に「総統」と呼びます。「台湾総統」と呼ぶのは、日本国首相に対して、「東京首相」と呼ぶようなものです。

近藤: あの時、アメリカはアレックス・アザー厚生長官という現職の閣僚級高官を送りましたが、現在の日本政府の高官は誰も訪台しませんでしたね。

吉村: そうです。今後の日本にとっての台湾の戦略的重要性を考えたら、李登輝氏と面識のある小泉進次郎環境相らを弔問団に混ぜ込ませるべきでした。世界の外交常識からも、弔問外交というのは政治的な制約が緩いのですから。対中関係も大事ですが、対台湾関係での二度とない大きな場面を無にしました。

近藤: まさにそうですね。日台関係に横槍を入れてくる中国だって、1989年に昭和天皇が崩御した時は、すさまじい弔問外交を展開した。これは当時の銭其琛(せん・きしん)外相が、回顧録『外交十記』で明かしています。

馬英九政権の高等戦術

近藤: ところで、他に本の第2章「台湾篇」で興味深かったのが、国民党の馬英九(ば・えいきゅう)前総統(任期は2008年〜2016年)を高く評価していることです。

吉村: これまた厳密には「馬英九政権を」ですね。国民党は「親中反日」、民進党は「反中親日」という日本で流布されていた短絡的な見方を否定したかったんです。馬英九政権時代の日本世論は、一部の台湾系識者の政治的主張の影響を受け過ぎ、現実をみていなかった。

馬英九政権の2期8年の間、日本と台湾が結んだ取り決めは28にも及び、これは1972年の日台断交後に結んだ取り決め全体の4割以上にあたります。しかも、投資取り決め(2011年)、航空取り決め(同年)、漁業取り決め(2013年)、租税取り決め(2015年)など、長年の日台間の懸案事項を次々に合意に導いた。馬英九氏本人は確かにアクの強さも目立ったけれど「馬英九政権」を「反日」と断じるのは乱暴過ぎました。

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近藤: 私は総統に就任する前の馬英九氏に、2回話を聞いたことがありますが、彼の信条である「馬上行動」(すぐに行動)通り、行動する政治家というイメージでしたね。インタビュー中に私の発言で気に留まったことがあると、横の秘書に「このことをすぐ調べるように」と指示していました。

いま吉村さんが挙げた中でも、安倍晋三政権が発足してすぐにまとめ上げた日台漁業取り決めは、歴史に残る快挙でしたね。

その前年9月に日本が尖閣諸島を国有化したことで、日中が一触即発となった。そこで2013年3月に習近平政権が発足するや、台湾担当から抜擢された王毅(おう・き)新外相が旗振り役となって、中台が連携して日本包囲網を敷こうとした。そうした矢先の4月に、尖閣諸島近海で日台が漁業取り決めを結び、日台間の連携を見せつけたため、習近平政権にとっては青天の霹靂でした。

吉村: そうです。それまで16回も日台間で交渉して暗礁に乗り上げていたものを、解決に導いたのです。台湾は尖閣諸島を「釣魚台」と呼んで、領有権を主張しています。しかし領土問題に触れずに、漁業資源を日台で分け合う方法もあるということを示したわけです。

馬英九総統は、ハーバード大学でその問題を研究して博士号を取得しており、自らの理論を実践したのです。

近藤: ハーバード大学の博士号の話は、私も本人から聞きました。

吉村: さらに言えば、尖閣諸島や歴史問題を巡る台湾の日本に対する反発に関しては、中国側は台湾側のポーズに謀られたと思います。例えば首相の顔写真を付けたマネキン人形の首を蛮刀で切り落とす台湾先住民の様子などが大々的に報じられたために、台湾も尖閣問題では自分たちと同じ反日だと思ってしまったのでしょう。

あの強烈なパフォーマンスの取材には私も行きましたが、デモ主催者らは日本メディアを大歓迎し、いい写真が撮れるようにと最前列に案内し、山刀を振り下ろすポーズを取って止まってくれるんです。さらにパフォーマンスが終わると、日本人記者たちに「ご苦労様でした」と言って、500ミリリットルの台湾ビール1缶と、2段重ねの豪華な弁当を振る舞ってくれた。いったいどこが反日なのかと思いました(笑)。

近藤: 中国では考えられませんね。私も2012年の中国の反日デモは現地に行きましたが、本当に殺気立っていました。日本人だとばれたらどうしようかと恐れながら、デモ隊の人たちに話を聞いたものです。

吉村: 当の馬英九総統自身も、言葉やポーズ以上の反日政治家ではなかった。どら焼きなど日本のお菓子が大好物で、「会見時にはカステラを手土産に」というのが、事情を知る外交関係者らや記者らの鉄則になっていました。文明堂だったか、福砂屋だったか、お気に入りの銘柄があって、それを手土産に持っていくとかなりの確率で本人の口に入る、と聞いたことがあります。

近藤: 私も取材中、反日政治家ということを本人にぶつけたら、否定されました。中国語で話していたのですが、「近藤(ジンタン)は日本語読みだと、コンドウでしょう。私はいま、日本語も勉強しているんです」と言われ、驚きました。

それから親中の部分については、「自分が中国大陸と深く付き合っていくのは、中国大陸に統一されたいからではなくて、いつか台湾の素晴らしい民主を中国大陸にも根づかせたいからだ」と言い訳していました。それでも私がしつこく聞き続けたら、やおらコーヒーを飲み干し、「お代わりをくれ」と係員に言った後、私に告げました。「私には中国茶を飲む習慣はない」。

吉村: 馬英九氏らしいセリフですね。逆に言えば、馬英九政権は、中国大陸との関係を当時の情勢の中で重視したからこそ、日本との太い関係も構築できたと言えます。2010年にECFA(両岸経済協力枠組み協定)という中台間の自由貿易協定に相当する取り決めを結び、翌年には中国人の台湾への個人旅行も解禁した。こうした実績を積み重ねていったため、日台の接近にも中国側は黙認せざるを得なかったわけです。

近藤: なるほど、大した戦略家ですね。

吉村: 馬英九政権は、実にしたたかでしたよ。2014年に台湾で、「ヒマワリ運動」が起こりました。その前年に、日台漁業取り決めを締結したことに中国側が怒り心頭で、台湾側は中国をなだめるため、ECFAにサービス業を加える段階で慌てて譲歩したと思います。それに台湾の若者たちが、「職を奪われる」などとして猛反発した運動です。

ところが発効には、台湾の立法院(国会に相当)の批准が必要です。この時、まず立法院議場が、続いて行政院(内閣府に相当)が「ヒマワリ運動」の若者たちに占拠されたのですが、馬英九政権は、行政院では即座に学生らを排除しながら、同じ国民党内で馬氏の対立相手の王金平氏が院長(議長)を務める立法院議場の方は3週間以上も手を付けなかった。バリケードはありましたけど、無防備な連絡通路があって、警官隊はいつでも突入できたのに(笑)。

つまり、「学生らの議場占拠によって立法院で批准ができません」と、結果的に中国側へ不履行の言い訳に利用したようにも見えました。

近藤: 「ヒマワリ運動」は私も取材に行き、現地の学生運動家たちとビール片手に議論しましたが、馬英九政権がそんな高等戦術を駆使していたとは知りませんでした。

台湾は本当に「親日」なのか

近藤: 本の第2章でもう一つ気になったのが、「台湾で『日本神話』が崩壊してきた」という吉村さんの指摘です。

吉村: これにはいくつかの要素があります。第一に、日本の地盤沈下です。

昨年来の新型コロナウイルスの世界的流行の中、台湾は「台湾の奇跡」と称されるほど封じ込めに成功した。ところが、「アジア最高の先進国」と台湾人が崇めていた日本は、モタモタするばかりで、感染者数は増える一方。おまけに究極のアナログ国家であることも露呈してしまい、いま「第4波」が拡大しようとしている。台湾から見れば、コロナによって、「日本神話」のメッキが剥がれてしまったわけです。

さらに文化的な側面でも、例えば台湾の卓球選手・江宏傑(こう・こうけつ)氏が、福原愛さんというVIPの大和撫子(やまとなでしこ)を射止めて盛り上がったけれども、愛さんは嫁ぎ先の家族と仲違いするわ、日本での不倫が報じられるわで、「大和撫子神話」も崩壊しました。

近藤: なるほど。私には昔から変な特技が一つあって、それは有名人が結婚した際、そのカップルがうまくいくかどうかを言い当てられるんです。愛ちゃんと江選手の婚約会見を見た時、失礼ですが「これはダメだ」と直感しました。

愛ちゃんは仙台に生まれ、青森の高校に通い、中国遼寧省で技を磨いた「北の女」。ところが会見で見た江選手は、完全に「南国の男」です。テイストがまるで違ったので、黄金カップルの将来を悲観視したのですが、まさか日台関係にまで影響してくるとは……。

吉村: 台湾での日本の影響力低下ということで、もう一つ指摘しておきたいのは、本にも書きましたが、李登輝元総統に代表される日本統治時代からの筋金入りの親日派、知日派の減少です。2000年に李登輝総統が引退し、民進党の陳水扁政権2期8年を経た2008年以降の国民党政権下では江丙坤(こう・へいこん)元国民党副主席が、豊富な日本人脈から「ミニ李登輝」とも言われましたが、2018年の暮れに死去しました。

近藤: 江丙坤氏には、私もインタビューしたことがありますが、東大で農業経済の博士号を取ったことが自慢だったですね。同じく農業経済を専攻して京大へ留学したものの、徴兵に取られて学士を取得できなかった9歳年上の李登輝氏を意識しているなと思いました。でも政治家の器という点では、李登輝さんの足元にも及ばず、やはり「ミニ李登輝」でしたね。

吉村: それでも江氏は中台、日台の両にらみで経済戦略が立てられた実務家。政権も代わりましたが、死去後は日台関係に深刻な影響がじわりと出始めています。例えば、今年1月20日、台湾新幹線の新型車両「N700S」の導入を巡って、日本との交渉を打ち切ったと、台湾側が唐突に発表しました。

これまでは日台間の交渉が難航すると、台湾側の知日派重鎮が間に入って、双方の顔を立てる形でうまく解決したものです。事実、台湾新幹線だって、当初はフランスのTGVを導入するはずだったのが、知日派重鎮たちの尽力によって、車両は日本の新幹線にひっくり返った経緯があります。

近藤: そうでしたね。私も2007年の台湾新幹線開通の時には取材に行ったので、よく覚えています。

今年1月の新幹線問題は、日台間の秘密交渉だったのが、台湾側からどんどん情報が漏れだした。台湾メディアの報道では、「日本側は日本国内の価格の4倍を吹っかける時代錯誤の植民地的手法に出た」なんて書かれていました。

この問題をさらに取材したところ、日本産食品の輸入解禁問題にも影響が出ていることが分かりました。台湾は2018年11月の住民投票で、原発事故のあった福島県を始め、茨城、栃木、千葉、群馬の5県の食品の輸入を禁止しました。ただこの住民投票の拘束期間は2年なので、昨年11月に切れたわけです。それで日本側は、今年3月の東日本大震災10周年の「目玉」として、台湾での5県の食品輸入解禁を目指した。しかしそこに新幹線問題が起こって、食品問題も頓挫してしまった。

吉村: いまの蔡英文(さい・えいぶん)政権が進めているのは、英語の第2公用語化であって、日本語重視とはいえません。国際交流基金が昨年6月に発表した「海外における日本語教育の実態調査」によると、台湾での日本語学習者は中国、韓国よりも少ない17万159人。かつ前回2015年の調査では22万45人だったので、5万人も減っているのです。台湾から日本を訪れた観光客も、2019年は約220万人でしたが、昨年はコロナの影響で約70万人と、3分の1以下に減りました。

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近藤: 私は、新著『ファクトで読む米中新冷戦とアフター・コロナ』(講談社現代新書)で詳述しましたが、いまはむしろ、台湾の方が日本よりも5年先を行っていると思っているんです。

鴻海(ホンハイ)精密工業がシャープを買収し、CTBC銀行が東京スター銀行を傘下に置く時代です。半導体のファウンドリーとして世界で過半数のシェアを誇るTSMC(台湾積体電路製造)が、今年2月、茨城県つくば市に研究施設を作ると発表しましたが、あれも経済産業省が三顧の礼を尽くして、ようやく招致に成功したしたわけです。

吉村: そうですね。もう一つだけ強調しておきたいのが、10年前の東日本大震災で世界最高の200億円以上もの義援金を贈ってくれた「親日台湾」は、台湾社会の根っこの重要な一面ではあるけれども全部ではないということです。

日本では一面的な台湾像ばかりが強調されますが、彼らは米中対立の狭間で、いつ中国が攻めてくるか知れない危機感の中で生きているわけで、年に一度、「万安防空演習」という大々的な防空訓練も行っています。

非常にしたたかに生きていて、日本で言うなら、5年前にNHKの大河ドラマ『真田丸』で取り上げられた戦国時代の真田家のようです。私の記者としての経験上、台湾を深く取材することは、強大な中国を取材するよりも難しい気がします。

中国「拘束・拷問体験記」

近藤: 私の中で、「吉村記者=台湾愛」のようなイメージがあるせいか、本の第2章の話が、すっかり長くなってしまいました。残った時間で、簡単に他の章の話も聞かせて下さい。

第1章の「中国篇」は、副題に「拘束・拷問体験記」と、おどろおどろしく書いてある。1946年日本生まれの在日華僑二世で、岡山県華僑華人総会の劉勝徳(りゅう・かつのり)会長が、2016年11月に訪中した際、突然拘束され、スパイ容疑で116日間も取り調べを受けた事件です。

吉村: 習近平政権は2014年に反スパイ法を施行し、翌年以降、少なくとも15人の日本人や日本在住の中国人が現地で拘束されています。記憶に新しいところでは、2019年9月に北海道大学教授が、北京市内のホテルで拘束されました(2ヵ月後に釈放)。

彼らは拘束を解かれて帰国した後も、口を閉ざしています。北大教授にも取材しようと手を尽くしたけれどもダメでした。そんな中、以前から付き合いのあった劉勝徳氏が、昨年8月、取材に応じてくれたのです。おまけに、116日間の拘束の一部始終を綴った手記を私に託してくれました。手錠が使用された場面などには記憶違いもあったようですが、中国での拘束の実態がこれほど明らかになったのは、初めてのことと思います。

劉勝徳氏が帰宅直後にまとめ、著者に託した中国での拘束“拷問”体験記(吉村剛史撮影)

近藤: 本当に、生々しい記述が続きますね。2年前の北大教授事件の時は、私も取材しました。事件が日本で報道された日、たまたま日本現代中国学会の年次総会が開かれ、現代中国の研究者たちが一堂に会していました。年次総会は、北大教授の件でもちきりだったそうで、「もう中国には恐くて行けない」という声が続出したと、参加した教授が教えてくれました。

吉村: それは中国側にとっても、損失ですね。劉氏もそのことを強調していました。

近藤: そう思います。北大教授の件を取材する中で、いまから10年ほど前、中国の大都市で会社を経営していて、スパイ容疑で約1週間拘束されたという日本人から話を聞きました。その人物はこう語っていました。

「中国当局が日本人を拘束する時は、必ず理由がある。それは第一に、日本人を威嚇して何かを吐かせようとする場合。第二に、中国の金銭絡みのスキャンダルに巻き込まれた場合。第三に、中国の権力闘争に巻き込まれた場合だ」

吉村: なるほど。私が取材した劉氏は、おそらく第三のケースだったのではないでしょうか。劉氏自身は、「駐日大使時代の王毅外相のことをしつこく聞かれた」と言っていました。

インタビューに応じる劉勝徳氏=2020年8月28日、岡山市北区(吉村剛史撮影)

近藤: それにしても、吉村記者が『産経新聞』(2017年2月9日付)に、劉勝徳氏が中国で拘束されたことをスクープしたことで、この一件が公になり、それが劉氏の早期解放につながったのではないですか?

吉村: そのことは、劉氏自身も言ってくれています。私が強調したかったのは、劉氏は「反中」どころか、その半生を日中友好と華僑華人の地位向上に懸けてきた筋金入りの「愛国者」だということです。

劉氏は手記の中で、「祖国愛も冷めてくる……こんな思いをするのは私で最後にしてほしい。どうか立派な、誇りに思える祖国であってほしい……」と綴っています。このくだりを読んでいて、身につまされました。

ベトナム独立の父、谷本喜久男少尉

近藤: 第3章は、中国の南に位置するベトナムの話ですね。いまのベトナムを独立に導いた日本人がいたという、これまた「吉村スクープ」です。

吉村: 私は13年前、1974年にフィリピンのルバング島から帰還した小野田寛郎・元陸軍少尉(1922年〜2014年)にインタビューする機会があって、その最後に、「僕なんかより、もっと大きな働きをした日本兵がいた。(陸軍中野学校)同期の谷本君など」とポツリと言われたんです。でもそれっきりになっていて、昨年、フリーランスになったのとコロナ禍になったので、過去の取材資料を整理していたら、小野田氏の発言が目に留まった。

そこで、たまたま谷本喜久男氏の故郷である鳥取の知人を訪問する機会があったので調べてみたら、谷本氏の唯一の存命している肉親である次女とつながった。「父の遺品をそろそろ整理しようと思っていました」と言われて、関係資料一式を預けてくれたんです。それらは、谷本氏自筆の『大東亜戦争の追憶 安隊中部越南工作の記録』『回顧録 ベトナム残留記』『四十年振りに訪れたベトナム行――報告記』など、大変貴重な手記でした。

軍服姿の谷本喜久男氏(谷本氏の次女、牧田喜子さん提供)

近藤: 太平洋戦争中、欧米列強に植民地化された多くのアジア諸国を日本軍が支配し、日本の敗戦後も、その一部が現地に残って独立戦争に協力したという話は、各地にあり、私もいくつか取材したことがあります。中国、インドネシア、ミャンマーなどです。インドネシアに関しては、2015年に現代ビジネスのコラムに書きました。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/43099

しかし、ベトナムはブラックボックスでした。吉村記者も本に書いていますが、ベトナム戦争で日本は間接的に同盟国のアメリカの味方をしたこともあって、ベトナム共産党軍に加担した日本軍人というのは、なかなか声を上げづらかったのでしょうね。

吉村: そう思います。谷本少尉ら日本軍は1945年3月、仏印駐留フランス軍の武装解除と、阮朝バオ・ダイ帝を擁立して独立を宣言させることを企図して、「明号作戦」を展開します。実際、仏印各地の主要フランス軍部隊の武装解除に成功し、フエ城内に軟禁状態となっていたバオ・ダイ帝を救出、ベトナム独立を宣言させました。

谷本少尉は、日本の敗戦後もベトナムに居残り、ベトナム軍を教育・指揮して、1954年9月まで、山岳遊撃戦線に身を投じたのです。そこで、ベトナムの再占領を目論むフランス軍と死闘を繰り広げ、第1次インドシナ戦争の「関ケ原」とも言うべき「ディエンビエンフーの戦い」(1954年)にも関与し、勝利に導きました。

近藤: 「ディエンビエンフーの戦い」は高校の時、世界史の授業で習ったことがあります。「フランスからの独立を勝ち取った戦い」ですよね。しかし、そこに元日本軍将兵が関わっていたとは知りませんでした。

吉村: 火力で勝るフランス軍に、「突っ込め!」などと日本語の号令で立ち向かったそうです。そうして鍛えられたベトミン軍が、後にベトコンとなって、ベトナム戦争でアメリカ軍を駆逐したわけです。

谷本元少尉は1996年、自らが創立時の教官となったベトナム初の士官学校「クァンガイ陸軍中学」の創立50周年式典に招かれ、ベトナムを再訪。その後「戦功章功一級」などを授与されて、2001年に他界しました。

近藤: いまや中国人を上回る数のベトナム人が技能実習生として来日し、昨年10月には菅義偉首相が、最初の訪問国として、ベトナムを訪問しました。『アジア血風録』によって、両国の秘史についても脚光を浴びるきっかけになればと思います。

ソウルで許永中にインタビュー

近藤: 第4章は「韓国篇」、あの許永中(きょ・えいちゅう)氏の独白録です。

私から上の世代は、1990年に発覚し、戦後最大の金融事件と言われたイトマン事件は、いまでも鮮明に記憶に残っています。住友銀行と傘下の商社イトマンを巡って、3000億円が闇に消えたとも言われますが、その「主役」の一人が、大阪出身の在日韓国人2世で、「闇の帝王」と呼ばれた許永中氏でした。

吉村: その通りです。許永中氏は1991年に逮捕され、紆余曲折を経て計13年の懲役刑が確定しますが、2012年に国際条規に基づき、母国・韓国での服役を希望します。それでソウルの刑務所に移送されて、翌年、仮釈放されました。そんな許氏を、2019年8月に、ソウルでインタビューしたのです。

インタビューを終え、著者と夕食に出かけた際の許永中氏=2019年8月31日、ロッテホテ ルソウル・ロビー(吉村剛史撮影)

近藤: 許永中氏は最近、『海峡に立つ 泥と血の我が半生』『悪漢(ワル)の流儀』など、立て続けに日本で自伝を出版していますね。どちらも読みましたが、戦後の焼け野原の大阪の様子や、初恋の話を延々と綴っていたりして、読み応え十分でした。

吉村: 詳しくは『アジア血風録』に書きましたが、イトマン事件に関して本人は、「絵画を担保にイトマンから約410億円を借りただけで、その担保の絵画には1点の偽物もなかった」と主張していました。

近藤: イトマン事件は私も取材しましたが、隠れたキーパーソンは、「住友銀行の天皇」と呼ばれた磯田一郎会長の愛娘だと思います。彼女が絵画ビジネスを通して許永中氏らと繋がっていたし、私生活でも怪しい動きをして、後に離婚します。彼女がすべてを明かしたら、真相は詳らかになるでしょう。

吉村: なるほど。兵庫県明石市出身で、いまでも大阪を主な活動拠点としている私としては、許氏を取材していて、「大阪と在日」というテーマが興味深かったですね。東京と異なり、大阪の社会は、昔も今もアジアとの関係が濃厚で、切り離せない。あ、念のためですが韓国通ライターに同姓同名の「吉村剛史」(トム・ハングル)氏がいますが、全くの別人ですからね。混同されている方もいますので…(笑)。

近藤: 巨漢記者の方の吉村さんの本の中で、許永中氏が、過去半世紀で最悪といわれる昨今の日韓関係を嘆くくだりが印象的ですね。

「在日1世らがかつては同じ日本人だったことを、日本も韓国も北もなかった時代があったことを、日本人は忘れてしまっている」

この辺りは、前章の台湾にも通じるところがあります。そして、こう続ける。

「最後の最後は、上皇さまのご訪韓しか、このもつれた糸をまとめきれんのかもしれんなあ」

吉村: 私も、重い言葉だと思いました。

「ニセ日本人」疑惑をスッパ抜き

近藤: 終章の第5章は、「WHO(世界保健機関)と中国、台湾篇」ですが、台湾について、第2章で書き足りなかったのではないですか?

吉村: そうかもしれません(笑)。新型コロナウイルスに関して、周知のようにWHOのテドロス・アダノム事務局長は、中国寄りの発言に終始しました。昨年4月8日には、会見で「台湾人から人種差別的な中傷を受けた」という主旨の発言をします。そんな中、林薇(Vivi Lin)という英国で学ぶ台湾人女子医学生が、動画投稿サイトで、反論のメッセージを投稿し、一週間で170万回以上も再生されたのです。

近藤: 日本でそのニュースをいち早く報じたのが吉村記者で、記事が話題になりましたね。昨年フリーランスになってからの吉村記者は、頻繁に記事を書くわけではないけれども、書けば必ず話題を呼びます。

コロナウイルス関連の記事では、『朝日新聞』の記者が台湾入りして、その「隔離体験記」が不謹慎だと顰蹙を買っているという記事や、孔鉉佑(こう・げんゆう)駐日中国大使が台湾のWHO総会への参加容認を示唆し、後に発言自体を打ち消したという記事……。

吉村: やはり振り返ってみると、自分のホームグラウンドである台湾に関する記事が多いですね。

近藤: 昨年1月に、台湾総統選挙の取材でご一緒した時に知ったのですが、吉村さんは台湾では有名人ですからね。2015年に台湾で公開されて大ヒットしたドキュメンタリー映画『湾生回家』(日本統治時代の台湾で生まれた日本人が台湾に帰郷する話)の女性プロデューサーで、「湾生の孫」ということになっている「田中實加」氏が、「ニセ日本人」であることをスッパ抜いて、台湾中が大騒ぎになりました。

吉村: 陳宣儒(ちん・せんじゅ)という高雄出身の生粋の台湾人だったんですね。あの時は、私の携帯電話が、台湾メディアからの問い合わせで鳴りやまないほどでした。

あの一件で問題の根が深いと思ったのは、彼女が日台間の友好感情を利用して、自著で虚構の歴史秘話を披瀝するなどして、ビジネスにしようとし、その先棒を担がされた日本人も多くいたことでした。親日、親台なら虚構も容認するというようでは健全な関係とは言えません。

近藤: 日台双方に影響を与えていく吉村記者の存在は貴重で、今後もスクープ記事を期待しています。本日はどうもありがとうございました。

吉村剛史(よしむら・たけし)
ジャーナリスト。日本記者クラブ会員。1965年、兵庫県明石市出身。日本大学法学部在学中の1988〜89年に北京大学留学。日大卒後、1990年、産経新聞社に入社。阪神支局を初任地に、大阪、東京両本社社会部で司法、行政、皇室報道などを担当。夕刊フジ関西総局担当時の2006〜07年、台湾大学に社費留学。2011年、東京本社外信部を経て同年6月から、2014年5月まで台北支局長。帰任後、日本大学大学院総合社会情報研究科博士前期課程修了。修士(国際情報)。岡山支局長、広島総局長などを経て2019年末に退職。以後フリーに転身。主に在日外国人社会や中国、台湾問題などをテーマに取材。共著に『命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件』『教育再興』(産経新聞ニュースサービス)、『ブランドはなぜ墜ちたか―雪印、そごう、三菱自動車事件の深層』(角川書店)、学術論文に『新聞報道から読み解く馬英九政権の対日、両岸政策-日台民間漁協取り決めを中心に』などがある。Hyper J Channel・文化人放送局YouTube番組でMCを担当。東海大学海洋学部講師。