最近はダイエットにも取り組み、イメージチェンジしたクイズ王、古川洋平さん(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第92回。

どうやってクイズ王になったのか

古川洋平さん(37歳)は高校2年生の時に『パネルクイズ アタック25』の高校生大会で優勝して以来、さまざまなクイズ大会で活躍した元クイズ王として知られている。


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現在は『クイズ法人カプリティオ』の代表として、クイズのイベントや、YouTubeチャンネル『カプリティオチャンネル』の制作配信、クイズの本やカードゲームの執筆と、クイズに関わるビジネスを生み出している。

「好きなことで食べていく」

を実現するのは難しいが、古川さんは成功しているように見える。

古川さんが、どのような経緯でクイズ王になり、そしてクイズ作家になったのか。そしてその裏でどのような苦労があったのかを聞いた。

古川さんは、宮城県の仙台市に生まれた。

父方の両親は14代続いた床屋の家系で、もともとは伊達家お抱えの床山だったという。古川さんは、仙台市の歓楽街・国分町のど真ん中にあったバーバー古川で生まれた。

「両親と父方の両親全員でそこに住んでいました。店を閉めた後の、床屋の店内で遊んでいた記憶があります」

古川さんのお父さんは家業を継がず、店は畳んで引っ越した。その後、宮城県内を何度か引っ越した後、小学校からは仙台市八木山に落ち着いた。

「父は

『自分の子どもをクイズ王にしたい!!』

と願っていました。それで幼稚園の僕にテレビ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』のボードゲームを買ってくれました」

そのボードゲームには、おもちゃの早押し機と過去問題集がセットになって付いていた。

「ウルトラクイズの問題は幼稚園児には難しかったんですよ。でも絵本がわりに読んでいたので、わからないなりに記憶が残っています。例えば『ドイツの秘密警察はゲシュタポ!!』とかそんなことを言っている子どもでした(笑)」

小学校時代、テレビ番組『マジカル頭脳パワー』がはやって、クイズやなぞなぞに夢中になった。

「廊下に壁新聞ならぬ壁クイズを貼って、級友たちに競わせたりしていました。今思えば、当時からクイズ作家的なことがやりたかったのかな? と思います」

ただ小学校時代のクイズ熱はその程度でおさまっていた。

小学から中学にかけてはバスケットボール部で汗を流していたし、中学ではバンドもはじめた。

そしていちばんハマっていたのは、マジックだった。中学生のときにはプロのマジシャンのお店に通い、技を教えてもらったり、グッズを買ったりした。将来はプロのマジシャンになりたいと思っていた。

「宮城県仙台第一高等学校に進学したのですが、残念ながら奇術部(マジック部)はありませんでした」

古川さんの自宅は山の上のほうにあり、高校は山のふもとにあった。自転車で行き40分、帰り1時間20分をかけて通っていた。

「毎日通学だけでこんなにも運動するなら、さらに運動部で体を動かすのはキツイなと思いました。だったら高校は受験勉強に集中して、部活はいつでもやめられそうなクイズ愛好会に入ることにしました」

古川さんの高校の部活動には「愛好会→同好会→部」という序列があった。つまり最も格下の部活動だった。

「今は大体の進学校にはクイズ研究部はありますが、当時は宮城県内では仙台一高しかありませんでした。

クイズ愛好会ができて10年目でしたが、とくに目立った結果も出さず、プレハブ小屋にクイズ好きが集まっているだけという状態でした」

入部体験に顔を出すと、先輩たちは古川さんが幼少時代に父親に買ってもらったウルトラクイズの早押し機と同じものを使っていた。1年生だけで早押しクイズをさせてもらったら、過去問題集と同じクイズが出てきて、目立った活躍ができた。

「すごいね!! がんばれば『アタック25』の高校生大会で優勝できるよ!!」

と先輩たちにおだてられ、気持ちがよくなって入部を決意した。もちろん先輩たちも、古川さんが優勝するとは思っていなかっただろう。

だが、古川さんは1年後、本当に『アタック25』の高校生大会で優勝することになる。

『パネルクイズ アタック25』はまず宮城県大会が開かれないと出場できない。運がいいことに、古川さんが高校2年生のときに宮城県大会が開かれた。

「面接でマジックを披露したらものすごくウケました。それでそのまま全国大会に出場させてもらいました。本番のあいさつでも指からハンカチを出すマジックを披露しました」

一芸に助けられて出場することができた。

『パネルクイズ アタック25』の最大の特徴は、5×5マスのパネルをオセロの要領で取り合うルールだ。

「僕はオセロがすごく好きだったんですね。だから正解数よりも、むしろオセロの腕で優勝することができました。

だから、そのとき僕が日本でいちばんクイズが強い高校生だったか? というとそんなことはなかったと思います。そのような形で優勝してしまって

『これはめちゃくちゃ頑張って日本一になるしかない!!』

と思った高校2年の夏でした」

後輩と一緒に「タイムショック21」でも優勝

学校の勉強はそっちのけで、徹底的にクイズの勉強に取り組んだ。

歴代のクイズ王が書いた、クイズの書籍を買って覚えた。類似問題を作って、仲間同士で出し合った。

授業中でも、クイズにできそうな話が出たら『クイズノート』を取り出して書き込んだ。そんな折、1学年下にとても優秀な部員、酒井英太さんが入ってきた。

彼とコンビを組んで『タイムショック21』に出場し、見事に優勝した。

「有名な進学校を倒して優勝しましたから、先輩たちもすごく喜んでいました。

全校集会のときに『クイズ愛好会』を『クイズ同好会』にしてくださいと提案すると、すんなりと同好会に格上げすることができました」

それで満足するべきかもしれないが、次に日本一になるのはいつのことかわからない。部の立場を上げるのは今しかないと思った。

「続けて『クイズ同好会』を『クイズ研究部』にしてくださいと提案しました。先生たちは『それはダメだぞ』って言いかけてましたが、生徒主体の学校だったので、ノリで押し切る形で部に格上げすることができました」

まだインターネットが盛んではない時代だったから、テレビでの活躍の反響は大きかった。多くの人に声をかけられた。

古川さんは出演した番組内で志望校を「立命館」と書いた。ライバルたちは「東京大学」「京都大学」と書いている人が多かったので、目立った。

その結果、立命館大学へは「クイズ推薦」という形で入試をせずに進学することができた。入学後は『立命館大学クイズソサエティー(RUQS)』に所属した。

「僕が立命館大学に進学したかったのは、ウルトラクイズの時代にRUQSが無類の強さを誇っていたからなんですね。僕は古い本を読んで『立命館は強い!!』と思いこんでましたが、実際に入ってみるとそれほど盛り上がってはいませんでした」

ゆるいテニスサークルに、ガチガチのテニスアスリートが入部したような形になってしまった。

しかし

「とにかくクイズしまくろう!!」

と頑張った。

2003年から、毎年開催されている早押しクイズ大会『abc』は、現在も続いているクイズプレーヤーが目標とする大会の1つだ。

古川さんが入学した年に第1回が開催され、もちろん出場した。結果は準優勝に終わった。

「それまで本当に勝ちたいと思ったクイズ大会では負けたことがなかったので、悔しかったですね。負けたときのビデオを何度も繰り返し見ました。そしてとにかくガリ勉をしました。大学1〜2年が人生でいちばん勉強した期間でした」

大学では、歴代のクイズの蔵書に当たることができた。

その頃にはインターネットもだいぶ使えるようになってきていたので、ネットから情報を仕入れることもできた。

「今思うと、20歳前後の記憶力はえげつなかったなと思います。とにかくなんでも覚えられました」

そして大学2年、3年、4年と『abc』を見事に3連覇した。古川さん以来、3連覇を果たした参加者はいない。

製パン会社は1年で辞め、公務員に

大学卒業後は、製パン会社に就職した。

だが、クイズプレーヤーを辞めるつもりはなかった。一生クイズプレーヤーを続けるし、一生いちばん強いのは自分だ!! と思っていた。

「ただ入社したのはとても仕事が厳しい会社でした。残業が220時間という月もありました。クイズ大会に行きたいなんて言おうものなら、上司から怒られました」

実際クイズ大会に行くどころか、寝る時間もなかった。居眠り運転で2回も交差点に突っ込んでしまった。

死ぬほどつらいし、このまま続けたら本当に死んでしまう……と思った。そして2年目の夏に会社を辞めた。

「勤務条件をガラッと変えるべく、ホワイト企業に勤めようと思いました。最もホワイトなのは、公務員だろうと考えました」

仙台の実家に戻り、1年間試験勉強をした。そして東京23区の公務員試験に合格した。

「どの区に行きますか?」

と言われたので、葛飾区を選んだ。

「葛飾区には生涯でいちばんのライバルであり友達の石野将樹が住んでいました。超天才と呼ばれていたクイズプレーヤーで、東日本のエースでした。

彼の家にはよく足を運んでいたので、葛飾区には愛着がありました」

公務員として最初の3年間は、生活保護のケースワーカーが仕事だった。住所不定の人などを相手にする、死と隣り合わせの壮絶な現場だった。勤務時間などは前職よりもだいぶ楽になったが、それでもかなり厳しい仕事だった。

だが、嬉しい出会いもあった。

「公務員になって2年目に、後輩職員が入ってきたんですが、僕は彼女のことを熱烈に好きになってしまいました。後輩だったけど年齢は一緒だったし、食品営業の前職があるなど共通点もたくさんありました」

古川さんは付き合ってほしいという告白を飛び越えて、いきなり

「結婚してくれ!!」

とプロポーズした。もちろん断られてしまった。

「でもその後、何度も『結婚してくれ!!』と言い続けていたら、結婚してくれました。29歳のときでした」

結婚したころ、古川さんの仕事は生活保護のケースワーカーから、税務課に移っていた。

「税務課の仕事が僕には本当に合いませんでした。ザ・お役所仕事という感じの、現場感のなさがつらかったです。

そして企業でもダメ、公務員でもダメ、という自分のこらえしょうのなさにも凹みました」

古川さんは奥さんに、

「本当に仕事がつらくてさ……」

と愚痴った。すると

「やめちゃいなよ」

とアドバイスしてくれた。

「結婚して数カ月でやめられないよ。あなたのご両親だって怒るでしょ?」

というと、彼女は

「そんなの黙っておけばいいんだよ。もし本当に食べられなくなったら、生活保護を受ければいいよ」

と明るく言った。

「生活保護を受けている人たちが、どのようなつらい状況の中で生きているか、2人とも痛いほどよく知っていました。知ったうえで、そう言ってくれる彼女は、なんてすごい人なんだろうと思いました。

もちろん、彼女は本当に生活保護を頼りにしようとはしていないのですが、踏ん切りのつかない僕にわかりやすいようにそう言ってくれたんだと思います」

2013年末で会社員を辞めフリーランスに

古川さんはその会話をした翌日、辞表を出した。

2013年12月31日に公務員を辞め、2014年からはフリーランスになった。

「一生続けられる本当にやりたい仕事は何か? と考え、クイズ作家になることにしました。そして2014年9月に『クイズ法人 カプリティオ』を立ち上げました」

『クイズ法人 カプリティオ』は総合的なクイズ・パズル制作集団だ。

「僕はクイズプレーヤー時代10人の弟子をとりました。ちなみに10人中4人が日本一になっています。10番目の弟子である、松崎利浩が一緒に仕事をしたいと声をかけてきました」

2人で仕事をはじめ軌道に乗ったころに、高校時代の後輩だった酒井英太さんが薬剤師を辞めてメンバーに加わった。

そして翌年になって、東日本のエース石野将樹さんが仲間に加わった。

現在も『クイズ法人 カプリティオ』は、基本的にこの4人で運営している。

「まるで少年漫画でライバルや敵だったキャラが集結する胸アツな展開でした」


(筆者撮影)

ただ仕事は最初からうまくいったわけではなかった。

クイズ作家という職業は定着していなかった。テレビ番組の場合、放送作家が兼務している場合が多かった。放送作家のつてで大学のクイズ研究会の人たちが問題を作ったりする場合もあった。

「クイズ作家としての仕事はすぐにいただけました。作家が抜けたから手伝ってくれと言われました。製作チームに入れてもらう感じですね。そのときお声がけくださった方々には今でも本当に感謝しています。ただ、クイズを出題する相手がクイズオタクから一般人に変わったので、最初は言い回しや難易度に戸惑いました。

仕事には恵まれましたが、お金が振り込まれるのに時差があって、最初の半年はほぼ無収入でした。2014年の下半期から、なんとか暮らしていける程度の収入はもらえるようになりました」

まだその頃はクイズプレーヤーとして戦った。テレビ番組ではない、クイズマニアが集まるディープな大会に出場していた。

「30歳すぎまではまだ選手でしたね。衰えは感じていなかったんですが、仕事が忙しくなって大会に割く時間がなくなりました。

選手を1〜2年離れていてもあまり記憶が落ちなかったので、このまま一生知識は覚えていられるものだと思っていたんです。選手に戻りたくなったらいつでも戻れるだろうと。でも選手から離れて5年経ったら、思い出せなくなっていたんです。いつの間にかプレーヤーとしては戻れないところまできてしまったという感じでした。ただ、今はもうプレーヤーには未練はないですね」

2017年『クイズ法人 カプリティオ』はテレビ番組依頼のクイズ制作を基本的には受けないことに決めた。

クイズ作家としてはかなり思い切った判断に思える。

「クイズ番組のクイズを作るのは、クイズ作家なら誰しもが憧れる仕事です。ただ、憧れとビジネスは時にわけて考えなければならないとも思いました。ビジネスパターンとしてなにか違うアプローチはないか? と考えました」

たとえば、アプリ内の一口雑学コーナーだったり、商品の懸賞謎解きだったり、企業に必要になることはままある。

そんなクイズを欲している企業と『クイズ法人 カプリティオ』が直接手を結んで仕事をしたいと考えた。

「最初はチラシを作って、企業に配ったりしました。しかし1件も返答がありませんでした」

「クイズいりませんか?」

と言われても、ほとんどの企業はいらない。

「クイズを作らなければならない」

という状況になってはじめてクイズ作家を探しはじめる。そしてネットで検索して見つかったクイズ作家に、作問を依頼するケースがほとんどだ。

「クイズ法人 カプリティオ」を探してもらうために

だから『クイズ法人 カプリティオ』が企業に発見されるような存在になるのが、仕事を増やすための最も効率的な作戦だと気がついた。

「まずイベントを開催することにしました。『はじめてのクイズ』という初心者向けのイベントを毎月休まずに続けました。最初は十数人だったお客さんも、合計150人を超える動員になりました。

そして僕自身はとにかくお声がかかれば、テレビなどのメディアに出まくりました」

古川さんはクイズ番組はもちろん『水曜日のダウンタウン』や『ドラえもん』など、幅広いテレビ番組に出演した。

「最初は『とにかく売れたい!!』『結果を残したい!!』とがむしゃらに働きました。時間があくと会食に顔を出したり、異業種交流会に出て人脈を増やしたり、意識高い系のビジネスマンがやりそうなこともしてきました。スケジュールに隙間ができると不安になるし、年間数日しか休みませんでした。今思うと、少しやりすぎていたかな? と思います」

2019年3月からはYouTubeにて『カプリティオチャンネル』をオープンした。

2カ月に3回ほど、スタジオを借りて10本ほどため撮りをする。メンバー各々が考えたクイズを持ち込んで、当日お互いに披露するスタイルだ。

チャンネルスタートから2年で、チャンネル登録者数は9万人を超え、まとまった収入も得られるようになってきた。

「クイズを作る仕事は基本的に、注文されたクイズを作って、売って、おしまいになります。誰かが買うという行為が起きた時点で、ビジネスとしてはいったん終了となってしまうのです。これからはサブスク的な側面があるサービスが強い時代です。つねに一定の収入が得られる仕事はなにか? と考えました。メルマガ、オンラインサロンなどいろいろありますが、僕らにはYouTubeが最適だと思いました」

『カプリティオチャンネル』では、特色を出すために水平思考推理ゲーム「ウミガメのスープ」に力を入れた。

「ウミガメのスープ」とは出題された不可解な状況に対し、回答者がYES・NOで答えられる質問を繰り返し、出題者が想定した答えを突き止めるクイズだ。

ブームになって30年が経つが、根強い人気のあるクイズ形式だ。

水平思考推理ゲームを配信しているチャンネルはたくさんあるが『カプリティオチャンネル』は問題の質が高く、また回答者の質問が早くて的確なので人気が高い。

「まずは『ウミガメをやっている集団』として認識してもらえればいいかなと思いました。ウミガメを見たついでに、ほかのクイズも見てもらえればなお嬉しいです。

チャンネル開設当初はメディアに出ていたのがほぼ僕だけで、ほかのメンバーはまだあまり知られていませんでした。ただ、彼らももともと日本一を争っていた優秀な人たちですからYouTubeを通じて必ず魅力が伝わると思っていました。最近はメンバーそれぞれの個性が評価されるようになって、とても嬉しいですね」

2018年には『ひらめき脳を鍛える ナゾトキ水平思考クイズ』(古川洋平著/幻冬舎単行本)を発売した。

評判はよかったが、続編はカードゲーム『水平思考クイズゲーム ウミガメのスープ』(幻冬舎)に切り替えた。

「書店で水平思考推理ゲームの本が置かれている棚はライバルがたくさんいます。戦略的にカードゲームとして販売したほうが、目立つのではないか? と予想しました。おかげさまで書籍時代より多くの方に手にとっていただくことができまして、第2弾も発売しました」

古川さんは脇目も振らず、ガツガツと積極的に働いてきた。そんな2020年3月、コロナ禍が訪れた。

たまっていた仕事をこなしたら、ついになくなった

「イベントは一気にできなくなりました。だったら、今までいつかやろうと思っていた問題集作成などの仕事をこなそうと思いました」

毎日たまっていた仕事をこなしていった。そしてついにやることがなくなってしまった。

「はじめてやることがなくなりました。やることってなくなるんだ、ってちょっと驚きました。

それで何をしようか考えた末に『リングフィットアドベンチャー』が思い浮かびました」

2020年の3月の段階で、古川さんの体重は112キロあった。

通っている内科では、中性脂肪、血糖値、尿酸値、などに問題があると言われていた。

古川さんは何度かダイエットを試みたことがあったが、長くは続かなかった。

「とにかく運動を続けるのが苦手なんです。ランニングとかが無理だし、人前でスポーツをやりたくない。そう先生に話したら、『リングフィットアドベンチャーを買ってみてください』と勧められました」

『リングフィットアドベンチャー』は任天堂のフィットネスゲームだ。

古川さんは言われたとおり、任天堂スイッチとゲームソフトを購入した。だが当然、プレーをする時間はなく、箱を開けずに棚に突っ込んでいた。

「軽い気持ちでプレーしてみました。プレーをしたら、面白いように体重が落ちていきました。せっかくだから食事にも気を使うことにしました」

今までネックだった運動は『リングフィットアドベンチャー』でこなすことができた。

また緊急事態宣言であったため、会食などができなくなり外で食事をする機会も激減した。早寝早起き、運動、適度な食事、と健康的な生活を送ることができた。

「20キロほど痩せたときに、視聴者のみなさんに『痩せてる!!』って言われたんですね。で嬉しくなって、このまま痩せ続けたらどうなるかな? と思いました」

ダイエット当初は企画ではなかったが、そこからは企画にしていった。22キロ減、32キロ減、42キロ減で、痩せていくたびに動画を出した。


(筆者撮影)

今回のインタビュー当日は、古川さんが48キロのダイエットを終えた直後だった。

「楽しく痩せられました。目標の体重になった日に、美容院の予約をして髪の毛をオレンジにして、コンタクトを入れました。そして自分が着たい服を買い着ました」

テレビなどで見ていた姿と、まったく違っていたのでビックリしてしまった。

古川さんはダイエットを経て、気づきがあったという。

「これからは好きなことを仕事に」

「今までは『売れるには』『仕事につなげるには』を前に立てて行動をしていました。それで成功した面もありますし、仲良くなった人もいます。だから後悔はしていないのですが、ただ前職をやめるときに考えた

『これからは好きなことを仕事にしよう』

というのは叶えていなかったな、と思いました」

古川さんはイベントをしていても、動画を作っていても『みんなが何を見たいか?』『みんなが何をしたいか?』を考えるクセがついていた。

「多少自分が損をしても、みんながやりやすくなるならそれでいい」

という自己犠牲をしても、全体を回すというやり方をやってきた。

「自分にはそのやり方が向いていると思っていたのですが、ただ『それがしたいのか?』というと違いました」

そもそもイメージチェンジをしたいという気持ちはあった。だが、そうすると絶対に

「前のほうがよかった」

という人があらわれる。

今までは、ほかの人の期待に答えられないのが嫌だから、イメージチェンジはできなかった。

「僕の中では、周囲に気を遣って生きてきたつもりだったのですが、今思えばわがままな面が出ることも多かった。だから、周りからは好き勝手に生きているように見えていたと思っています。気を遣っているつもりなのは自分ばかりなうえに、自分の人生をちゃんと歩けていなかったんです。ダイエットは本当にやりたいからやった企画でした。それでパラダイムシフトのように大きく考え方が変わりました。

『これからは自分のしたいことをしよう』

という気持ちになりました」

イラストレーター、ライターなどのクリエーティブなフリーランスは、会社員から

「好きなことで食べていけていいね」

などと言われることが多々ある。

だが、多くのクリエイターは

「好きなことだけでは食ってはいけてないよ!!」

と反論するだろう。

中には、仕事を続けるうちに絵を描くことや、文章を書くことが嫌いになってしまう人もいる。しかしそんな人でもそもそもは

「好きなことを仕事にしたい」

と思っていたはずだ。

『これからは自分のしたいことをしよう』と決めた古川さんが、今後どのような仕事をされるのか、楽しみに待ちたいと思う。